第一章 【陰と陽】
自分の日本史の見方が変わるのは嫌だ!!!
という方と、
流血とか無理! 文字だけでもいやだ!!
という方は見ないことを強くお勧めします。
永禄三年・水無月。
―――信濃国のとある村。
信濃国の中間に位置するこの村は、人口五百人ほどのやや小さい村だ。そんな村の北側に、鬱蒼とした森がある。そこは村人たちからは『物の怪の森』と呼ばれ、滅多に人が寄り付かないことで有名である。以前は動植物が豊富で狩猟や山菜取りで人の出入りが多い所だった。と言うのも、昔その森に入った通りすがりの侍――仕官先を探す途中で村に立ち寄ったらしい――が、全身傷だらけで戻ってきてこう言ったのが始まりだった。
『化け物にやられた』と。
侍は村の宿で手当てを受けたが、その後発狂して全身から血を噴き出しながら死んだと言う。以来『物の怪の棲まう森』と言う風に村中に広まり、森に入ろうとする人間はぱったりといなくなった。そして色々な憶測が飛び交うようになった。
『あの森には鬼が棲み付いてしまったのじゃ』
『いや、我等が山の物を獲りすぎたために森の神様がお怒りになったのだ』
『ただ獣にやられたと言うのを言えなくて法螺を吹いたのではないか?』
『では何故あの男はあのような見るに絶えん死に方をしたのだ? 神や物の怪の所為にしなければ、他にどう説明できると言うのだ?』
『何であれ、あな恐ろしや』
こんな憶測が広がっていても、実際に見てみようと行動する人間は一人としていなかった。皆やはりあの侍のようにはなりたくないのだ。
だが実際にはあの森に化け物と呼ばれるような生物は存在しない。せいぜいいると言えば、狐や狸、猿、鹿、猪、熊ぐらいだ。
まあ確かに、変わった人間ならばこの森の奥深くにいるが……。
多くの村人は知らないが、この森の奥深くには御殿とも言えそうな立派で大きな屋敷がある。そこの住人はたったの二人。二人だけの姉弟だった。
「雛菊! おい、返事をしろ雛菊!!」
そのただっ広い屋敷の廊下をどたどたと遽しく走り、ただでさえ大きい声を男はさらに張り上げて姉――雛菊の名を呼ぶ。背中に負っている刀が、走るごとにカタカタと音をさせる。彼の名前は、佐竹稲葉神。数えの十七の、既に元服を迎えた男子である。
「そんな大声を出さずとも聞こえている」
稲葉が通り過ぎようとした一室から、苛立ちを含んだ声が聞こえた。稲葉は急停止してその部屋の襖を勢いよく開けると案の定、雛菊がいた。
雛菊は自分の腰まである長い赤茶色の髪を後頭部で粗く結い、袴姿で刀を手入れしていた。ただでさえ長身の彼女は一目見ただけでは男と見紛う風袋だが、れっきとした女である。彼女は高雅雛菊神。数えの十八の、此方も元服――本来女は裳着なのだが、『女の装いなどできるか』と本人が酷く拒んだので、仕方なく元服を行った――を終えた女子であるのだが、風袋然り、性格も下手な男より男らしいのである。
「ッと……、雛菊、ここに居たのか。つーか……よくもまあ懲りずに刀の手入れかよ。お前さあ、そんな形してても一応女なんだし、それに見合った趣味とか無いのか? 茶の湯とか、色々あるだろ」
「基本である一般教養ならば既に体得している。いちいちお前に心配されるほど俺は馬鹿じゃない。それに、暇を弄ぶ位なら鍛錬か手入れをしているほうが性に合う。それでここに来た理由は何だ」
雛菊は刀の手入れをしながら稲葉の戯言に対処し、彼の本来の目的を聞いた。
「ん? ああ、向こうの村に放ってた『式神』からの報告なんだが……」
稲葉は雛菊の前に腰を下ろすと、手に持っていた紙を広げた。その紙には、雛菊たちの居る村の地図が描かれており、その村の境辺りで黒の碁石が十五個ほど右往左往している。
「………これは?」
雛菊は刀を手入れしている手を止め、それに見入った。
「その『式神』によるとな、これが指し示すのは、どうもどこぞの大名一行らしい」
