祝祭のディストピア
常識というのは世間一般大衆が同じ価値観を有していて初めて成立する概念であり、俺一人が掲げていたところで何の意味も為さない。もしもそれが世間一般の指す常識とは異なるものであるのならば俺の考えは異端でしかなく、むしろ周囲からは否定的な視線を受けることになる。
けれど常識は無意識的に備わっているものだ。人生を歩む中で経験と記憶に基づき築かれていくはずである。つまり常識とは反強制的に身につくものであり、半自動的に知り得るはずなのだ。
もちろん俺はこれまでの人生、自身を非常識だと認識したことはただの一度もないし、常識という概念そのものを疑った事もない。常に世界はあるべき姿のまま変わらぬ日常を映し続け、更新こそすれど代わり映えのない毎日を無条件に提供している。
それが普通の世界、俺の知る常識だ。
だから何一つ疑うことはなかった。文字通り何一つ。
目が覚めた時、俺の部屋は既に太陽によって染められていた。三日前に発売したばかりのナンバーが滑らかに鼓膜を縫って、俺に目覚めを促している。出会って間も無い新曲だが暇さえあれば常に聴いているため、そのメロディが流れれば次の旋律は既に脳内に浮かんでくる。毎度のことではあるが、好きなアーティストの新曲というのはそれほどまでに俺の心を強く鷲掴みにしてくるものだ。
目覚ましに使っていたその音を止めてベッドから足を下ろす。シンプルな栗色のカーペットの上をゆったりと歩きながら大窓へと向かい、テレビの位置とかぶっていない右側のカーテンだけを開いた。
家の北西側にあるこの部屋は朝日が差し込むことはない。大窓は西側、小窓も北側にしか付いていないのでこの時間は建物が影になっていて全体的に暗い。だが太陽の光に眠りを妨げられたく無い俺には好都合な立地、むしろ好んでこの場所を選ばせてもらったのである。
「祝祭の鐘よ鳴れ」
目覚ましに使っていた新曲のフレーズが脳裏によぎり思わず口ずさむ。口元が綻び足取りが軽くなる。特に病んでいるわけでは無いが、心に薬を打たれたような気分だった。やはり新曲は良いものである。
軽く身支度を整えた後、二階へと降りる。すると既に朝食の用意は済まされているのか、卵の白身に軽く焦げがつくような香ばしい匂いが廊下越しに伝わってきた。リビング手前まで来ると「成る程、どうりで」と失笑が漏れる。扉は開いており、同時に後方に目をやると洗面所へ続く扉もまた開かれていたのだ。
「礼、ドア開けっぱ!」
返事はない。代わりに荒々しく水の流れる音が聞こえてきたので、俺は諦めてリビングへと足を運んだ。当然扉は閉める。
食卓には既に全てが揃っていた。茶碗に盛られた白米も、プレートに乗った人数分の目玉焼きとベーコンも、長すぎる人生の余りある日常に遜色のない完璧なセッティング。これ以上なく完成された世界観には敬服すら覚える。
「あらさすが啓、丁度いい時間に起きるわね」
だが背後から聞こえたご機嫌な声色は俺の耳に小さな違和感を残した。皮肉屋の母が人を素直に褒める事は、硬派なロックバンドがEDM制作の曲を発表するくらい珍しい。
「おはよう母さん」軽く挨拶をしてから定位置へと腰を下ろす。母以外の姿が見えないが朝は慌ただしいのが定石だ。家族を待たず箸を手に取り手を合わせる。
するとそのタイミングで、母は新たなプレートをコース料理を提供するかの如く自然な動きでテーブルへと添えた。
「ほら、野菜もちゃんと取らないとね」
だがそれは愚かなる失態だった。
「母さん、いつも俺どうしてもトウモロコシだけは食べられないって言ってるじゃん。いい加減食べさせようとするのやめてよ」
誰よりも早起きして朝食を準備している母には申し訳ないが、いま俺は物凄く人を不快にするような表情をしているに違いない。しかし許して欲しい。この問答はトウモロコシ料理が出る度に繰り返されており、その歴史は小学校低学年にまで遡らねばならなくなるほどだ。これだけの歳月と回数を重ねて尚、同じ失敗を繰り返すのだから俺が不快感を覚え、また他者に不快感を与えてしまうような表情を露見してしまうのも仕方のない話である。
そして俺の言葉に対して母は決まってこう言うのだ。啓、貴方はトウモロコシでしか取れない栄養たちの気持ちが……
「あんた! なんて事を言うの!」
「え?」思わず反射で答えてから、食卓を眺めていた顔を前方に立つ人影へと向ける。向けてから、不可解な状況が徐々に脳に浸透してきて俺は更に眉根を寄せてしまう。
「謝りなさい、母さんに謝りなさい! あんたをそんな子に育てた覚えはないよ! 謝りなさい!」
信じられないくらい迫真の形相だった。十数年共に暮らしているが、誰に対しても物腰の柔らかい母が他者に怒りをぶつける現場など一度とて遭遇した事はない。しかし現に彼女は俺の胸ぐらを掴み、今にも食ってかかりそうなほど至近距離で大声を放っている。
さすがにこの状況では怒りよりも困惑が先導してしまった。
一先ずは母を自分から引き剥がす。こんなくだらない言い争いが原因で制服のシャツが伸びてしまうのは看過できない。それに今は彼女を落ち着かせることが先だろう。
「落ち着いてよ母さん。何をそんなに怒っているの?」
「信じられない。まさかあれ程の大罪を犯して尚、それに気づけないなんて……。母さんはあんたに幻滅したよ!」
俺の抑止も虚しく、母は一方的にそう吐き捨てるとリビングを出て行ってしまった。勢いよく閉められた扉の中に残された俺は、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。
