泡と消えたあなたへ
泡と消えたあなたへ
ふと、思い出したのです。青い深い海の色。それよりもっと鮮やかな青色の煌めきを。私はきっととんでもなく恐ろしいことをしてしまったのだと、今更ながらに気が付いたのです。
あれからもう五年の時が経ちました。
あなたに謝る方法はどこにもないけれど、そしてそれを受け入れてほしいとは思わないけれど、私なりの謝罪と、そして事の真相を一部始終、どこかに書き記しておかなければならないと考えました。あなたか、あるいは誰かがこの告白を見つけて、私に罰を与えてくれはしないだろうかと、そんなことを考えたりもしています。それと同時に、まだほんの少しだけ、どうか誰も見つけないで欲しいとも思っています。人間というものは、やはり矛盾した、醜い生き物なのです。
実は私があなたに出会ったのは、あなたが私と初対面の挨拶をしたよりも前のことです。あなたは、波の間から顔だけ出して、辺りを見回していました。当時からお転婆姫で通していた私は、いつものように護衛を撒いて一人海辺を歩いていました。そしてあなたを見つけたのです。それはもう驚きました。だって人の首が浮いていると思ったのですから。けれど、よくよく見たら宝石のような瞳の輝きは瞬きによって何度か遮られましたし、細い首は動いているし、ああ良かった、生きているわと一安心したものです。
だけど、不思議でもありました。だってあの日は真冬も真冬。私は暖かくて分厚いガウンを二枚も着込んでいました。こんな寒い日に海から顔を覗かせている人がいるのですから、もしや何かの拍子で海に落ちてしまって溺れかけているのではないかと、私は心配になりました。
だからすぐに、着込んでいたガウンを脱ぎ捨てました。海に浮いているお嬢さんがもし少しでも助けを求めるようなそぶりをしたら、私は海に入って行って、助けてあげるつもりでした。泳ぎには自信があったものですから。幼い頃に海に溺れて、そして不思議なことに傷一つなく無事生還した私にとって、海は長年親しいものだったのです。
けれど、あなたは助けを求めはしませんでした。当たり前ですよね、だって立派な尾ひれを持っていたのですから。あなたの尾ひれは私が見たことがあるどんな貴重な宝石よりも美しい色をしていました。深い深い、海の青よりもずっと深い青色。なぜか無性に懐かしく感じられて、涙が出そうなほどでした。私は目を奪われたのです。城に戻るなりすぐに、普段なら滅多に使わない図書室へ籠って、あなたについて書いていそうな本を片っ端から読みました。そして知ったのです。あなたは人魚という存在なのだと。
もうそれからの数日間、私はあなたのことしか考えられませんでした。ですから、いつの間にか決まった婚約も、その相手も、もはやどうでも良いほどなのでした。私の頭の中は、それだけあなたで一杯だったのです。もう一度その美しい姿を見ることはできないかしら、と私は以前より熱心に海辺を散歩するようになりました。その際海辺に倒れていた男性を助けたことは、私にとっては然したることではなかったのです。まあ確かに綺麗な顔をした人だとは思いましたが、私はそれがどんなに美しい人であったとしても、あるいは見るに堪えない造形の人であったとしても、同じく手を差し伸べたはずです。
お転婆姫と言われようとも、一国の王女として育てられた自覚は一応持っていましたし、そういう立場にある人間がどういった振る舞いをするべきなのかも分かっていました。もっといえば、私は例え自分が王女という、人に見られて評価される立場でなかったとしても、きっと助けました。それくらい私にとっては当たり前のことだったのです。
だから、彼も自分を助けた存在だからと、私を運命の相手だと、あなたに救われたのだと、必要以上に持ち上げる必要はなかったのです。私と結婚しなければならないのだと思い込む必要もなかったのです。もう今更の話ですが。
当人である私を差し置いて、王子と周囲の人たちによってとんとん拍子に結婚の話がまとめられていく最中、私はこの十日ほど会いたくて会いたくて仕方がなかった人にようやく再会することとなりました。それは、王子が自分の周辺の人物と私を引き合わせていた日の夕方、もう何遍も同じ挨拶と愛想笑いを繰り返した後、最後の最後にまるでおまけとばかりに紹介したあなたでした。私はもう驚きと喜びで目をまんまるくしていたことでしょう。だからあなたも私の表情を見て不思議そうに少し首を傾げてみたのでしょう、きっと。
王子はあなたのことを、数日前に海辺で倒れていたところを助けた少女なのだと紹介しました。王子の口からは人魚と言う言葉は最後まで出ませんでした。ですから、あなたについて王子はあまり知らなかったのですね。人魚は人間になれるのかしら、と私は興味津々で、早くあなたと二人きりで色々なお喋りをしてみたくてたまりませんでした。
