3.彼女が担うもの
執務室の窓から差し込む光は、すでに朝の柔らかさを失っていた。
セレナは机に向かい、書類に視線を落としたまま、淡々とペンを走らせている。
侯爵家の印章が押されるべき文書が、今日もいくつも積み上がっていた。
本来、この席に座るべきは父だ。
だが両親は、ほとんど屋敷にいない。
父は王都と諸侯を行き来し、母は社交と外交に追われている。
顔を合わせるのは、月に数えるほど。
言葉を交わす機会は、さらに少ない。
――だから、私がやるしかない。
「南方領の件ですが」
控えめな声が、室内に響く。
セレナが顔を上げると、ルシアンが少し離れた位置に立っていた。
その手には、新たな書簡がある。
「昨日お話しした調整案を、先方が受け入れると」
「早いわね」
「はい。セレナ様の判断が的確でした」
彼はそう言って、書簡を机の端に置く。
決して手渡しはしない。
それもまた、長年積み重ねられた配慮だった。
セレナは内容に目を通し、小さく息を吐く。
「……これで一件、片付いたわね」
だが、それで終わりではない。
「続けて、北の商会からも。
ぜひセレナ様にご相談したいと」
優秀な跡継ぎ。
冷静で、公平で、感情に流されない。
いつの間にか、そんな評価が独り歩きし、
“侯爵本人より話が早い”とまで言われるようになっていた。
「……父や母に話を通すべき案件よ」
「その旨は伝えています。ですが」
「“お忙しいでしょうから、セレナ様で”――でしょう?」
セレナは苦く笑う。
ルシアンは何も言わない。
否定しないということは、当たっているのだ。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ。あなたのせいじゃない」
書類に印を押しながら、セレナはふと手袋を見つめる。
泣き言を言いながらも、呪われたこの手が唯一役立つこの時間が嫌いではなかった。
執務を終えると、肩に微かな疲労が残る。
身体よりも、頭の奥が重い。
「礼拝堂へ行くわ」
そう言いかけて、セレナは一度言葉を切った。
「……その前に」
ルシアンが視線を向ける。
「少しだけ、お茶にしましょう。時間はあるわよね」