「一体なんだってんだよ」
テーブルに並べられた料理を見て、拳を強く握る。トウモロコシの論争なんて今まで数え切れないほどしてきたはずだ。俺の中ではこのやりとりも一種のコミュニケーションだと思っていたし、母もそれを楽しんでくれていると信じていた。それが突然こんな形で現実を見せられても理解が追いつくはずがない。いや、これは果たして現実なのだろうか。
そんな疑念が思考をよぎるがすぐに振り払う。体験している以上、現実である事は疑いようがない。今日は何か、いつもなら噛み合っていた歯車がたまたまズレてしまったのだろう。そう思う以外にあの異常性を正当化できる術はない。
思考の渦中に囚われている最中、不意に扉が開く音が聞こえて俺は顔を上げる。
「どうしたの? ママめっちゃブチギレてたけど」
扉の向こう、廊下の方を見ながら姉は訝しげに口を開いた。朝一に誰かと口喧嘩をするのは初めてだった上、俺たち家族は基本争いを好まない性質なので姉が疑問に思うのも無理はない。
「そんなの、俺が知りたいくらいだよ」
しかし現状を理解できていないのは俺も同じだ。いくら疑問を投げかけられたところで彼女の望みに応えることは出来ない。
だが姉はそれ以上、話題を続けようとはしなかった。ここでの出来事には干渉しない、と言わんばかりの無表情で食卓につき無言で手を合わせている。因みにやはり扉は閉まっていなかった。
「そういえば今朝ネットニュースで見たんだけど、また中学生が……」
「ごめん礼。俺、今日はもう学校行くわ」
結局食事には手をつけていない。しかし俺は自分がこの場所から逃げたがっていることに気づいてしまったのだ。異常な現実を、家庭内という絶対安全を保障された世界で見せられる。それがどれほどの苦痛か、想像に難しくないはずだ。時間が解決するものだとしても、今の俺には少し耐えがたいものだった。
「啓、いつものことなんだからあんまり気にしちゃダメだよ」
席を立った瞬間、正面からハキハキとした滑舌のいい姉の声が聞こえて来る。しかし俺はリビングを出るまで、姉の顔を見ることができなかった。
早足に玄関へと向かう。廊下を真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がれば白い壁の奥に頑丈そうな黒い扉が見える。その手前でスリッパから靴へと履き替え、前髪をいじりながら鏡の正面に正面を向いて立つ。
その時、いつも塞がっている手に鞄が握られていないことに気づいた。同時に今日必要な荷物は全て昨日その鞄の中に詰めたことを思い出す。一刻も早くこの場所を出たかった俺は一瞬、一日程度授業の道具が無かったところで問題あるまいと甘えた思考が生まれたが、その考えを強固な決断で振り払いスリッパを履き直した。
しかし階段を登り自室への扉へ手をかけた時、隣の部屋から泣き声が聞こえてきてやはり取りに戻るべきでは無かったと後悔した。
照りつける太陽とは裏腹に冷たい風が頬を撫でる。顔に軽く手を触れながら、俺はささやかな秋の訪れを予感していた。
駐輪場に自転車を停めて額の汗を拭う。自宅から隣町の通っている高校まで自転車で約二十分。運動部に所属している俺にしてみればその程度の距離を走る分には造作もないことだが、どのルートで向かっても高低差の激しい地形という特殊すぎる環境にはさすがに堪えていた。元々高地になっていた場所を開拓して作られたこの町は上り坂と下り坂が交互に襲う自転車殺しの大地として近隣では有名で、この学校に通う生徒たちは大抵朝は額に汗を浮かべているのだ。
高校に入る前からそのことを知っていたし、寧ろトレーニングのつもりで毎日通学しようと意気込んでいたのだが、いざ通ってみるとこれが中々億劫で、毎朝腰が重い思いなのである。
「矢廉!」
実際、登校と朝練の相乗効果で体力もつき二年生にもなれば試合中の動きも軽くなってきている。結果的に実力を得ていることもあって、全力で嫌々思っているわけではないのだが辛いものは辛い。
「しかとしないでよ矢廉!」
肩を叩かれて振り返る。振り返ると頬に指が突き刺さった。背後には見慣れた男が何やら満足そうな面持ちで立っていて、その無神経な立ち振る舞いにイラッとする。だが反応をすれば更に調子に乗りそうだ。俺は無表情を保ったまま顔を前方へ戻し逃げるように前進する。
「ちょっとちょっと、この期に及んでまだしかと!?」
「……朝から元気だな、野崎」
野崎時司は小走りで隣まで来ると、その子犬のような瞳で微笑んだ。その表情を見上げてため息が漏れる。
彼はスタイルが良い。身長が百八十を超えて、それでいて手足が長い。顔は中性的かつ平凡そのものだが、オシャレを強く意識しており毎日整髪とピアスを欠かさない。校則的には問題だが周囲からはかなりの好評を得ているみたいで、オタクしか集わないと囁かれていた美術部に対する価値観を一変させた男だった。
それに加えてこの子犬のような明るい性格と瞳だ。人気になる要素しか兼ね揃えていない天性のカリスマ。皆は彼の存在をアートそのものだと評していた。因みにその点に関して一回も気持ちが理解できたことはないが。
「今日はとても良い天気だからね! こんな日は本来なら緑の映える景色の良い世界に一日中閉じこもって、朝から晩までの時の流れを絵として切り取り保存したいのだけれど、生憎国語の単位がギリギリなんだよね」
あとこいつは欠席の常習犯、サボり魔だった。
「国語の柴田、あいつお前のこと目つけてるからな。気をつけろよ?」
「そうだっけ?」キョトンとした顔で空を見上げる野崎。その横顔を見て俺は再度ため息を漏らした。