けれど、私はお父様の懇願するような言いつけを守って、王子の前では深層の姫君を装っていたのです。さすがにこの婚約者に対して、「この方と二人でお話したいので席を外してくださいな」といきなり言い出すことはできず、仕方なくその時は当たり障りなく微笑んで挨拶をするだけとなりました。
もっとも、この予想外の再会に喜び勇んでいたのは多分私だけで、私の周囲にいた使用人たちは皆一様に眉を潜めていたようです。「婚約者に対して、若い女性を紹介するなんて、あの方は王子の愛人なのではあるまいか」と、噂話のように言っていたのを、私は何度か耳にしました。誤解なさらないでね、あなたを良く思っていなかったのはあくまで私の周囲の人たちであり、私自身はあなたと出会えたことに心から感謝しているのですから。
ただ、今思い返すと婚約者とはいえ隣国の王女の城で世話になっておきながら、助けた少女を勝手に連れ込んで一緒に暮らしているというのは、少々いただけませんね。もっとうまいやり方があったものでしょうに。例えば、あなたを保護した時点で年も近く同性であった私の元へ引き渡すとか。
それからあなたとは、私の結婚式当日でありそしてあの事件の日を含めて、四度会う機会がありました。
私はもうあまり日数もないし、こうなったら土壇場の付け焼刃、とばかりに詰め込まれたお后教育の合間にも、家庭教師の先生の目を盗んでは脱走を繰り返していました。仕方ありません、お転婆姫でしたから。そして、城の外の庭園で幸運なことにあなたと出会いました。あなたは淡い桃色のドレスを着ていました。可愛らしくはあったけれど、海の中にいたあなたが美しい青色を身にまとっていたのを知っている私からしてみれば、正直に言って似合わないと感じました。今なら分かります。あれはきっと王子の趣味だったのでしょう。悪趣味なこと。だけど、王子の好みの服を着たあなたはきっとこの上なく幸せだったのでしょう。
再会を果たしたあの日と違って、今度は近くに王子もおらず、二人きり。私は嬉しくて嬉しくて、すぐにあなたに声をかけました。あなたは、私の言葉を微笑んで聞いていたけれど、何も言葉を返してはくれませんでした。私はすぐに気が付きました。この方は声が出せないのだろうと。私は頭の中で様々な可能性を考えていました。もしかして、元々人魚は声が出せないのではないのかしら。だって、魚が言葉を話すのを聞いたことはありません。
けれど、それならどうして私の言っていることを理解しているのかしら。人は幼い頃から繰り返し聞いた言葉を話せるようになるものです。もし人魚に言語が存在しないのなら、あなたは私が言っていることが理解できるはずもなかったのです。ですから、きっと元々は声を出せていたのだろうと判断しました。それに、何故だか確信のようなものすらあったのです。あなたは美しい鈴を鳴らすような声を出せていたはずだと。
私はものは試しと思って、大急ぎで城に戻ると紙とペンを持ってあなたの元へ戻りました。撒いた家庭教師に見つかりはしないかと内心緊張していましたが、無事に戻ることができました。私が手渡したそれらを見て、あなたは顔を輝かせました。そして同じ言葉を何度も唇だけで繰り返しました。私には分かっていたわ。あなたが「ありがとう」と繰り返していたこと。
海の中に紙があったとは思えませんが、とにかくあなたは文字を書くことができました。まあ、話す言葉が陸と同じだったようですから、使っていた文字が同じなのもあまり驚く話でもありませんね。私たちは、それから家庭教師に居場所を突き止められるまでの一時間ほど、話し言葉と筆談で色々なお話をしました。何度か会話を交わすうちに、あなたが私と同じ年齢であることを知りました。
本当は、あなたは人魚なのではないかと、私はあなたを見かけたことがあるのだと、そう言いたかったのですが、残念なことに本題に入る前に家庭教師に見つかってしまいました。この時のことを、私は今でも悔やんでいます。もう少し分かりにくい、木の陰の辺りに移動してからお喋りを始めていれば良かったと思っているのです。
次にあなたに会ったのは、夕食の会に王子があなたを連れてきたときのことです。私はあなたと一時間とはいえ会話を交わした後でしたので、もうなんだかあなたと友人になった気でいました。公の晩餐会という場に身分もない少女を連れてきた王子は私の使用人たちには睨まれ、果ては私の両親から遠回しな嫌味を言われていたのですが、どこ吹く風といった感じでした。ああいう人が将来王になったら困るのではないのかしら。まあ、それを支えなければならないのは他でもない私だったりするのですが。