「どこぞの大名? 南の小笠原か、北の村上か?」
「いや、外の奴らしい」
「……外、だと?」
雛菊は思わず面食らった。こんな荒れ放題の御時世に態々こんな所まで大将自らが来る用なんて…………あるんだったな。
そう考えて、雛菊は苦笑いを浮かべた。なんだ馬鹿馬鹿しい。単純なことじゃないか。ただ単に奴らの目当ては―――
「俺達と……これだろうな、確実に」
雛菊は持っていた刀――刀身が黒いそれを高々と掲げてそう言った。その刀に日光が当たり、鈍い光を放つ。
「だろうな、俺もそう思う。……だが、もしそうだとしたら、何でばれた? この村の奴らだって、俺達の事は勿論、これの事は絶対知らねえ筈だし……」
そう言う稲葉に対して、雛菊は刀を置き、腕を組んで考える風に見せた。
「内通者ってのは無いな。ここに来るのはあの村長ぐらいだ。だがあの野郎にだってこれに関してのことは一切話してないから有り得ないとして……忍びの可能性も皆無だ。ここは間者が絶対に入れない様になっているからな。他に考えられるとしたら………」
雛菊はそこで言葉を切ると、「お前しか居ないな」と言いたげな目―――には到底見えない睨みを稲葉に向けた。
彼女は生まれつき、目つきが悪いという言葉で表せないほど悪い――ここでは邪眼と呼ぼう――ので、小さい頃に外に出たりした時はただ目を向けるだけで相手は「睨まれた」と感じられたらしい。大人に泣かれる事もしばしばだった。それに雛菊自体、他人に比べ感性や感覚というものが驚くほどにずれていて、加えて時々本人にも止めることのできない殺人衝動が起こる。そのためか、雛菊は五歳になったのを境に外の世界に出たがらなくなった――だが稲葉や式神たちが外の情勢を伝えてくるので、情報には困らなかった――。そしてたまに機嫌伺のようにやって来る村長も、話が終わればあからさまに逃げて帰る。それほどまでに、彼女の邪眼は酷いものだった。
だが稲葉は、生まれてからずっとその髪と同色の眼に見られてきたので、慣れているも何も、その眼で彼女が何を言いたいのかが分かるほどだ。
今回も、彼女の言いたいことが分かったらしい。稲葉は片眉を上げてにやりと笑った。
「……本気か?」
そう問われた雛菊は、少し眉を顰めた後、大きな溜息を吐いて答えた。
「……馬鹿だったな。お前がそんな大それた事出来る筈が無い」
「おい、そりゃあ無いだろ。もしかしたら、お前を裏切るかも知れないぜ?」
「安心しろ」
稲葉がそう軽口を叩くと、どう捉えたのか、言うのと同時に雛菊は置いていた刀を拾い上げ、彼の首に刃先を当てた。彼女の全身から得も言われぬほどの殺気が滲み出ている。刃の鋼鉄特有の冷たさが、それを増幅させているようだった。
「お前が俺に反旗を翻したその時は、俺がこの首掻き斬ってやる。そしてこれがお前だと分からなくなる位にずたずたに斬り裂いて、畑の肥やしにでもしてやるよ」
「待ってそれお前が言うと全然冗談に聞こえないからちょっと待って。今さっき言ったことは謝りますから先ずその刀降ろして下さい」
思わず敬語で早口になる稲葉。それを聞いた雛菊は一瞬で殺気を消し、刀を稲葉の首から離し、鞘に戻した。そして立ち上がり、腰に刀を入れて言った。
「そもそもお前は俺に勝てた例がない」
「そりゃそうだけど……って、どこ行くんだ?」
何時の間にか、雛菊は自らの羽織を着て脇差まで刺している。
「………来るぞ、どこぞの大名が」
「え……ってああっ!! あいつ等いつの間に!?」
稲葉は自分の持ってきた地図に目を落とすと、あの碁石たちがこの屋敷のある森の深くまで入り込んでいた。
「その速さならもう少しで此方に着く。お前も仕度しとけ」
雛菊はそう言うと、早々と外に出てしまった。残された稲葉は自室へ戻り、直垂へと着替え、雛菊が居るであろう屋敷の門の所へ急いで向かった。