つい先週、野崎と柴田は彼の出席率について論争したばかりだ。論争というか、悪いのはどう考えても野崎なのだが、あの時の柴田の物言いの悪さにはさすがに野崎を擁護したくなってしまった。
と言うよりも、あんなことがありながら何事もなかったかのような態度を取れる野崎にむしろ俺は驚いてしまう。もしかするとこの男の辞書には後腐れなんて言葉は無いのかもしれない。確かにその方が彼の性格にはよくお似合いではあるのだが。
「それより聞いて矢廉。今月の自殺者表が出たよ。また先月の記録を塗り替えてる」
「は? なんだそりゃ」
「ちょっとちょっとちょっと! しっかりしてよ!」
「声でかい。え、何、今月の自殺者?」
「本気で忘れたの? 常識だよ常識。もう毎日のように大量の自殺者が出ちゃってるからそれを可視化して問題解決をしようって試み!」
彼はポケットからスマホを取り出すと、目にも止まらぬ速さで操作を始める。そして画面いっぱいにグラフのような物を出すと、俺の前へ差し出した。そこには自殺者表というのが表示されていて、一日にどれだけの自殺者が出ているかを示したものになっていた。それが一ヶ月分。
いや、しかしこれ……
「不謹慎じゃないか?」
「ストップ矢廉!」
急に口を手で塞がれて、慌てて振り払う。
「なんだよ気持ち悪ぃな!」
「人前でそんな事絶対言っちゃダメだって矢廉も知ってるでしょ?」
「は? 何言って……」
言いかけて口を閉じる。常に笑顔を絶やさぬない野崎が普段の子犬のような瞳を真剣一色に染めていて、とても単純な疑問を投げかける気分にはなれなかったのだ。
「……わかったよ、もう言わない」
「うん、二人きりなら多少はフォローできるけどね、他の人に聞かれたら良くないし」
「なあ、それって……」
「それより大変だよね。今月は遂に十万を超えたってさ。いくら世の中が変わったと言っても、これは流石に考えものだよねー」
彼のスマホへ目を向けると、確かにグラフの一番右端、合計自殺者数と書かれた図には十万二百人との数値が記されている。
確かに日本は他の国よりも圧倒的に自殺者が多いという話は聞いたことがある。また自殺、というのは貧困な環境にあらず、恵まれた環境である者にしか出来ない事であることも。必死に息を繋いでいる人もいる中で、五体満足な身体を持っていながら自ら命を絶つ人がいる。好ましい印象は持たないのと同時に、そんな世の中が成立してしまっている違和感のようなものが喉元に不快感を残す。
いや、最初に俺が考えていたのはそんなことではない。
「いくら多いって言ったって、さすがにこの数は……」
「うん、月に十万を超えたのはこれが初めてだって」
それにしてもおかしい。あまり関心が無かった事もあり、日本の自殺率云々に関してそこまで詳しく知っているわけではないが、俺の知るかぎり一年間の自殺者数はせいぜいが二万人くらいの認識だ。月に十万人という事は、年単位に直すと百二十万人にものぼってしまうではないか!
俄かに信じ難い。この情報を、野崎が至って日常であるかのように振る舞っていることも含めて。
「こうなったら、もう国も動かないわけにはいかなくなるかな」
それはどうだろう。そう思いつつ口には出さない。
昇降口で上履きに履き替えて校舎へと入る。築五十年の古びた建物は既にところどころ塗装が剥げており、良く言えば年季が入っていて、悪く言えばオンボロだった。窓の位置的に日差しの入らない暗い廊下をゆったりと歩き教室まで真っ直ぐ進む。
その間、野崎は部活の話に花を咲かせていた。近頃部員たちのやる気が目に見えて低下していることで苦労しているそうだ。まだ二年だというのに部長を引き受けている彼は、絵を描く以外にも部に対し色々労力を使う必要があるらしい。「大変だな」と他人事な感想が漏れた。
「そういえば、矢廉も後輩が曲者揃いで大変だって言ってなかった? そこら辺は最近どうなのよ」
「あ? そうだったか?」
立ち止まり、記憶の中を駆け回る。しかしその発言に当てはまるような出来事がすぐに浮かんでこない。
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「ちょっとちょっとちょっとちょっと! 本当に今日どうしちゃったの!」
「声がでかい」
しかし本当に思い当たる節がない。確かに部の後輩たちは皆、運動未経験者で一から物を教えるのが大変だと思う時期もあったが、彼の発言はそれとはまたニュアンスが違う気がする。そう、どちらかと言うと内面的要素を指しているような。
「まあでも、今は大丈夫ならそれで全然良いんだけどさ」
彼は特に気にする素振りもなく教室へと入っていき、いつもの如く、声を張り上げてクラスメイトたちへ挨拶を繰り広げている。
だが俺は教室の前で一人立ち尽くしていた。今朝から抱えている小さな違和感。いつもなら噛み合っていた歯車が噛み合わない瞬間。まるで昨日以前の記憶が、俺と俺以外で全く違う物であるかのような会話の相違点。
不謹慎な自殺リスト、曲者揃いの後輩、そして朝食時に突然怒りだした母親。どれか一つなら流していたかもしれない微かな出来事だが、三つも揃うのは少し妙だ。出来れば気付きたく無かったが、認識してしまった物は仕方がない。
この世界は、どこかおかしい。
「矢廉、入らないの?」
野崎を中心にクラスメイトたちの視線が俺へと向けられる。
何が何だかわからないが、日常はまるで何も知らないかのように俺を運命の中に落とし込んでいる。その表層的概念が何を表しているのか、は誰も知る由はないだろう。