とにかく、あなたは王子よりは賢かったご様子。居心地悪そうにしていたのを覚えています。私は本当だったら、あなたの手をとってあんな晩餐会は抜け出して、城下町の屋台で夕食にしたかったところでした。安物と侮るなかれ、作りたての料理は美味しいし、何より屋台の至るところで交わされる、人と人の会話は、裏表のない真っ直ぐな温かさを持っていて、食事時には最高の喧噪なのです。けれど、そこはどうにか我慢して、何も気づかないふりで微笑んで見せていました。まあ、覚えていてください。とにかくこの時辛かったのはあなたばかりではなく、私も同じだったということです。
王子とあなたの様子を見ていて、私はすぐに王子があなたが文字を書けることに気が付いていないことに思い当たりました。その時何を差し置いてもそれを王子に言えば良かった。後悔してもしきれません。もし私がそれを行動へ移していれば、未来は変わったのでしょう。しかし、私と王子の席は、直接声をかけるには難しいだけの距離がありました。おまけに、王子は食べ終えるとすぐにあなたを連れて部屋へ戻ってしまったので、私は声をかける時を逃してしまったのです。
私はその夜あなたのことをずっと考えていました。私が紙とペンを渡した時のあなたの喜びようも思い出しました。そして気が付いたのです。ああ、きっと、あなたは人間の姿になって、王子に助けられて城で暮らすようになってからもうかれこれ一月ほど、まだ私としか話していないのだろうと。あのたった一時間の会話が唯一だったのだろうと。この想像が外れていたら良いと思います。けれど、城の使用人たちは私に同情的であるあまり、皆あなたに冷たかったですから、あなたと会話をしようと試みてくれていたとも考えられないのです。実際のところ、どうであったのかを確かめる術はもうありません。
三度目にあなたに会ったのは、城で定期的に開かれていた舞踏会の場でした。私は王子と共に、何曲か、失礼にならない程度に踊ってから、夜風にあたろうとバルコニーへ出ていました。私はこうした華やかな場を少し外れた場所から見ることが好きだったりします。その日も、大広間で繰り広げられる狭苦しい社交界を眺めていました。そして、あなたを見つけました。あなたは、王子と一緒に踊っていました。あなたの薔薇色に染まった頬を見て、王子に向けた笑顔を見て、私はあなたが王子に恋をしているのだと知ったのです。気づいてしまったのです。
あなたの恋がうまくいけば良いと思いました。人魚と王子の恋なんて、とても素敵な響きです。私は思い立った途端に、舞踏会の中へ戻ると、今まさにあなたと踊り終えたばかりの王子に微笑みかけました。「私と別れていただけませんか」、当時の私が少々浅はかだったことは認めざるを得ません。場が凍るというのを身をもって体験したのは、この時が初めてでした。
結果としてこの婚約解消の依頼は失敗しました。それどころか逆効果でした。王子は私ばかりを気にかけるようになり、自分が助けたはずのあなたのことはまるで忘れてしまったかのようでした。彼は私と結婚しなければならないと思い込んでいたのです。「命を救ってくれたあなたと結婚するのだ」と言われました。私はどうにかこの結婚を取りやめる方法を考えました。けれど、どんなに考えても、もうどうしようもなかったのです。
最後にあなたに会ったのは、私と王子の結婚式が行われた夜でした。私達の結婚式は船の上で行われました。あなたも、王子の友人として式に出席することになっていたので、船にいました。私たちが最後に会話を交わした時、あなたは甲板から海を見下ろしていました。あなたを見かけた回数はそれほど多かったわけではないけれど、あなたはいつも笑っていました。けれど、この時ばかりは、あなたは泣いていたのです。
私はすぐにあなたに近づいて、その背中を撫でました。酷い話ですね、あなたを泣かせていたのは他でもない自分自身であることを、私は分かっていたのに。「ごめんなさい、でもどうか泣かないで。私と王子の結婚は、国同士の約束であり、もはや私の力だけでどうにかなるようなものでは、なかったのだわ」私が言った言葉を聞いて、あなたは涙を零しながらも、何度か頷いていました。分かってもらえたのだと思った私は、彼女を励まそうと思って、色々と言葉をつづけました。「この世の中には多くの人がいるわ。あなたが望むのなら、私は自分の持てる限りの力を使って、あなたに相応しい素晴らしい方を探すわ」けれど心の中では、その必要はきっとないだろうとも思っていました。だって、私はあなたがあの素晴らしく美しい人魚だと知っていたからです。
