虚構のオリ
カーテンが閉められたままの薄暗いマンションの一室。男はPCに向かい、せわしなくキーボードを叩いていた。
その表面は埃と食べカスにまみれている。指先の爪は伸びたまま、さらに茶色く変色している。
周囲も同様におよそ人間の住む環境ではなく、床が見えないほどに散乱した生活用品とその残骸で埋め尽くされていた。
時折黒い物体が物陰から顔を覗かせカサカサと音を立てるが、男は全くの無関心を貫いていた。
悪臭と瘴気が室内を包み、じっとりと澱んだ時間が流れる。
「チクショウ、絶対に許さないぞ・・・」
モニターを凝視したまま男は呟いた。
しかし、何年にも渡り他人と話す機会が無かった彼の口からは「あぁうぅ・・・」というくぐもった音が漏れたのみだった。
再び長い沈黙が続いた。1時間・・・2時間・・・3時間・・・。
気付けば日が暮れようとしていた。どこからか虫の音が聴こえてくる。
男が行っていたのは執筆活動だった。いわゆるファンフィクション、または二次創作と呼ばれるものである。
「あの小娘ぇ・・・生意気な・・・」
またも呂律の回らないつぶやきを繰り返し、禿げ散らかした頭をボリボリと掻く。
ガムを噛んでいる訳でも無いのに、口からはクチャクチャと汚らしい音が漏れる。
モニターの中では、彼の稚拙な文章によって非道の限りを尽くされている少女が居た。
20年ほど前に放送された、あるアニメ作品。構図自体はよくある学園ものだった。
原点回帰ともいえる、スタンダードでストレートな作風。ひねくれた作品が主流になっていた、当時の業界にはむしろ斬新だった。
TVアニメ10期、OVA20本、劇場版5作、ドラマCD17本、キャラクターソング38曲・・・。
アニメ氷河期といわれた当時、サブカルチャー復興の立役者とまで称された、大ヒットコンテンツ。
その一作目。主人公に対して素直になれず、照れ隠しに思わず手を上げてくるツンデレヒロイン。
当時の雑誌や掲示板で度々話題になっていた。TVに映る"実在すれば迷惑な存在"に、男は我慢が出来なかった。
(そんなことをすれば傷害罪だ・・・10年はムショ行きだぞ!!)
現実と物語の区別が不自由な彼にとって、「これアニメだから!」という割り切りは到底できなかった。
「アニメだからいいのか!実在しないから!好き勝手していいのか!ふざけんな!」
ブログで作中の行動を事細かに書き連ね、"現実の法律"に当てはめ非難した。
「それは悪意と偏見に満ちた暴論だ」と反論を書き込んだ相手を、洗脳された信者だと嘲笑し、ブログから追い出すこともしばしばあった。
ネット掲示板の片隅にある、作品の批判スレッドでは、独自理論によって「彼女」を断罪、極刑を言い渡したこともあった。
そういう連中が集まる場所だったから、賛同の声も少なくなかった。彼は暗く狭い井戸の中で鼻を伸ばし、批判を続けた。
ごくごく小さなコミュニティ、その"顔"として、男はかりそめの賛同に包まれ悦に浸っていた。荒ぶる神だ。
しかし、それも長くは続かなかった。3ヶ月で嫁が替わる時代。全国の書店やアニメショップも、新しい顔が占めるようになった。
そんな中、延々と同じ作品を叩き続ける男に、共に批判していた、見ず知らずの仲間達も次第に距離を置くようになった。
むしろそんなに酷いのかと、怖いもの見たさで作品に触れてみた結果、「僕このコの良さ分かった!!」と信者に"寝返った"者もいた。
ブログのアクセス数も右肩下がりが続き、やがて皆無になった。
(いいんだ、俺は一人でも戦い続ける・・・絶対に許しちゃいけない奴なんだから・・・)
男は見えない何かとの孤独な戦いに身を投じた。
既に原作とはかけ離れた、自分の中だけにある歪んだ妄想が対象になっていた。
ネット界隈の情報通達がかき集めたまとめサイトでは、ブログがマジ○チ扱いされ嘲笑の的となった。それでも彼は止まらなかった。
仕事に集中などできず、つまらない失敗でクビになった。これも"彼女"の責任だとブログに綴った。
「職業:ヘイター」として、来る日も来る日も捩れ、捻くれ、変わり果てた"何か"をただひたすら叩き続けた。
後悔など無い、してはならない。もはや彼にとって作品を貶めることのみがよりどころだった。
彼には幼馴染が居た。既に過去形となって久しい。
彼女はTVの中の"彼女"と外見も性格もよく似ていた。素直になれないところも、ツンツンしてしまうところも。
彼はそれが理解できなかった。何故自分にだけキツく当たってくるのか。俺は何もしていないぞ。
我慢は限界に達し、ある日ついに「ふざけるな!」と怒鳴り返した。それ以来、彼女は何も言ってこなくなった。
