1−3 それ以外を除いて
前回の簡単なあらすじです!
森の中で謎の黒い影と出会ったヨハン。
必死に逃げるものの足を取られ大きく転倒してしまった…。
光の無いこの森では、ヨハンの膝に滲む鮮血も漆黒の色を映していた。
その眼前にはその血の跡すら可愛いほどに、憎悪と復讐の香りを漂わせた謎の黒い影があった。
「ゴホッ、ゴホッ く、来るなぁ…!ゴホッ」
息も絶え絶えになり激しく咳き込みながら、額の鈍痛と背筋まで凍りついてしまいそうな寒さを忘れ、ヨハンは言葉を振り絞った。
その服は泥に塗れ、大事に持っていたバッグは放り出されて道具が散乱している。それは荷物を投げ捨て、無邪気に砂場で遊ぶ子供の姿を思わせた。
黒い影はシルエットを震わせゆっくりと彼に近づくと、再度不快な咆哮を上げ、右手に持つなにかを両手で持ち、頭の上に大きく振りかぶった。
人間と言うのは不思議なもので、黒い影が、更に言えばそれが人なのかどうかもはっきりしない中で、自分の頭上に重量物を叩きつけようとしている事が本能的に理解できるのだ。
擦りむいた両手で咄嗟に頭を覆い、ヨハンは防御態勢を取った。
しかし、その振り落とされた重量物は彼の脳天ではなく、血の滲む右膝上部を捉えた。
刹那、雷が空を切り裂き落ちるあの感覚が脳内に一気に流れ込む。
「あ"あ"あ"ぁぁ〜!! ぐぁぁ…!!」
突き刺さる鋭利な痛みと、骨が真っ二つに断ち切れる痛みを受け、ヨハンは上げたことのない悲鳴を叫ぶ。
雨音が爆音に聞こえるこの森に、彼の断末魔が反響した。
全身の筋肉が極度に硬直し、一切の思考を遮る。
最早繋がっているかも分からない右足は雨に打たれ、筆舌し難い痛みを増幅させていた。
あまりの痛みに気絶間近で、経験したことのない脳内物質が大量に溢れかえる状況の中でも、彼の察知感覚は自動追尾の様にピタリと黒い影の動きを追っていた。
もう一度振りかぶってくる。次は脳天だ。仕留められる。
絶望的な状況において、移動能力を奪われたヨハンが取れる行動は、奇しくも先と同じ愚かな最善策だった。
上体がひしゃげる程重量物を大きく振りかぶった黒い影は、何かを認識し硬直したかの様に動きを止めた。
防御態勢を取り死を覚悟していたヨハンは反応が遅れたが、黒い影が制止した理由を察すると、右足を置き去りに大きく飛び込んだ。
懐中時計。
それはヨハンが町の中央にある時計台を完成させた日に父から貰った特別な贈り物だった。
金色に輝く時計に刻まれたシンプルな文字盤、裏面には「親愛なる息子へ」と刻まれたメッセージが添えられている。
ずっと羨望の眼差しを向けていた職人からの贈り物は、彼にとって何にも代えがたい宝であった。
四六時中肌見放さず、時に勇気を、時に優しさを与えてくれた…。
激しく転倒した際に、胸ポケットから落ちてしまったのだろう。
目の前に佇む黒い影はおもむろにその時計に近づく。
「これだけは渡さないっ…!」
決死の力を振り絞り、血と泥に塗れたボロ雑巾の様になりながらも、ヨハンは命の欠片を強く掴んだ。
「これだけは… こ、これだけは…っ…」
小刻みに震えるヨハンを尻目に、あまりにも無機質な黒い影は、躊躇いもなく重量物を振り降ろした。
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「…っ はっ!!」
金縛りから解けたかのような解放感と共に、ヨハンはバッグを持ち森の真ん中で佇んでいた。
理解が追いつかない意識の中で、ヨハンは必死に周りを見渡した。
今にもむせてしまいそうなほどにびっしりと繁殖したコケ、やせ細り腐敗した木々、そんな木々に絡まるツタ、足元にはおびただしいほどに列をなす蟻の大群が運んでいるのは、小さな蛇かと錯覚させるほど細く長いミミズ・・・。
…何かおかしい…!
先程まで生命の境界線にいた記憶があるのに、何故か棒立ちで突っ立っている事も不思議ではあるが、この景色に見覚えしかない事もその一つであった。
待て待て待て待て。一度落ち着くんだ。情報を整理しよう。
肺に軽い違和感を覚え咳き込んだヨハンは、落ち着かせる意味も兼ねてバッグからユーカリの薬を取り出した。
…やはりおかしい。
家を出る時にエヴァから受け取ったユーカリの薬。
瓶に入っている液体が故に、使用すれば減った量が一目で分かる。
だが、これは明らかに未開封の量だ。
自分は頭がおかしくなったのか?