稲葉が門に着いたときには、ちょうどあの御一行も到着した頃合だった。
「ちょうど良かったな。あちらも今来たばかりだ」
既に門で待っていた雛菊にそう言われてホッとしたのも束の間、彼らが掲げていた旗の紋を見て、稲葉は息を呑んだ。
「あれは……五つ木瓜? てことは……」
「ああ……俺も初めて見たが、あれは……」
雛菊は眉をこれ以上無く顰めて、馬に悠々と乗っている人物の顔を睨みつけた。
「尾張の………織田信長だ……」
―――これが、後に雛菊の因縁の相手となる織田信長との、初めての対面となる。
織田信長。
幾ら歴史が嫌いな人でも、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。彼は天文二十年に織田家の家督を継ぎ、つい先日には田楽狭間にて今川義元を討ち果たしたとして、その名はこの戦乱の世にも知れ渡っていた。
その噂は、この信濃の辺鄙な村にまで伝わっていた。
「―――で、その『尾張の大名様』がこんな何も無いところに何用で?」
「なっ!? 貴様、信長様になんという口の利き方……」
所替わって屋敷の中。信長の家臣――柴田勝家とか言ったか?――が雛菊の態度に憤り、思わず抜刀しようと柄に手を伸ばしかけた時。
「良い」
と、凛とよく通る声がそれを止めた。信長のものだ。
「……あんた、短気とか言われてるワリにゃあ、さっきから全然キレてねえよな」
雛菊は脇息に腕を置き、信長の方を見た。
「貴様が俺を態と立腹させようとしているのは、容易に見当がつく」
「………それは、御見逸れしたな」
信長がキッと睨みながらそう言っても、雛菊はそんな気持は更々無いと言った様子で詫びを言った。
―――そう、雛菊は信長がここへ来てから、ずっと彼を挑発するような言動をとっていたのだ。
回想・門前にて。
位もそこそこらしい男が、門柱に凭れていた雛菊に声をかけてきた。
『失礼だが、ここは高雅雛菊神殿のお屋敷か?』
問われた雛菊は、その男に視線を向けた。目が合った瞬間、男は体をびくりと震わせて他の男の後ろに隠れてしまった。雛菊はその男を鼻で笑うと、柱から体を離し、仁王立ちになって答えた。
『ああ。それと、俺がその雛菊だが』
『お前が? 然し高雅殿は女子だと……』
さっきとは違う男が雛菊に対してそんなことを言った。確かにこの外見からすれば男と誤認するのは仕方ないが、雛菊は少しばかりカチンときたらしい。ギッとその男を睨むと男は泡を吹いて倒れた。だが、馬上の男は彼女のことが分かったらしい。
『―――貴様、女だな?』
『の、信長様!? 何をっ――』
馬上の男――信長は、雛菊を見定めるように見ていた。さっき後ろに隠れた男が信長に何か言おうとするのを遮って、雛菊は彼の方に目を向けて皮肉気に言った。然し信長は、彼女の邪眼に睨まれても動揺の一欠けらでさえ見せなかった。
『……へえ。お前が信長か。大層な事だな、そんな少ない人数でこの森を抜けてくるなんてさ。道中首を掻かれてもおかしくないってことは、重々承知の上でここに着たんだよな?』
『きっ、貴様ッ!?』
『雛菊!!』
信長の家臣たちと稲葉が雛菊の言動に声の上げたのは、ほぼ同時だった。然し彼女はそれらを完全に無視して、信長をあからさまに挑発した。
『上がれよ、信長サンよ。こんな所で立ち話もなんだろ?』
『……そうだな』
家臣たちは驚いた。何時もの信長ならば抜刀していてもおかしくないのに、今日はその兆しさえない。雛菊もこれには拍子抜けしたらしい、眉を軽く潜め、体を反転させてさっさと屋敷の中へ入ってしまった。
『……成政!!』
不意に、信長が一人の家臣――佐々成政を呼んだ。成政が恭しく信長の近くまで行くと、彼は馬から下りて手綱を渡した。
『これを繋いで来い』
『あ、それなら此方に』