転校していったのは、その直後だった。彼は晴れ晴れとした気分だった。
だが今度は周囲から、男女の区別無く冷血漢と罵られるようになった。
彼には何も理解できなかった。できていなかった。
時が過ぎて大掃除の日。教室の机の奥に、クシャクシャになった彼女からの手紙が入っていた。読まずに破り捨て、ゴミ箱に放り込んだ。
冷血漢はゴミ箱にランクアップした。
終わりの始まりは唐突に鳴った呼び鈴だった。
居留守を使おうとしたが、執拗に鳴らし続けるので仕方なく玄関に向かう。
一体誰だろうか。宅配便など頼んだ覚えは無いし、勧誘の類は構造上ここまで入ってこれない。
生活用品は玄関前の廊下に置いておくように頼んである。
僅か数メートルをすり足でノロノロと歩き、ゆっくりとドアを開ける。チェーンは壊れたままなのですぐ閉められるよう、小さく。
いかにも刑事・・・といった壮年の男を先頭に、カバンやプラスチックケースを肩にかけた男達がズラリと列をなしていた。
まるでアダルトPCゲームの発売日のようだ。なお最近はDLや通販で購入するユーザーも多いので、あまり並ばないらしい。
「世間知らずのあんたでも見て分かると思うが、警察だ。開けな」
警察手帳と礼状とおぼしき紙を突きつけ、彼らはドカドカと部屋になだれ込んで来た。
(何だって言うんだ。俺は何もして無いぞ)
混乱したままの男をよそに、警察官達は手馴れた動きで捜査を始めていた。警察ドラマでおなじみの道具が取り出される。
部屋の照明が付けられると同時に、室内の惨状が露わになった。
刑事はこの手の部屋には慣れているのか、眉一つ動かさないが、部下達は少なからず嫌悪の表情を浮かべた。
(これはひどい・・・)
(臭い、人間の出す臭いじゃない・・・)
(洗濯じゃ落ちないな、クリーニングに出さないと・・・)
さほど広くは無い部屋なので、嫌でもつぶやきが耳に入ってくる。
男は自分自身を嗤われているようで、苛立ちを覚えた。実際そうなのだが。
「警部、これをご覧ください」
捜査員の一人が男の使っていたPCを指差した。更新途中のブログ画面が映っている。
「こいつは・・・大当たりだな」
刑事は顎を撫でながら何度か頷く。そして男の方に向き直ると、懐から取り出した手錠を彼の両手にカシャリと嵌めた。
「~時~分、現行犯逮捕」
先ほどとは別の捜査員が腕時計を見ながら事務的に告げた。そして再び家捜しに戻る。
(???)
「あんた、ニュースは見ないのか?」
刑事が目を細めながら訊いた。とっさに言葉を返せなかったので、男は首を横に振った。新聞やTVが無縁となって久しい。
あるいはニュースサイトで自分に関係の無いニュースを観るくらいなら、ブログでヘイトをしたためた方が有意義だった。
自分が居なくても世間は回る。世間と関わらなくても自分は自分でいられる。根拠は無いがそう思っていた。
「だろうなぁ。今日ここに来たのはコレだよ」
刑事は男に一枚の紙を渡した。
『文化表現基本法』
知らない法律だった。
「つい先日決まったんだ。平たく言えばフィクションとリアルの垣根をとっぱらっちまおうって事さ」
その瞬間、男の脳裏に衝撃が走った。こいつは何を言っているのか。
「んで、施行直前に何件か通報があったんだよ。20年も前のアニメのキャラクターに、延々と酷いことしてる奴が居るってな」
刑事の目がスッと細くなる。獲物を捉えた猛禽類の目だ。背骨の代わりに氷柱をねじ込んだような感覚に襲われる。
「そんな馬鹿な、って思うだろ?ところがどっこい」
「児○法改定のオマケでな。非実在青少年は被害者にならないって出版社が突っぱねたもんだから、だったら全部アウトにしちまおうって話になった」
ばかなばかなばかな
そんなことがあってたまるか
「非実在青少年に対する、非実在拐取。非実在暴行、非実在婦女暴行、非実在殺人、非実在死体損壊、非実在死体遺棄・・・まぁだまだ出てくるだろうなぁ」
男の思考は先ほどからすでに纏まらず、ぐるぐるとループを繰り返すのみだった。
「さる探偵の言葉なんだがな」刑事が言った。
『撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ』
「おまえさんも、もちろん覚悟はしてたんだろうなぁ、えぇ?」
「ま、長い付き合いになりそうだ。これからよろしく頼むよ」
刑事がニヤリと笑いながら取り出した携帯電話には、ウィンクを浮かべたあの少女のストラップがぶら下がっていた。
書いたのはこっちが先という・・・
新しい物を書けていないД
7/3:第1次小規模アップデート