とにかく今は普通を装おう。これが日常であるのならば、新たなる常識を突きつけられているのならば、それに馴染む他ない。
郷に居るならば、郷に従うべき。笑顔で手を振って教室へと足を踏み入れる。何でもないよ、おはよう。その言葉が自分の耳に木霊する。
日常は今日も回り続けている。その事にけれども俺は初めて恐怖した。
授業中に眠るのは至高だけれど内申に響く事を危惧して結局真面目に受けてしまう。しかしそんな自分を誇りに思っている自分がいて、それが原動力になりまた次の授業も頑張ろうと思える。同時に、眠っている生徒を見ると可哀想と思う気持ちと羨ましいと思う気持ちがせめぎ合い、混沌と化した感情に囚われて胸が苦しくなる。
学校とは葛藤の場なのだと強く思う。
どれだけ自身と戦えるか。自分の中に眠る闇にどれだけ抗えるか。その戦いだってきっと無駄ではないと思いながらも、無駄な時間を浪費してしまっているような罪悪感がどこかに残る。それら全て引っくるめて良いと思える自分がいる。今を全力で生きることがきっと将来のどこかで、何かの役に立つのだと、それっぽい言葉が脳内に揺れる。
「……ど。矢廉」
視界の機能しない暗闇の中、微かに聞こえた声を頼りに俺は周囲を見渡す。
「起きてよ矢廉!」
重い瞼が無意識に少し開かれ、永遠の暗闇に一筋の光が入る。目を開くと自らの腕と教室の窓が一番最初に視界に映った。体を起こし声の方へと振り向く。
「珍しいじゃん、矢廉が授業中に居眠りなんて。柴田が世界が終わりを告げるんじゃないかって驚いてたよ」
そうか、眠ってしまっていたんだ。
朝日と呼ぶには大分高い位置にある太陽が遮蔽物を隔てず俺の顔面にダイレクトで輝きを送りつける。
隣に立つ野崎は冗談混じりに笑いながら、俺の顔色を見てカーテンをしめてくれた。その事には感謝しつつ、頭をかいて顔を伏せる。
「……柴田、あいつ大袈裟だなぁ。でも折角頑張ってたのにやっちまった。印象悪くなったかな」
「どうだろう、生徒の行動を咎められない立場だし何とも言えないけど。でもいつも真面目な矢廉の居眠りなら多少は大目に見てくれるんじゃないの?」
引っかかる言葉を無視して深い息をはく。
「だと良いけどな」
初めて居眠りしてしまった。だが不思議と罪悪感はなく、むしろ最初に感じていた恥ずかしさが留まることなく膨らむばかり。顔に熱を感じながら、俺は再び机に突っ伏した。本日何度目になるかもわからない盛大なため息が漏れる。
「また寝るつもり?」
呆れ混じりの声にムッとする。
普段、授業を全く聞いていないのは野崎の方だというのに何を偉そうに言うか。
「違ぇよ、なんか頑張ってた自分が馬鹿馬鹿しくなった。今回のせいで今までの努力が水の泡になった気分だ」
「本当に珍しい事もあるもんだよね。それよりはいこれ、今回の国語一切ノート取って無かったでしょ。いつも写させてくれてるし、お返し」
二枚ほどの紙切れを眼前にちらつかされて、俺は再度体を起こす。普段どちらかと言えばノートを貸すのは俺側なので、彼から紙を受け取ると何だか内側がむず痒いような、くすぐったくなるような感覚になった。
しかし罫線の羅列、その空白部分を埋めている文字列を見て俺は一気に冷めた。
「字きったな」
「ちょそういうこと言うんだったら返してくださーい!」
「冗談だよ。ありがとな野崎」
字が汚いと思った事は全く冗談などでは無かったが、ここは丸く収めるため無難に謝罪を挟んでおく。しかし本当に汚い。普段あれだけ身格好に気を遣っているのに、人に見せる字には全く気を遣わないのか。
「どういたしまして。天才の矢廉なら次の授業受けながら写せるでしょ。終わったら返してね」
「天才じゃねぇ、俺の学力は努力の賜物なんだ。けどまあ元々そのつもりだったけどな」
「やっぱ天才じゃんよ!」
「声がでかい」
いつもの他愛のない会話が続く。その間だけは、少しだけ平凡な日常を感じて今日起こった不可解な違和感が霞んでいった。
その後は残り五時間分の授業をしっかりと全うした。一時間目を丸々睡眠に使えた事もあって頭が冴えて、いつもよりも集中して取り組めた気がする。野崎から借りたノートもバッチリ写したし今日の勉強はいつもと遜色なく終えることができたであろう。改めて今回は野崎に感謝せざるを得ない。二度と同じ過ちを犯さぬよう、肝に銘じなければ。
「矢廉は今日も部活だっけ?」
「当たり前だ。こっから新人戦が始まるし気合い入れなきゃな」
ホームルーム前の教室。入ってくる夕日を遮るようにカーテンを閉めながら俺は少し肩に力を入れた。
「……そっか、じゃあ今日は矢廉たちの事描きに行こうかな」
「は? 何だよ突然」
急な提案に眉尻が下がる。たしかに野崎は絵のことになると急な話が多い。今までにも行動を起こす当日の朝に呼びかけられて被写物を探しにあちこち連れまわされるような事が多々あった。しかし自身が被写体になるのは、出会ってから一年半経つ今まで、一度だって無かったはず。
しかし対する野崎は平然とした様子で自身の鞄を漁り一枚の紙切れを差し出してきた。
「次のコンクールは人物をメインに入れた風景画を描こうと思っていてさ。デッサンはよくやるんだけど、生身の人間を描いた事あんまりなかったし?」
「だからって急すぎるだろ。外で描くの先生は認めてくれるのかよ」
「ちょまた天然発言来たよこれ」
言い方まじで腹立つな。
だがその時、先程の野崎の言葉を思い出した。
「あ、そうか。生徒の行動を咎められない立場、だっけ?」
「そうそう、そゆこと。わかってきたね!」