成政が馬を近くの木に着けてこようとした時、ずっと雛菊の後ろに居た白を基調とした直垂姿の青年――稲葉が声をかけてきた。
『……お前は?』
『先程は姉が失礼を致しました。私は、佐竹稲葉神と申します』
『あの女の弟か……。然し、氏が違うな』
『そこは御聞き召さるな。……さあさ、馬を此方へ』
稲葉はふわりと笑みを浮かべてそう言った。そして成政と馬を厩まで送る前に、
『織田殿は先にお入り下され。この方は私がお送りしますから』
と、またも笑みを浮かべて言った。
『あの方があれの弟君とは……とても思えませぬな』
雛菊に睨まれた――と言っても、目を向けられただけだ――家臣は、大廊下を渡る際ぶつくさと小言を言っていたが、信長は隠然とした態度で雛菊の居る大広間に向かっていた。
回想終わり。
そして、大広間にて。
雛菊は信長たちを下座に座らせ、彼女と稲葉は上座に鎮座していた。
「そろそろ此方も用件を言いたいのだが、宜しいか」
雛菊の一言以来、暫く沈黙が続いていた空気でそれを打破したのは信長だった。雛菊は興が醒めたというように信長から顔を背け、「勝手にしろ」と言わんばかりの空気をひしひしと醸し出している。信長の家臣たちの中には、その気に中てられて失神する輩もいた。
「……では単刀直入に言う」
家臣たちがそんな為体の中、一人信長はその凛とした声に鋭さを加え、雛菊を見据え明言した。
「俺の配下になれ」
「断る」
信長が言い終わった矢先、雛菊はそれが至極当然であるかのようにきっぱりと断言した。それも、先程から一分すら変わらない体勢で。そして雛菊は言葉を続けた。
「テメエがどんなに金銀財宝や領地を俺の前に出したとしても、死んだってテメエの臣下になんかお断りだ。それに」
そこで言葉を切ると、雛菊は言葉通り首だけを信長の方に向け、眉間に数え切れないほどの皺を寄せて苛立ち混じりで言った。
「俺は人の下で動く気は毛頭ねぇ」
「………そうか」
信長は少し残念そうにそう言うと、徐に立ち上がった。
「のっ、信長様!? どちらへ……」
一人の家臣が恐る恐る信長に問うたが、彼は黙りを決め込んでそのまま部屋を出て行ってしまった。家臣たちは慌てて信長の後を追っていったため、大広間には雛菊と稲葉しか残らなかった。
「………いいのか?」
不意に稲葉が声をかけてきた。雛菊は脇息に両腕を置き、信長達が行った方向をぼんやりと眺めながらそれに答えた。
「―――いいよ、別に。元々あんな奴、相手にする必要すらなかったな……」
「……それじゃ俺、あの御一行送ってくるわ」
稲葉はそう言うと立ち上がって、彼らが行った方へ行こうとした時、
「……稲葉」
雛菊に呼び止められた。
「何?」
彼女の方を振り向くと、何時に無い雛菊の真剣な表情に、稲葉は息を呑みかけた。
「あいつ等を送った後、俺の部屋に来い。大事な話がある」
「…………分かった」
稲葉は薄らと微笑んで、その場を後にした。
「で、何なんだ? 大事な話っていうのは」
信長たちを送り帰した稲葉は、直垂を着崩して雛菊の前で胡坐をかいていた。
「ああ………」
雛菊は自分の刀を弄びながら俯いたままだ。
「何だよ雛菊、言う事有るんなら何時もみたいにはっきり言えよ。お前ちょっとおかしいぞ? さっきの信長への対応と言い、今の状況と言い……」
一体どうしたんだ、と言葉を続けようとした時、それを遮るように雛菊は言葉を切り出した。
「奴は、俺達の生い立ちについて知っている」
いきなり雛菊の口から放たれた言葉は、稲葉を黙らせるには十分に事足りていた。それを何の心の準備も無く聞かされた稲葉は、薄らと笑みを浮かべていた顔が固まっていくのを感じていた。
「どういうからくりかは知らんが、奴は俺たちの兄弟についても知っているらしい」
「いっ、いや、ちょっと待て。何でお前、そんなことまで知ってんだ?」
驚愕の色を隠せない稲葉に対し、雛菊はやはりな、と肩を竦めながら言った。
