1−4 時は金なり
前回の簡単なあらすじです!
再び森の探索を始めたヨハン。
不吉な出来事を目にし、怯える彼の前に現れたのは・・?
「夢じゃ、幻覚じゃ無かったのか…っ!」
鳥の亡骸そばでしゃがみ込んでいたヨハンは、おもむろに立ち上がりながら、黒い影に視線を移した。
悪夢か何かと思い込んでいた、いや、思い込むようにしていたはずだった。
そんな期待を裏切るかのように黒い影はたたずんでいる。
強くなる雨、立ち込める死臭と霧、ぬかるみ切った足元が凍らないのが不思議なほどに下がる温度。
そんな状況に拍車をかけるように現れた、黒よりも黒いその影。
この森はヨハンから何もかもを奪おうとしているのか。
足元の鳥は自らの未来を暗示するために現れたのだとしたら・・・?
そんな恐怖が脳内を駆け巡り、一瞬にして思考を強制停止させられる。
その間も黒い影はこちらを見つめ、その森に溶け込むかのように彼を地獄へ誘っていた。
両者の間ににらみ合いの間が流れた。
恐怖と生への渇望の中で震える男と、無機質ながらこちらを狙う狩人。
どちらかが動いた瞬間に始まるであろう戦いは、さながら真剣で切りあう戦のようであった。
凍てつく風がヨハンの額の汗とともに体温を奪うその瞬間、先に動いたのは黒い影であった。
それと同時に彼は力強く泥を蹴り上げ、全神経を逃走へと向けた。
逃げ切る!逃げ切って見せるんだ!
強い欲求が彼を動かす。
しかし、生への渇望は時に人を盲目にする。
ヨハンは自身の喉がヒューヒューと錆びた車輪を空回りさせたように鳴り、ふくらはぎの筋肉が小さく痙攣していることさえ気づいていなかった。
は、速いっ・・!
記憶の中では、少なくとも彼が知り得る情報の中では、黒い影にそこまでのスピードはなかった。
逃げ切れるかはともかくとして、距離を取れば希望はある。
彼はそう踏んでいたのだが、やつは明らかに違った。
静寂の森に似合わないほどの速度と、一瞬の踏み込み。
これは真剣の戦などではなかった。
老いた草食動物を狩る肉食猛獣のような、一方的な搾取であった。
圧倒的な体力の差を前に焦りを感じる間もなく、ヨハンの左わき腹に鈍痛が走った。
「っ・・・⁉」
まるで交通事故のような衝撃を意識の外から受ける。
あまりのダメージに体は宙に舞い、とてつもない衝撃とともに腐りかけた樹木に体を打ち付ける。
木が大きく揺れ、ミシミシと不快な音を立てるその根元で、こと切れそうな意識をつなぎ合わせるかの如くヨハンは薄目を開けて抵抗の意を示した。
あばら骨が粉砕され、呼吸も、咳をすることもままならない状況の中、最初に吐き出したのは空気ではなく、大量の鮮血だった。
再びぶり返す死への恐怖は心臓のポンプを強烈に稼働させ、とどまることを知らない赤の噴水はヨハンのシャツを一色に染め上げた。
自身が水中にいるのかと錯覚するほど、吐血に溺れそうになるヨハンを尻目に、黒い影はこちらに向かってきた。
殴られた・・のか・・・?
地獄のベッドに横たわるような意識の中では状況すら把握できない。
先ほどの突進といい、今の攻撃といい、明らかに自分の想定を超えていた。
加えて向かってくる黒い影はあまりにも大柄で、横幅もある。
なにが・・な、なんなん・・だ・・。
何一つ理解できないヨハンの瞼が重力に耐えきれなくなる直前、黒い影は彼の胸ポケットから出たチェーンを掴み持ち上げる。
懐中時計だ。
抵抗の声を上げようと力を振り絞るも、気道からあふれ出るのは血液だけだった。
失いつつある体温の中では、もはや血液が気化する温度など感じ取ることはできなかった。
ゆらゆらと揺れ、よりを戻すように優しく回転する懐中時計。
この白黒の世界の中では、それが反射する光はひと際明るく感じた。
11時辺りを指し示す文字盤に幸せな走馬灯を見ながら、彼の視界は森の景色と同化した・・・。
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「…っ はっ!!」
金縛りから解けたかのような解放感と共に、ヨハンはバッグを持ち森の真ん中で佇んでいた。
既視感しかないこの状況で、ヨハンは不信感とともに周りを見渡した。
・・・間違いない。
さっきの場所に戻ってきている。
すべてが全く同じ状況だ。
これはもうデジャブなどというものではない。
ヨハンはそう確信せざるを得なかった。
足元のアリも、運ばれるミミズも、彫り込んだはずの十字が描かれていないことも、そしてわき腹や足に異常はなく、服もキレイな状態であることも。
バカバカしいし意味不明でしかなったが、疑う材料が何一つないこの状況で、疑うべき対象は己の常識以外何もないことは、惨劇を経験したヨハンが一番感じ取っていた。
それと同時に、何とも言い難い恐怖が一気に湧き上がってきた。
仮にこの直感を信じ、この森での出来事がループしているとする。
ならば、私は抜け出せるのか?終わる条件は?