どうやら俺はこの一日の野崎との会話で大分世界に馴染みを得たらしい。まだわからない事は多いが、今後も彼との会話を経て情報を集めるのが無難な策だろう。何があるかわからない以上、少なくとも数日は出来るだけ他者との接触は控えたほうがいいかもしれない。
「でも咎められないのは先生だけじゃないけど」
低く、冷たく呟かれた微かな言葉。その瞬間、野崎の瞳には光が宿っていない気がして俺は息を飲んだ。常に明るく元気な野崎からは考えられない、亡者のような虚な瞳。彼は俺からの視線に気づかないのか否か、暫く表情を保ったまま固まっていた。
だがそんな緊迫した場面も一つの足音に全て持っていかれてしまう。
「おい親友、早く部活に行こうぜ」
背後からの声に野崎が振り返る。俺も彼越しに声の人物へと目を向けるが、見知った顔では無かった。恐らく他のクラスの奴、野崎と同じ美術部員なのだろう事が窺える。
「田端くん、早いねどしたの?」
田端、と呼ばれた背の低い眼鏡の青年は何故だか不敵に、そして不適に笑うと縁の細い眼鏡を持ち上げて咳払いをした。
「俺たち名誉ある美術部は学校内で多くの期待を寄せているんだぜ。部外の人間なんかと油売ってないで早く部活に行かなきゃ。だろ?」
嫌味全開、まるで自らを誇りまみれだとでも言いたげな自信満々溢れる態度。その細い喉元を掴んで床に叩きつけたくなる衝動を抑えて俺は野崎へ聞いた。
「誰だこいつ」
「ああ、うちの部員だよ。この野崎時司様の実力に憧れてるのか、すごいついてくるんだ」
野崎の発言に思わず吹き込んでしまう。
彼は普段あまり人を悪く言わないのはもちろん、印象が悪くなるような事も自分からは殆ど発さない。たった一度だけ、去年の暮れに喧嘩したクラスメイトの事を罵詈雑言で圧倒してたのを見た事があるが、それ以来、以前にも、彼が他者を悪く言うところは見た事がなかった。
しかし、逆に言えば彼は今怒っているのだと判断できる。その証拠に微笑む彼の瞳は全く笑っていなかった。
「実は今日はここにいる彼の練習姿を描こうと思ってるんだ。彼が動かないと活動できないし、ここで待ってたってわけ。だから今日は部室行かないし、構わず行っててくれると嬉しいなーなんて」
「なんだよ、それなら俺も一緒に行くぜ相棒」
野崎の表情に翳りが見えて苦笑する。今朝、部員が曲者揃いだと言っていたのはこういうことか。いや曲者揃い云々は俺の話だったか?
「今日は集中して描きたいから一人にしてくれると嬉しいなーなんて思ったりもしなくもないんだけど」
「別に親友の邪魔するつもりはねぇよ。俺は俺で一人で描いてる。それとも何だ、俺がいること自体が邪魔だって言いたいのかよ」
しかしこれまた妙だ。これだけ濃い性格の男が親友にまとわりついているのならば既に顔くらいは覚えていても良いはずなのに、俺は田端の事を何も知らない。
確かに今この世界はどこかおかしい。俺の知る常識とはどこかずれていて、会話が噛み合わないことも多々あった。しかし親友に取り憑く厄介者が未知の存在であるなんて、今まで無かった。まさかこの微妙な違和感が相関図まで変えてしまっているのか。
「なんだ相棒、俺を否定する気か?」
お前はさっきから親友なのか相棒なのかどっちなんだ。
「いや、わかった。良いよ。でも部室には寄らないから、鍵開けるのは任せても良いかな、副部長」
「おう! そうだな、俺は副部長だからな!」
田端は先程の不機嫌さはどこへやら、嬉しさを余すことなく体全体で表現して颯爽と教室を出て行ってしまう。
お前も大変だな。そう言おうと思った時スマホの通知が鳴る。ロック画面から確認するとそれは野崎から送られたものだった。
「お前この距離なんだから普通に……」
途中で「しっ」と唇に手を当てて言葉を遮られ、そのままその指は俺のスマホへと向けられた。
「何だよ急に」
野崎は答えない。仕方なくスマホを開いて内容を確認する。端的に紡がれた文章の全文をまるで難問を読解するかのようにじっくり目を通した。
その間、俺は絶句していた。小さな違和感が確信へと変わり、同時に俺の思考には新たなる疑問が生まれる。信じ難い話だ。だがこれほどの相違点を見せつけられては、真実である事を許容せざるを得ない。
野崎は相変わらず何も言わない。俺はもう一度スマホ画面を開きメッセージ内容を今一度確認した。
『大した実力も無い雑魚が相棒だとかしゃしゃってんじゃねぇよ』
『何が名誉ある美術部だよ。まともに活動してんのは俺だけだっての。本当言うことだけは一丁前だよな』
『口だけのやつ見てると本当に殴りたくなるわ』
ここまでは昨日以前に送られてきてチャットに残っていた記録、過去の俺とのやりとりである。だが俺はこんな会話した覚えはない。さっきも言った通り俺の認識だと野崎は他者の陰口はほとんど言わないやつだ。しかし遡れば遡るほど、会話の内容は互いに他者への悪口で溢れていた。
そしてたった今送られてきたメッセージへと目を向ける。
『今日の矢廉は少しおかしいから、改めて説明する』
『この世界は歪に染まっている。他者への否定を行えば周囲から責め立てられ、少しでも暴言を吐けば存在を無かったことにされるんだ』
『さっきのあいつみたいな調子に乗った雑魚でも、俺は殴る事は愚か叱る事すらできない状況』
『矢廉とはこの世界を間違っていると思っている同志だった。けど今日のお前はそういうのとは少し違うと思ったからこうして注意して接してたんだ』
『矢廉、気をつけて。否定を否定する今の世の中は、否定する人間を探し出し揚げ足を取る機会を狙っている。闇を晒しちゃダメ。光で闇を隠すんだ』