「あの野郎、わざと俺にだけ伝えたんだな……。ったく、敵さんも厄介な技使いやがる」
「だから意味わかんねえって。どういうことだよ」
「野郎、思念波使いやがったんだよ」
「なっ……!!」
稲葉の顔に、既に色は無かった。それほどまでにその事実は衝撃的だったと言う事だ。
思念波――今で言う所のテレパシーである。彼女たちは思念波と呼んでいるが、この時代では――一部の者達には――思念伝達の方が流通している。で、この思念波と言うのは、そこそこの霊力では行えるものではない。然も、特定の人物だけに送ると言うのは、かなり高い霊力の持ち主だと言う証明にもなる。
つまり、信長は雛菊達と同等の霊力を持っているという事である。
「……これは相当厄介だぞ。あの信長って奴、もしかしたら俺らの兄弟をどうにかしようって魂胆なんじゃ」
雛菊は眉根を寄せ、何時にも増して険しい表情で唸った。然し、稲葉は顔面蒼白させてがくがくと身体が震えている。空気の乱れでそれに気付いた雛菊は、不審そうに声をかけた。
「おい」
「―――じゃあ、八百万様の……母上のことも……」
八百万様、というのは、雛菊達の事を一番に理解をしてくれた女性だった。少し男勝りで、怒ると怖い人ではあったが、とても聡明で、誰よりも彼女たちを慈しむ人だった。そして彼女は陰陽道にも通じていて、あらゆる数の『式神』を使役していた。今雛菊達が使っている式神の大半は、彼女の残していったものだ。だが数年前、病を患いこの世から去ってしまった。
震えた声には、あり得ないでほしいと言う拒みの色が見え隠れしていた。然し、雛菊はそれに気付いているのかいないのか、溜息混じりに言った。
「………ああ、そうだ。劉遜のことも知っていた。それで奴らは此処へ来たんだ」
「……!!」
「だがそれで、あいつのおかげで確信が持てたこともある」
「え?」
意味がよく分からない単語が出てきて思わず頭の上に疑問符が浮かぶ稲葉。このすぐ後、雛菊の口から信じたくもない言葉が紡ぎ出されるとも知らず。
「劉遜殿が、俺たちの本当の母親じゃないってことだ」
「な……っ」
「あいつが言うには、劉遜は孤児だった俺らを拾ったんだそうだ。それでお前が七つになる前日に………って、おい。どうした?」
雛菊の声は既に稲葉の耳に届いてはいなかった。
さっき雛菊は何と言った? 八百万様が俺たちの実の母親じゃない?
「……何を考えているのかは知らんが、分かり切っていた事だろう。あいつが実母じゃない事ぐらいは」
「………」
答えない稲葉に、雛菊は小さく溜息を吐いた。柄のついたままの刀を手にすると、それで稲葉の頭を軽く――と言っても雛菊は加減を知らないので本当は相当な勢いで――小突いた。
「いっ!!!?」
何の警戒もしていなかった稲葉はその柄をまともに受ける羽目になり、部屋の端に打ち付けられるほどに飛ばされた。
「………いっつー……、何すんだ雛菊!!」
「何時までも呆けるな。―――俺達にはやるべき事がある」
「………? やるべき事?」
そう言われてもいまいちピンと来ない稲葉は、雛菊からもう一発攻撃を食らう事になった。
「痛いんだから何度もすんなっての!!」
「分かりきったことだ。他の血筋の奴を探しに行く」
「……他の血筋?」
「さっき言ったろう。信長は俺たちの兄弟のことを知っていると。もしかすると、奴がそいつ等を誑かしでもして、身内同士で潰し合いをさせるかもしれない」
「そんな……」
「だから一刻も早く、奴らよりも早くその兄弟たちを見つける。その為に、今から出立する」
至極真面目な顔をして、雛菊はそう言った。一瞬呆気に取られた稲葉だったが、我に返ると大声を上げてしまった。
「今から!!?」
「? 何を当たり前なことを言っている。早く行かねば奴に先を越される。それに言うだろう、『善は急げ』と」