そもそもおかしいのはこの状況じゃないのか?
一体この身に何が起きてるんだ?
答えのない禅問答を脳内で繰り広げながら、腑に落ちない表情で薬を飲む。
ふと周囲の萎びた木に目をやる。
相変わらず先の見えない淀んだ風景に、また一つ疑問が湧く。
書いた十字架はどこだ?
きっと今は遠くに移動してしまったのかもしれない。そこまで行けば最初の場所に戻れるんじゃないか?
いやいや、今いる場所は最初に見た状況に似ている。
再び始まりそうになった難問に頭を掻き、ヨハンは一呼吸をおく。
こういう時には理由だ。
理由があれば人は納得できる。
たとえそれがあっていなくとも、一貫性や法則を付加すれば、少なくとも精神は落ち着く。
教授が生徒に何かを教える様な口調で言い聞かせ、不安で高鳴る心拍数を抑えながら、一度情報をまとめる事にした。
・黒い影に出会う前、道に迷わないよう木には十字を描いた。
・その後謎の黒い影に追いかけられ転び、なにかで殴られ、右足を負傷した。
・バッグも懐中時計も、転倒したときの衝撃で地面にぶちまけてしまった。
一通りの経験内容を思い浮かべた後、改めて自分含め周りをぐるりと観察した。
・森に入ったばかりの状況に酷似しているが、書いたはずの十字架はない
・黒い影も見当たらないし、右足に違和感もない。
・バッグも持っているし、懐中時計も胸ポケットに入っている。
「う〜ん…」
軽く唸った後、ヨハンは先の経験がデジャブか何かではないかと考えた。
…といえば聞こえは良いが、実際は全くもって理解ができなかった。
あまりにも恐ろしい森に入ってしまったのだから、偽の記憶が脳内で作られたのだろう。
もしくはそれほどのショックを脳が感じたのだろう。
そう考えると、完全には納得できないものの多少の説明ができたような気がして、彼は少し落ち着きを取り戻した。
右手に持っていたバッグをドサッと下ろすと、そこから手際良くマイナスドライバーを取り出し、無言で木に十字を彫り込んだ。
さて、とにかく早い所脱出しないと行けないな。
もう同じようなデジャブはこりごりだ。
シワ一つない綺麗なシャツの袖でドライバーを拭き、ヨハンは向かって右に進もうとする。
しかし悪夢のような記憶がサブリミナルとしてチラつき、くるりと踵を返して左に向かった。
気丈に、精力的に進むその足取りは、脱出を熱望する強い気持ちと、恐怖の記憶に対するトラウマを如実に表していた。
少しの間歩き続け、ふくらはぎに軽い疲労を感じたヨハンは胸ポケットから懐中時計を取り出す。
10時56分。
太陽が昇る時間帯のはずなのに、墨で描かれた世界かの如く暗い風景のギャップに、軽いめまいを感じてしまう。
おいおい嘘だろ?
時間にしては真っ暗だし、この森に入ってからものの数十分しか経っていないのか…?
不貞腐れた笑みを口元に浮かべながら参った表情を張り付け、ぬかるんだ道を進む。
進むに連れ温度が下がり、雨脚も強まる。
加えてあの嫌な、纏わりつく匂いが立ち込める。
咳がこみ上げる前にユーカリの薬を流し込み、気を保とうと上を見上げると、馴染みのない物が降ってきた。
ドサッと叩きつけられた音がする。
鳥だ。
種類までは分からないが、よく見かける鳩のような鳥だった。いや、正確には鳥だったものだ。
羽は焼け爛れ、痛めつけられたように、骨らしき白が露出している。
その目に一切の生気は無く、衰弱しながらも飛んでいたのかもしれないと思うと胸が痛くなった。
「お前もここに迷い込んでしまったのか…?」
反応はないと知りながらも、声をかけずには居られなかった。
この鳥にも帰る場所はあったのだろう。
待つ命があったのだろう。
生きる目的があったのだろう。
不意にこみ上げる涙は、彼自身もその身で有ることを思い出させたかのようだった。
数十秒も無く死体にたかり始めるアリを見て、やるせなさを感じたヨハンは、言葉にならない怒号を一つ飛ばした。
「あぁあ!!」
握りしめた拳は寒さで痛むほどに、行き場の無い虚しさを掴んでいた。
その時、周りに低く薄い霧が立ち込めていること、そして最も恐れていたやつの姿に初めて気がついたのだった…。
2度目のアイツ登場…!?
ヨハン、絶体絶命!!
次回もお楽しみに!