もう一度画面を暗闇に落とし、野崎を見る。真顔を貫く彼の表情に色はなく、彼の瞳にはまるで絶望を宿しているかのような闇を感じた。今朝会ってから、彼はずっと闇を胸の内に隠し持っていたのか。そう考えると言葉にできない不気味さが皮膚を這い撫で回る。
闇を晒すな。野崎の呟いたメッセージが脳内にこだまする。不幸か幸いか、部活まではまだ少しだけ時間があった。
ホームルームが終了すると、生徒たちはまるでそれまで統率が取れていたのが嘘のように四方八方に散った。
否、問題ない。全くそれで良いのだが、一斉に散っていく様を目の当たりにして何だか今まで教師の意に沿って大人しくしていたのが馬鹿らしく思えてきたのだ。縛られているか否かなど時間の違いでしかない。その時間から解放されれば自由になれるのならば最初から縛られている意味は果たしてあるのだろうか。
まあ、あるのだけれど。
かくいう俺と野崎もホームルームまでは大人しく席に着き、号令と共に教室を去っている。集団行動における礼儀、モラル、これらは社会的能力向上、常識的思考の構築には最も効率的な手段だ。ただ先程の光景がなんだか馬鹿らしく見えたというだけで、俺は別にこの手段を否定しているわけではない。
会話も少なく校内を歩き部室前までたどり着くと、そこで野崎とは一度別れる形になった。俺は部室内で練習の準備があるし、彼は彼で画材の準備や場所取り等がある。別に俺を描くからといって部活中ずっとついて回るというわけではないだろうし、彼も後は勝手に動く事だろう。もしずっとついて回るような会話の流れなら二つ返事でお帰り願っていた所だ。
「遅ぇぞ啓!」
耳を貫通するような大声が聞こえて、思わず仰反る。見れば室内には一人しかおらず、その一人が仁王立ちで何かを待ち構えているかのように佇んでいた。
整髪料で上げられているツーブロックの短髪、太い眉に大きな鼻。しっかり鍛えられた肉体はゴツゴツとした輪郭を作り、とても百七十丁度には見えないくらいの巨漢に見せる。彼の相当ストイックであることが一目でわかる風貌には感服していて、何を隠そうこの俺、矢廉啓は彼に憧れて未経験であるにも関わらずバスケ部に入部するという経緯があるほどだった。
「すみません部長、ホームルームが長引いてしまって」
「そうか。それなら良かった」
バスケ部の部長、柊誠は短い息を吐くと真下に影薄く潜んでいたベンチへと腰掛けた。部長は厳しいが優しい人でもある。活動に遅れる部員がたった一人でもいるといつもこうして部室で待ち構え心配しているのだ。勿論、遅れた理由がしょうもない時は厳しめの説教が待っているのだが。
今回も恐らく、わざわざ遅くなった俺一人のために一人待機していてくれたのだろう。他人の時間を奪ってしまうのも申し訳ないので気にせず先に練習していて欲しいのだが言って聞くような人ではない事は検証済みだ。今は、そういう性格なのだと割り切るしかないと思っている。
「やはり今日もまともな時間に来るのはお前だけなのか」
しかしこの一言は、俺の積み立ててきた予想を真上から粉砕してきた。
「え、それはどういう……」
理解が追いつかず呆然としていると、部長は掠れた笑みを作りゆっくり立ち上がる。そして俺へと歩みを進め目前で立ち止まると、肩に手を置き息を吐くように優しい口調で鼓膜を揺らした。
「啓、お前何言ってんだよ今更。もうここ半年以上、お前以外の部員が遅刻しなかった事は無かっただろ」
脳に直接電流を受けたかのような衝撃を覚えて、その場でよろける。
「おい、大丈夫かよ!」
そのまま倒れそうになるが、とっさに部長が腕を掴み引っ張ってくれたおかげで体勢を立て直す。しかしまたしても信じられない出来事が起きてしまった。去年は県大会二位まで登ったバスケ部が、まさか部員すらろくに揃わない状況にいるなんて。
「……そんな、どうしてこんな事に」
「どうしてって、啓こそどうしたんだ。何だか様子がおかしいじゃねぇか。もうこの部活にはお前しかいないんだ。しっかりしてくれねぇとよ、ほんと困るぜ!」
「他の部員たちは、全然部活に来てくれないんですか? 副部長ですらも!?」
部長は掴んでいた腕を離し、踵を返すように再びベンチの方へと歩き出す。やがて立ち止まると、ベンチを見下ろしたまま立ち尽くしやがて答えた。
「もしかしたらこの狂った世界が、お前までおかしくしちまったのかもな」
部長は自身の奥底に眠る感情を全て押し殺したような、まるで拷問に耐えている最中に話しかけているのではないかと思ってしまうほど、苦しそうに、吐き出すようにそう言ってまた乾いた笑い声を発する。
「よく聞け啓。他の部員たちは別に来ないわけじゃねぇ。だが毎日一時間以上遅刻してくる上に部室で駄弁ってるだけで練習には参加しねぇし、全員ほぼ幽霊部員みてぇなもんだ。それに……」
部長は振り返り、俺の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「副部長はお前だよ、矢廉啓」
「はあ!?」ハッとしてすぐ頭を下げる「す、すみません。ちょっと頭が追いつかなくて」
「いいよ頭下げなくて」
「でも、じゃあ遠藤先輩は……」
遠藤一春は俺の知る限りではバスケ部の副部長で、部長に並ぶ実力者である。部長が突破口を作り、副部長が得点を決める流れがうちの強みで、逆に言えばうちのバスケ部の強さは二人なくしては成り立たないと言っても過言ではない。
「あんなやつが何で副部長なんだよ」
