天国までのラブソング
ある日、音が響いてきた。
とても素っ頓狂で、ただ鍵盤を叩いただけの音が毎日、毎日、飽きもせず響いていた。
よくもまあ、ご近所様も怒らないよなと他所様の心情を慮ったものの、その家からはずっと、ピアノの音が聞こえてきた。
毎日、学校帰りにランドセルを玄関先で投げ散らかし、母親から「愛音! どこ行くの!」て怒鳴られる前に公園へ向かう日々。
あれほど、糞がつくほどの行為に純粋な面倒くささと、全てをかなぐり捨ててでも熱中するひたむきさは、無かったと思う。今でも、そう思う。
そんな私の耳には、必ず下手くそのピアノがざらついた不快感を残す。それだけが嫌だった。
下手くそ、もっと上手くなれ。
そう、思っていたのだ。呆れるほど、自分勝手に。
だけど、次第に、毎日聞いていた――聞き流していた音色が、明確な意味を持ち始めた。
自分が弾くためだったピアノが、誰かに聞かせるためのピアノになってきて、数年後には綺麗な震えを生み出すようになっていた。
びっくりした。
いや、実際には驚く暇なんかなかった。
毎日確かに上手くなっていき、いつしか聞き惚れるような軽快な弾みを空気と共に送ってきたのだ。
いつしか、私も。
公園で遊ぶことより、ただ、その音楽を聴くためだけに、その道を通るようになった。
――足を止めるようになった。
だが、そんな毎日ひたむきに続いていた調べも、ある日パタリと、静かな時があった。
トイレにでも行ったか。はたまた、遊びにでも行ったか。幼い私はそのくらいのことしか考えなかった。
他に考えるだけの経験もない。
でも、心のどこかでは不安の方が住処を大きくしていた。漠然としたもので、これはおかしいと感じて、思わず塀をよじ登るだけの行動力を与えてくれた。
ガラス扉の向こうで。
男の子が泣いていた。
「…………あのさ」
私の足は、逐一手入れされていた緑色の絨毯を汚し、あまつさえ窓ガラスから声を掛けるほどの不届き者にした。
気づいたら、声が出ていたし。
気がついたら、唇も震えていた。
「…………なんで、やめたの」
男の子は私の声が聞こえていたのか、泣き腫らした目をぱちくり開け、こちらを見ていた。
目が合って、なおも、奥歯の軋む音が脳内に響く。
「なんで、やめたの。ずっと、聞いてたのに」
男の子は庭へと通じる扉をガラガラと開け、涙の匂いを纏っていた。
一人で、泣いていたのだ。
ピアノの、前で。ただ一人。音もなく。
「どうして、ピアノ弾かないの」
「…………え」
「わたし、ずっと聞いてた。毎日、毎日。そこの、かべの向こうから、だけど、きいてた」
「……」
「どうして、やめたの」
なぜだが、男の子は私に責められていると思ったのだろうか。唇を噛み締め、服の裾をくしゃっと力強く握っていた。
あぁ、だめだ。
そうじゃない。伝えたいのは、そうじゃない。
「あの、怒ってるわけじゃないの」
「…………」
「すきだから、いつも、聞いてて、たのしかったの」
その言葉が切っ掛けだったのだろう。
糸口としては、充分だったのだろう。
男の子は、パッとこちらを見ると、嬉しいやら悲しい気持ちやらが混在して大変な――面白おかしい表情をしていた。
◆
あれからというもの、私と男の子――福宮希代君との演奏会は続いた。
どうにも、福宮君の話では「上手に弾けない」とのことだったが、私にはよく分からないし「福宮君のはきれいな音だから、それでいいんじゃない?」と曖昧な返事でも充分だった。
しかし、彼は度々「固い音楽ばかりで、きもちよくない」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。
気持ちいい、とはどういうことか。
固い音楽とはなにか。
よく分からない。
だから、「感じたままじゃない?」とそれっぽく、かっこよく言うことにした。ついでに、勝手にピアノを借りて、音階だとか運指だとかも関係なく、音をただ出して。連らねて。続けて。
とても、聞こえたものじゃないものを彼は真剣に向き合ってくれて。
「下手くそだね」
と、酷評しやがったので、二度と弾いてやるものか、と心の中で固く誓った。
それでも、その演奏会がたのしかったこと。
くだらない音の運びで、心と感情を震わせるたのしさ。
それがあったのは確かだった。
あの瞬間と、あの時間は、短い永遠だったように思う。
◆
それからしばらく、大きくなった頃には福宮君との演奏会は、家の一角どころじゃなく音楽ホールで披露するまでになった。
なんてことはない、発表会とやつで。
彼はそこでも嫌っている「固い音楽」を披露していて、それで表彰されるまでになっていた。