「いや言うが! 確かに言うがそれはっ!! それとこれとは話が別だろうがっ!!! それに雛菊、お前行き先分かってて言ってるのか!?」
「いいや」
バンバンと畳を叩きながら叫ぶ稲葉に、雛菊はあっけらかんと返した。
「いざとなったら全国行脚する覚悟だ。……ほら、さっさと仕度をしろ」
「その必要は御座いませぬ」
突然の声と共に襖が開いた。そこには豪華絢爛な十二単を身に纏った一人の女人がいた。
「綺羅水晶!」
稲葉に綺羅水晶と呼ばれたこの女―――実は雛菊の式神である。本来はとても位の高い七色に輝く龍神であるが、今は雛菊に使役され彼女たちの世話係のような仕事をしている。
「直ぐにでも出立するとの事でしたので、稲葉様の荷も準備させて頂きました」
「なっ!!?」
「御苦労、綺羅水晶」
淡々とした綺羅水晶の言葉に、稲葉は驚いて言葉を失い、雛菊は労いの言葉をかけた。
「―――留守の間、館の事を頼むぞ」
「承知しております」
綺羅水晶は雛菊に深々と頭を下げていたが、そんな様子が固まっている稲葉の目に入る余地も無かった。
「行くぞ稲葉。……おい?」
「雛菊様。私めにお任せを」
綺羅水晶は刀を構えようとしていた雛菊を制すると、厳かに、呆けている稲葉の前まで行って、彼の耳を抓まんで引っ張った。
「いだだだだだだだだっ、いたっ痛いっ!!!!!!!!?」
「雛菊様が御立腹です。御早くなさいませ」
稲葉の意識が戻って来た所で耳を離し、飽くまで淡々と、綺羅水晶は言葉を紡いだ。半泣きの状態で、稲葉は赤くなった耳を押さえる。
雛菊は少し気に食わないような顔をして、黙って部屋を出て行った。
「ひ、雛菊? おい、待てよ!!」
慌てて追いかけようとすると、袖を誰かに掴まれていて動けない。後ろを振り向くと、
「……綺羅水晶」
「稲葉様、これを」
綺羅水晶が手渡してきたのは、大きめの巾着だった。中には、夥しいほどの黒い丸薬が入っている。
稲葉は一目見て合点がいった。
「……雛菊の薬か」
「一応一年分はあります。ですが雛菊様のあのご様子ですと、一年では足りないでしょう。定期的に稲葉様の式神をこちらに飛ばしてください。返答次第で薬の材料を送らせて頂きます。分かっていると思われますが、その薬は――」
「必ず夕餉の一刻後に一粒飲ませること。一日に一粒以上飲ませないこと。それと他人が飲まないようにする事、だろう?」
「そうです。然し、もし万が一の状況になった場合には、此方をお使い下さい」
「ん?」
そう言って綺羅水晶が手渡したのは、稲葉の見たことが無い丸薬だった。薄い翠色をした硝子を何度も塗り重ねた様な、見た目は美しい薬だ。
「……これは?」
「八百万様が生前、雛菊様の為に御作りになられた仙薬です。この薬は緊急用のものですので、雛菊様が平常時の時はくれぐれも呑ませませぬ様」
「……もしや、母上が言っていたあの事か?」
「稲葉様のお察しの通りかと」
途端に稲葉の顔が険しくなった。聞いただけではあるが、雛菊はまだ幼少の頃、一人で村一つをほんの数刻で全滅させた事があるらしい。大人の男をも手にかけ、女子供も容赦なく斬り潰したという。然し―――雛菊はその事を一切憶えていなかったのだそうだ。その事を聞かされた雛菊はなんと自ら自決しようとしたらしい。八百万様が必死で説得して何とか思い留まったらしいが、それ以後この館から雛菊が出て行くことは無くなった。
するとふと頭に疑問がよぎった。
「………なんで雛菊は急に旅に出ようだなんて言い出したんだ? あんなに外には出たがらなかったのに」
「多分ですが……織田信長と会われた時から、雛菊様の気が何時もより強く発されておりました。まるで自らと稲葉様を護るように、濃く強い気がお二人を包み込んでおりました。あの者と出逢った事で、雛菊様の中にある何かが変わったのでは―――」
「稲葉ッ!! 何をしている!! 早く来い!!!」