しかし部長の反応はこうだ。正直、部活動内における体たらくの酷さは今日一番の衝撃だった。しかし何より、自分にも他人にも誠実なこの男が嘘をつくとは到底思えない。
その事実が真実であることを強く主張してきて、まるで逃げ場を失った罪人のような無力感に襲われる。
「そんな、俺、ずっと県大会にも優勝したくて、関東大会も、初戦敗退なんて悲しい思い、もうしたくないって思ってそれで、それでずっと……」
涙が溢れてきそうになるのを気持ちで食い止める。口を開くと、気を緩めると泣いてしまいそうで、それ以降は言葉が止まってしまう。
「何夢見てんだ、人数も揃ってねぇってのに。それにメンバーが揃ったってあいつらじゃあ逆に足手纏いだし」
「でも俺たち去年は関東大会まで行きましたよ! 一回戦で負けちゃったけど、県大会だって二位になれたんです!」
「そんなわけねぇ、全部お前の幻想だ」
昨日までの努力の日々が一気に甦ってくる。その中には柊部長や遠藤副部長、もちろん同級生や後輩も一丸となって同じ目標を目指していて統率の取れた部内の雰囲気は最高潮に達していた。先輩に怒られた事も、同級生と競り合った事も、後輩には拙いながら指導をしてあげた事もあった。どれも鮮明に覚えている、部内でのかけがえの無い思い出である。
その思い出の中に先程の野崎の姿が写る。
「そういえば、矢廉も後輩が曲者揃いで大変だって言ってなかった? そこら辺は最近どうなのよ」
そうだ。彼は既に言っていた。この世界での部活の惨事を俺にちゃんと教えてくれていた。強いて言えば曲者の数は後輩どころの騒ぎでは無かったがそれは今は些細な事。
やはり、この部活はもう駄目なのだ。
『矢廉、気をつけて。否定を否定する今の世の中は、否定する人間を探し出し揚げ足を取る機会を狙っている』
そして同時に、この世界に関する重要な話をしていた事も思い出す。
「部長こんな事を俺が言うのもなんですけど俺の前で、その、他人を足手纏いとか言って良かったんですか?」
部長は怪訝な顔をした後やがて何かに気づいたように「ああ」と呟き、少しだけ、今までとは違うどこか前向きな笑顔を見せた。
「お前だけは信頼してるから、お前の前でだけは全部出せるんだ」
その瞬間、急に背後の扉が開かれ驚いた俺は音から逆方向に飛び退いた。
だがその正体は見るまでもないだろう。そう思ってまず部長の隣へと足を運ぶ。大まかな状況は大体分かったが、まだ俺がこの世界の部内でどんな空気感でいたのかが読めない。まずは部長との会話を聞いて大体の流れを図ろう。
「ちぃーす柊。まだ練習始めてないなんてチョー珍しいじゃん」
先頭に立っている人間が真っ先に部長に向かって声をかける。
派手な金髪にぱっと見で数えられない大量のピアス、ネックレス、指輪。これから部活だというのに、まるで運動に適していない格好をした人々がぞろぞろと入ってきてあっという間に俺たちを取り囲んでしまう。
しかし俺が最初に感じたのは怒りでも悲しみでもなく疑問だった。俺にはこの男が誰だかわからなかったのである。
「ミーティングしてたんだよ。けどちょうど終わったとこさ。んじゃ、もう行こうぜ啓」
部長が俺の手首を掴んで出口へと歩き出す。戸惑いながらもついて行くことが無難だと判断し、俺も抵抗はせず彼の意のままに足を運んだ。しかし何を思ったのか、他人の群れは下卑た笑みを浮かべながら俺たちの前へと立ち塞がる。その者どもの中にはとてもよく見知っていた顔がいて絶句した。格好が変わっていて気づかなかったが、金髪が引き連れていた人たちは皆、間違いなく俺の知ってるバスケ部の同級生と後輩たちだった。この行動は部長にも予想できなかったのか、戸惑いの色が表情から窺える。
「どういうつもりだ」
歩みを進めたことで、背後に回っていた金髪の男が部長の真横まで歩いてきて肩に手を触れた。
強気に出る部長など全く恐れぬその様子に、俺は少し違和感を覚える。
「いやぁ、ねぇ、ミーティングって俺たちの悪口のことかなぁって思ってさ」
狼狽する俺の腕を部長が強く握る。
「何のことかわからないな。被害妄想をするくらいなら真面目に練習に参加したらどうだ遠藤」
「え?」誰にも届かないくらいの小さな声を発して遠藤と呼ばれた金髪へと振り返る。精悍だった顔つきには脂肪や余計な肉が付き、当時感じていた爽やかさや練習時に感じていた気迫が一切感じられない。表情も悪巧みを考える不良みたくなっていて、とても真っ向勝負を好むスポーツマンだったとは思えなかった。外見内面、どこを取っても別人だ。
「残念だがよぉ、お前らの会話は全部聞こえてたんだわ」
「俺たちのことよくも足手纏いとか言ってくれたなぁ柊先輩よぉ」
「そんな否定のされ方したら、俺たちゆとりはつらくて泣いちゃうよなぁ」
遠藤に釣られるように、周りの奴らも嬉々として部長を責め始める。
本当に野崎の言う通りだった。世間は皆、誰かが何かを否定しているところを探して揚げ足を取ることを楽しんでいる。否定されることが否定される世の中。どうしてこうなってしまったのかはわからないが、今は部長が悪の側に立ってしまっているのだ。
「本当に何のことかわからない。聞き間違いじゃないのか」
「あ? 歯向かうのか?」
それでも負けじと強気に出る部長だが、逆に遠藤も強気な姿勢を見せる。
「俺たち全員、部長に悪口言われたって先公にチクっても良いんだぜ?」
「そうだそうだ、俺たちは傷ついてんだぜ?」
「謝罪が欲しいなぁ先輩。土下座してくれよ土下座」
「良いねぇ土下座。土下座しろよ土下座!」