恋に破れるのは辛いことなのかもしれないけれど、あなたはきっとまた海へ戻って昔のように泳いで生きて行くのだろうと思っていました。自ら人間となって陸に上がるほど陸が好きだというのなら、いつかまた波の間から顔を覗かせてはくれないだろうかとすら考えていました。海辺の散歩はもはや私にとって毎日の習慣でしたし、人魚の姿に戻ったあなたと何度も会話を交わしたら、私たちはその時こそ親しい友人になれたりしないだろうかと、そんなことまで想像していたのです。
私はその時紙もペンも持っていませんでしたが、あなたが何か言いたそうだったので、考えた末に自分の掌を差し出しました。あなたにもその意図はどうやら伝わったようで、そのしなやかな指先で、私の掌に文字を書いていきました。私はくすぐったさに笑ってしまいそうになりながらも、その文字を一字ずつ読み取っていました。そして、その一文を読み終えて、頭の中で反芻して意味が理解できた時の恐ろしさといったら。忘れることはありません。
あなたは、「王子を助けたのは実は私なのです」と書いたのですから。
詳しく聞けば、王子はこの国へ来る途中の船から落ちたということでした。それを彼女は助けて、海辺まで引き上げたのです。なるほど、それなら私が海辺で助けたつもりでいた王子は実際のところはあなたに助けられていたのでした。だったら、王子が私と結婚する理由として挙げている、「命を助けられたから」はもはや意味を成しません。だって、助けたのはあなたです。私ではない。
ああ、どうしてこんな重要なことを今更知ることになってしまったのでしょう。私は王子との結婚をなかったことにするためにはどうするべきなのかを考えました。もう私の国でも王子の国でも二人の結婚は大々的に民たちに知らされています。既に式は済み、晩餐会も終わりました。どうすれば良いのでしょう、もはや戻る道はないように思えました。ですから、あなたが微笑んで首を振ったのを見て、私は救われた気分になってしまったのです。
「大丈夫、諦めますから」とあなたが私の掌に書いたのを読み取って、助かったと思ってしまったのです。本当は少しだって助かっていなかったし、私はこの時点で望みがなかったとしても足掻いてみなければならなかったというのに。
私は実はこの時、あなたの腰に結んだサッシュの後ろ側に月明かりに照らされて銀色に光るナイフがあることに気が付いていました。あなたに声をかけたのも、あなたが取り返しのつかないことをしてしまうつもりでいるのだろうと思って、それを確かめたかったからです。結果として、あなたは既に諦めていたようでしたから、私はナイフについて追及することは辞めました。もしかしたら、あなたが殺そうとしていたのは恋敵であった私ではなくて、思わせぶりで残酷なあの王子の方だったのかもしれませんが。
私は追及することこそしませんでしたが、完全に何も見なかったことにするのは不安がありました。もしあなたが本当は諦めていなくて、王子を殺しでもしたら、私はきっとあなたが罪を犯した後の逃走の手助けをしてしまったことでしょうから。そうしたらあなたと私は共犯者です。共犯者、素敵な響きですが、結婚式の当日に夫の殺害を手助けした妻になるのは、いかがなものかと思われました。
私は王子を愛してはいませんでしたし、今も愛しているかと言われると返答に困りますが、そんな大それたことをして平気でいられる程、冷たい人間でもないのでした。だから、あなたが恋を諦めて、このまま寝室に戻って眠りについてくれることを見届けるために、私は船内に続く階段の陰に隠れながら、また甲板から海を見下ろしているあなたを見つめていました。
あなたは、しばらくの間、何か物思いにふけっていたようでしたが、やがて顔を上げると、腰の後ろからナイフを取り出して、海の中へと放りました。銀色のナイフは月明かりに照らされて光り輝きながら、海の中へ落ちてゆきました。
そして、あなたは、あろうことか、船縁の欄干を足首まであるドレスをものともせずに乗り越えようとしていました。私は思わず隠れていたことを忘れて、あなたの元へ飛び出して行きました。飛び降りたら下は海です。ドレスの重さに引きずられて、きっと沈んでしまう、私はそう思ったのです。
けれど、声をかけるよりも前に、ある重要なことに気が付きました。そういえばあなたは人魚だったのでした。王子への思いを諦めた今、もうこの船に居続ける必要はないのかもしれません。だから、海に帰ろうと思ったのかもしれません。そう思い至ると、急に声をかけることが間違っているように思えてきました。幸い、まだあなたは私に気付いていないようでした。このまま気付かないでいて欲しいと思いました。だって、覗き見していたことが、どこか気恥ずかしかったものですから。