突然雛菊の怒号が飛んできた。
「ッ、申し訳ありません。長らく足止めをさせてしまいました」
「いや、謝らなくても良いよ。別に綺羅水晶の所為じゃない。俺にも非があったんだ。―――薬、ありがとうな」
稲葉は綺羅水晶に笑顔を向けてそう言うと、駆けていってしまった。
「……御二人とも、どうか御武運を」
綺羅水晶は胸の前で手を合わせ、二人の為に祈っていた。
「遅いぞ稲葉」
開口一番に雛菊はそう言った。苛立ちが最高潮にまで達しているらしい、何時でも刀を出せるように鞘に手をかけていた。
「すまん、雛菊。ちょっと探し物をしていたら遅くなったんだ」
「荷ならば綺羅水晶やお前の蛇骸が用意していただろう。探す理由が何処にある」
「いや、蛇骸は外の見張りに行ってるから用意はして貰ってないよ。―――お前の薬の材料を探していたんだ。綺羅水晶も、そこまで手が回らなかったらしいから」
「………俺の薬?」
薬、と聞いた途端に雛菊の眉がピクリと動いた。そして軽く顔を顰めてから一枚の紙を取り出した。
(あ、話逸らした)
と稲葉は思ったが、分かりきっていた事だったので黙っていた。
「 我 陰を掌る者也 我が力にて 我の脚と為らん 出でよ 地獄の轟馬 隼赫冥!!」
紙を空に投げた瞬間、青い炎がぶわぁっと広がった。そしてその炎は球状となり、その中から立派な黒い体躯の馬が翔りながら現れた。その馬は、両の眼から紅い炎を噴き出していた。翔っていた馬は雛菊の前で止まると、甲高く一声啼いた。
雛菊がその馬に触れた。すると炎がかかると同時に、馬に鞍や手綱、轡などの馬具が付けられていた。
「………雛菊、俺何回か言ってることだと思うんだが……事有る毎に羅刹馬を使うのは止さないか?」
「何故だ? 生きた馬は直ぐに使い物にならなくなる。此方の方が都合が良いだろう」
「それはお前の馬の扱いが酷いからだ! 俺が言ってるのはそういう意味じゃなくて、地獄に棲む獣は召喚する度に術者の寿命を削るんだから極力止めろって……」
心配している稲葉の言葉も、雛菊は簡単に一蹴した。
「それは普通の人間ならばの話だ。愚人と俺を比べるな。それにこの隼赫冥は俺が地獄の獄卒に勝って閻魔王直々に享け賜った馬だ。閻魔王も、隼赫冥の召喚時の代償は要らないと言っていたんだ。それに俺の馬を俺が使わないでどうする」
「……お前、まさかそいつで行こうとか言うんじゃないだろうな?」
飽くまでも一応聞いてみた。返ってくる答えは分かりきってはいるが。
「当たり前だ。何を馬鹿な事を言っている」
「………ですよね」
「そんなに等価として寿命を払うのが嫌なら、それなりの贄を捧げればいい。この森には数多くの生物が居る。贄にする分には事欠かないだろう。そこまで待つ気はないからさっさと殺してこい」
「あっさり殺せとか言うな!! 俺はお前と違って無益な殺生とかは嫌いなんだよ!!」
そう言って稲葉が激しく拒むと、雛菊は眉を寄せながら小さく溜息を吐いて隼赫冥に向かってこう言った。
「……仕方ない。隼赫冥、悪いが二人乗るぞ」
「なッ!?」
流石にこの結論に至るとは思っていなかった稲葉だったが、そんなことはお構いなしに雛菊はヒョイという風に隼赫冥に跨ると、その腹を蹴ると同時にいまだ呆然としている稲葉の首根っこをむんずと掴んで引っ張り上げた。
「―――って、うわあぁぁあぁぁぁあッ!!?」
気付いた時には、すでにもう遅し。稲葉は隼赫冥の背に乗せられ、凄まじいまでの速さで森の中を駆け抜けるのを全力でしがみついていた。そしてあっという間に森を抜けてしまった。
……この分では、数日もかからずに尾張に着いてしまうのではないか。
稲葉はそう思いながら、隼赫冥の鞍に必死でしがみつくのだった。
※ 永禄三年 = 1560年
※ 天文二十年= 1551年
分からない箇所、または訂正箇所等あれば仰ってください。