異常な森の中で孤独に謎の影と戦い、命を落とすと時間が巻き戻ってやり直し。
このあまりにも簡単な構造は、それがいかに絶望的な状況であるかを美しいほど端的に表していた。
ヨハンの精神は崩壊寸前だった。
五感すべてが拒否反応を示す中で、終わりの見えない行動を繰り返す。
賽の河原で石を積むようなこの状況で、気が付けば彼は涙を流し怒声を上げていた。
「ぐあぁあぁあぁ・・・!! だぁああああああ!!!」
右手に持つバッグをドサリと地面に落とし、声を上げ続ける。
着いた両ひざは、降りしきる雨の跳ね返りをも吸い込み、ドロドロになっていた。
頭の中は真っ白。
もう何も考えたくない。
ただ、天を仰いで大声を上げる。
降りしきる雨が気管に入り、思わず咳込む。
吐血した感覚を思い出し、全身に幻の痛みが走る。
ありもしないトラウマででっち上げられた記憶が、フィルム映画のコマのように大量に流れ込む。
ドサッ。
無気力にその場に倒れこむ。
アリよ。私を土に還してくれ。
あの時の鳥のように。
そう心から望もうとした時、泥の中からキラリと一筋の光が目を刺した。
懐中時計だ。
ははっ。何か私を助けてくれるのか?
皮肉めいた感情を臆することなく表情に出し、時計盤に目をやる。
10時56分。
もうすぐ11時か・・・。
時計も巻き戻ってるのかもしれないな。
自身の形見ともいえるこの懐中時計を、せめてエヴァに託したい。
そう考えると、脳内でエリザとエヴァの笑顔が映る。
その景色に背中を押されるように立ち上がろうとするが、無力さからくる脱力感で全身が鉛のように重い。
ゆらゆらと体を起こして、ヨハンは時計を拾い上げた。
力なく揺れる時計のチェーンは、重力を無視して一生揺れ続けるかのように見えた。
秒針がチリチリと進み、処刑の時刻を刻み続けるかのように見えたが、泥にまみれたせいなのか、少しかみ合わせがズレたのか、秒針が震えている。
職人として長年時計を見てきたヨハンにとって、これほど癪に障るものはなかった。
「むう・・」
白い息を吐きだしながら、眉間にしわを寄せ時計を眺める。
いつもだったらすぐ修理に取り掛かるが、びしょぬれで泥まみれのこの場所では、そうはいかない。
時計をばらしても泥が入ってはさらに悪化してしまう。
これは現実逃避でしかない。
だが信じるものが欲しかったヨハンは、時計の修理が今一番すべきことだと心に決め、竜頭を回し内部構造が作動するか確かめようとした。
グッ。
やはり泥が詰まったからなのか周りが悪い。
もう少し力を込めて、手ごたえがなければ開けるしかないか・・。
そう思った彼は、坂道を自転車で漕ぎ進める時のように、ゆっくりと力を込めていった。
その力に応えるかのように、竜頭はズズズ・・と音を立てて回りだす。
その時だった。
まるで辞書のように分厚い空気の膜のようなものが、再び体を通り抜けた。
ブウン、と鈍く体の芯に響く不快な音が鼓膜を覆い、ヨハンは驚愕した。
どこか感じた覚えのある感覚に、思わず辺りを確認する。
地面に置かれたバッグの底は汚れ、シャツの裾には何かを拭いた跡がついている。
先ほどと同じように地面にしゃがんではいるものの、倒れこんでいたにしては明らかにシャツはキレイだ。
そして手の中にある金色の懐中時計。揺れるチェーンの感覚に呼ばれ時計盤に目をやると、11時2分を指していた。
「・・え?」
、鼓膜の感覚が徐々に戻ると、何もかもが不自然な周囲に疑問の声が漏れる。
喘息のような呼吸の苦しさと軽いめまいを感じながらも、ゆっくりと立ち上がる。
バッグを拾い上げるために右手を伸ばすと、とあるものが目に入った。
いったい何を見つけたのか?
次回に続きます!