誇らしく、「これしかない」と信じている顔をしていた福宮君は、私にとって「おもしろくない」演奏をするようになった。
いつしか、そんなことに幻滅してしまったのか。
アマチュアバンドがメジャーデビューした後の厄介オタクみたいに、私は「あの下手くそなピアノはどこにいった」「楽しくて、めちゃくちゃな音はどこにいった」「感情をぶち撒けて、心を震わせる音はどこへいった」と福宮君へ問い掛けもした。
返答もなく。無言で。
そのまま、決別したように、彼の発表会へ行くことも、彼の家へ行くこともなくなった。
近くを通っても――几帳面な音しか出てこず。鍵盤を叩くような音はしない。
しかし、そんなことで仲違いしたのは間違いだったと気づくのは、一年も経たないうちであった。
◆
「ジストニア…………?」
「そう。それも右手のね。あの子の利き手だよ。筋肉が強ばって、自分の弾きたい音が出せなくなったんだ。全国に行けるようになったのに……神様は残酷だね」
福宮君のお父さんから聞かされたのは、そんな話だ。
我が家までわざわざ来て、畳の上で苦しむような拳を作りながら、お父さんはそう語った。
涙を流し、私に打ち明けてくれた。
でも、私の胸の内は決して、悲しい気持ちが渦巻いていたわけじゃない。
「右手、てことは左手は」
「使える……けど、ピアノはできないだろうね。あのままじゃ……」
「駄目です」
私には、乾いていた欲望が確かにある。
干上がった感情がある。
確かに、病人となった福宮君に、トラウマとなるピアノを辞めさせるのは懸命だろう。
でも、そんなのは福宮君の意思じゃない。
「決して辞めさせないでください」
「そ、それはあまりにも酷いじゃ――」
「酷いのは誰ですか。福宮君が辞めたいて言ってましたか?」
「……あ、あぁ、言ってた――」
なんて奴だ。
全部諦めやがって。
ふざけるな。あんなに楽しそうな音を私へ届けた癖に、いつしかつまらない音楽をして、それで勝手に辞めるなんて、都合が良すぎるだろう。震える肩を、私の父親はなだめようとしたが、母親は私がなにを言うのか理解できたのだろう。
私の背中をポンっと叩く。
それで、踏ん切りがついた気もした。
「じゃあ、私が辞めさせません」
飛び出すのなんか、いつだって得意分野だった。
ランドセルを背負ってた頃から、怒鳴られる声を置き去りにするなんて、糞の役にも立たないはずだったが。
「感謝してもしきれないわね! 昔の私!」と叫びながら、向かうことができるのだ。
あの――下手くそのピアニストの元へと。
◆
「それで言ったのよ。私があんたの心を動かしてやる。諦めた気持ちに、諦めてしまうかとやる気を与えてやる、て。心して待ってなさい、私の音で震え上がらせてやる、て言ってやったの」
「え? それでなんて言ったか、って?」
「なんだっけ……随分昔だったけど。『そんなの無理だ』て言ってたのは覚えてたかな」
「だって、ずっと泣いてるのよ。おいおいおい、て。つまらない泣き方するのだもん。覚えている方がおかしいわよ。いや、覚えていた方が面白かったかしら」
「まぁ、それで必死に勉強したのよ。ピアノ教室にも通ってね」
「……え? 楽しい思い出なわけないじゃない。だって、切っ掛けがアレよ? 諦めます、関わらないでください、て。しみったれた奴が気に入らないから、私が見返してやる。塗り替えてやる、て気持ちよ。ふざけんなて気持ちだったから、楽しくなかったわね。指も動かなかったし」
「だけど、今でも弾いてると、たまに思い出して乗っちゃうのよね。いつまで経っても難しいわね。ピアノは」
「そのお陰で、色んな人に認めてもらえて。聞いてもらえて、聞こえるようにもなって。諦めた奴を動かせるようになったから、難しくて良かったわ。じゃなきゃ、楽しくなかったもの」
「……そうね。楽しいし、たのしかったの。彼の庭で聞いてた頃に戻ったみたいでね。適当な、心の赴くまま、指の動く限り紡ぐのがね」
「でも、彼は今でも隣で言うのよ。『下手くそだね』て」
「ふざけんじゃないわよ、て思うけど。やっぱり、私は下手くそなのよね」
「まぁ、彼も私に合わせるので精一杯みたいだし、ついてくるのにやっと、みたいな感じ」
「だから、彼も下手くそなのよ。ずっと……ずっとね。多分、天国に行っても私達練習してるんじゃないかしら」
「二人だけで、鍵盤を叩いて出た音に一喜一憂する。そうやってるんだと思うわ。きっと、ね」
〜福宮愛音。インタビューより抜粋〜
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