あなたは欄干に座り込むと、顔を上げました。視線を辿るまでもありませんでした。あなたが見ていたのは、王子の寝室でした。そして、ぼんやりと視線を移して私に気が付いてしまったようでした。あの時の、あなたの驚いた表情はいまも脳裏に焼き付いています。不安定な場所に座っていたあなたの体制は暗闇の中に私の姿を見つけた衝撃で、後ろへと倒れました。頭から船の外へ落ちて行ったのです。あなたが人魚であるとは知りながらも、私は今度こそ思わず、あっと声を上げました。そしてすぐにあなたが先ほどまで座っていた辺りに走って行って、必死に手を伸ばしたのです。
それは間に合うはずもなく、やがて海面に水しぶきが一つできました。私はあなたが人魚の姿になって顔を出してくれることを祈るように待っていました。しかし、人魚はどこにも現れませんでした。出てきたのは、深く青い宝石のような泡が、いくつか。それから、あなたが先ほどまで着ていたドレスに結んでいたサッシュだけでした。
私は、自身の目の前で起こったことが信じられない気持ちでした。何度か深呼吸を繰り返して、状況を把握すると、すぐに着ていたガウンを脱ぎ捨てて、欄干を乗り越えて海の中へ飛び込みました。泡が浮いてきた辺りを何度も深くまで潜って、あなたの姿を探しました。月明かりすらとどかない奥底まで、もう必死になりながら、泣きそうになりながらあなたを探しました。けれど、人間の姿のあなたも、人魚の姿のあなたも、どこにもいませんでした。
私は認めざるを得ませんでした。あなたは泡になって消えたのだと。何度だってあなたの恋を叶えてあげられた機会があったはずの私が、何も動かなかったせいであなたは消えていなくなってしまったのだと。
翌朝、まず王子があなたの姿が見えないことに気づきました。船中の捜索が行われ、海の中の捜索も行われました。やはり、あなたはどこにも見つかりませんでした。あなたの行方を知っている者は名乗り出るようにとのお触れも、王子は出していました。私は思うのです。きっと、本当は誰が王子を助けたのか、真実を知っていれば、王子が選んだのはあなたの方だったのではないでしょうか。
事の真相を知っていたのは私だけでしょう。だけど、私は一刻も早く全ての真実を誰かに打ち明けてしまいたかった一方で、これを打ち明けたら、自分のことしか考えていない冷たい姫だったのだと皆に失望されてしまうのではないかと、呆れられてしまうのではないかと、責め立てられるのではないかと、怖くて。恐ろしくて。何も言えなくなってしまったのです。
我が儘を言うことはありながらも、人には親切に生きてきたつもりでした。品行方正ではなかったかもしれないけれど、最低限の礼儀は持っているつもりでした。けれどそれは、とんでもない思い込みでした。私は、あなたという人一人の命を、助けられたはずの命を見捨てたのです。
友人になりたいと思ったあなたと、もう会話を交わすことは決して叶わないのです。
大きな罪を抱えながら、私はこの五年間生きてきました。そして、つい数日前に、丁度、あなたが泡と消えてしまったあの場所に船で行き、再び飛び込んでみたのです。気が違ったわけではありません、幻でも良いからあなたに会いたかっただけです。あなたの幻影が現れて、私を水底へ引きずり込んではくれないかしらと思っていただけです。そんな奇跡は起こらなかったわけなのですが。
けれど、代わりに、私は全てを思い出しました。暗い夜。海の底。冷たい水。どこかから、幼い少女の泣き声が聞こえてきたような気がしました。あれは私の声であり、そしてそれを必死に慰めていたあなたの声でした。私は、あなたが持つ深く美しい青色を、幼い日、海に溺れたあの日にも、はっきり目にしたことを、思い出してしまったのです。
五年前、あなたは悲恋の末に自分から死を選んだのではありません。かつて命を救ってあげたはずの女に、追い詰められて殺されたのです。あなたは私を恨み、憎むだけの正当な理由があります。人魚が持つ力について、私はあまりよく知らないけれど、もし出来るのならば、私を呪い殺したって許されるのです。そうでもしてくれなければ、私は、私は——一体どうすれば良いのでしょうか。
これが私の真実の罪です。あなたに伝えたかった全てです。私はこの手紙を、重しを付けた瓶に入れて、船の上から海に放るつもりでいます。あなたに、どうか届いてくれないだろうかと、きっと叶うはずのないことを思い願いながら。
お読みいただきありがとうございました