空気が変わる。輩たちの土下座コールが始まって部長も完全に雰囲気と流れに押し負けてしまった。例えば遠藤たちが先生に告げ口をしたとしてその言葉がどこまで影響するのかはわからないが、どうやら部長にこの脅し文句はかなり効いているらしい。
まあ元々、素直で真っ直ぐな人だし悪いことをしてしまったという勘違いでも働いてしまっているのかもしれない。いや、あくまでこれは想像で本当のところはわからないけども。
しかしこの状況、延々と続けられては埒があかない。部長は黙ってしまって、このまま押されれば本当に土下座でもしかねない勢いだし、周りの奴らも歯止めが効かなそうな連中だ。
とにかく部長がピンチである事には変わりない。やはり俺が何とかするしかないのだ。それに、もうとっくに堪忍袋の尾は切れている。
「うるせぇなぁ。どけよ、こっちは早く練習してぇんだ」
他者を否定することが自身にどれほどの影響を及ぼすのかはわからないが、そんな事よりも何の努力もしてない輩に部長が謝罪する事、それを見て見ぬふりする事の方が許せない。
「つべこべ言ってねぇでとっとと部活参加しろよ。しねぇならやめろ、邪魔なんだよ」
「おい、おい啓なに言ってんだ!」
だから気づいたら口を開いていた。既にもう体が動いていた。
「そもそも疑問なんだが、やる気ないのになんでずっと部活入ってんだ? 時間の無駄だろ。遊びたいなら帰りゃ良いじゃねぇか。なんでわざわざ努力してるやつの間に入ってきて邪魔すんだよ。お前らみてぇなやつらは存在自体迷惑だってことわかってんのか?」
部長の声が微かに聞こえた気がしたが、今は構っている暇はない。多分、今隙を見せてしまえば俺は負ける。
「おいてめぇ、悪い事は言わねぇ。その口塞いでとっとと消えろ。後輩をいじめる趣味はねぇ、今ならまだお前だけは許してやる」
「は? 何でてめぇが許す立場なんだよおかしいだろ。悪いのはそっちなのに何でこっちが審判下されてんだ」
自分が凄めば相手が怯むとでも思ったのか、または他の意図があるのかはわからないが遠藤の言葉が止まる。しかしそれは裏腹に俺の方は想いが溢れて言葉が止まらなかった。
「そうだよ、何だこの世の中。否定することを否定するとか意味わかんねぇよ! 否定されるような行動してるやつ否定することのなにがいけねぇんだ!」
「おいこいつやべぇよ。誰か早く先公呼んでこい」
「ダセェ真似してんじゃねぇよ! 今してんのは俺とお前たちの話だろうが。関係ないやつ勝手に巻き込んでんじゃねぇ」
遠藤に言われて動き出した後輩の肩を掴んで部室の奥へと突き飛ばす。突然のことで動けなかったのか、彼はそのまま力に任せるように飛んで、部長の隣に崩れ落ちた。
「お前ら全員バスケ部の荷物なんだよ。これ以上頑張ってるやつの足引っ張んじゃねぇよ。お前らが……」
言葉の途中、入り口が開いて俺を含むその場の全員が固まった。言葉を散らしていた時は色々な感情が脳内でせめぎ合っていたが、この一瞬でそれら全てが冷めて、一気に冷静になる。そして徐々にもしかすると自分はとんでもないことをしてしまったのではないかという疑念が生まれ始めた。
「先生、あいつですよ! ずっと他の部員の事悪く言ってたんです!」
そう言ったのは田端だった。その姿を見て、そういえば野崎と部活を観に来るらしい事を言っていたなと思い出す。まさかこんな形で告げ口されて見つかってしまうとは思ってもみなかったが。
「何故だ矢廉。何故お前のような優秀な生徒が、こんなこと」
今にも崩れ落ちそうなほど青い顔をした担任が、オロオロと俺の顔色を伺う。田端と担任の後ろには野次馬のような人たちがちらほらと集まっており、たとえ今この場を強引に切り抜けようとしても逃げられない状況である事は何となく理解できた。
先生の反応はまるで鬼に出会ってしまった子どものようで、震え上がった体が今にも後ろに倒れそうでそれだけは気がかりだった。
その反応が何を意味するのかはわからない。だが俺は自分が言った事が何一つ間違ってい無かった事を確信している。
「先生」だから俺は胸を張って答えた。「俺は俺の正義を貫いただけです」
言ってから野次馬の中に野崎の姿が見えることに気づいた。彼の瞳には、相変わらず絶望が色濃く映っていた。
手錠がかけられた時は、流石に焦った。
殺風景な学校の一室。普段立ち入ることのない罪人隔離室の中で俺は前の世界なら一生感じることがなかったであろう緊張感に震えていた。罪人隔離室が学校にある異常性。これから俺はどうなってしまうのか。いくら自問自答を続けていても答えが出るはずもなく、ただ膨らんでいく不安に胸が張り裂けそうになるのを必死に、ただ必死に抑えていた。
もうここに入ってから三十分近くが経とうとしている。スマホは没収されてしまったが、部屋の中には時計がかけられているので時間だけは確認できた。逆に時計以外の物は何一つない。故に響く時を刻む音が、時の流れを緩やかに感じさせていた。
「聞こえるか、矢廉啓」
声が聞こえて顔を上げる。扉を挟んでいて顔が見えないが恐らく担任の声だ。
「聞こえてます」
遂に何かが動き出す。そんな予感を胸に、俺は拳を強く握った。
「最後に話がしたいと言う人が三人いてな、一人につき数分、時間を設けようと思う」
また何か引っかかる言葉だ。だがこんな状況に立たされていては、違和感のある言葉一つ一つを気にしている余裕すらなかった。
「わかりました」
手枷を見てため息を吐く。どんな状況であっても、こんな姿を誰かに見られるのは嫌だった。
扉が開かれて一人、生徒が入ってくる。このタイミングで逃げ出せるかも、という甘い期待が脳裏によぎるが、手の塞がった状態での逃亡劇はさすがに格好がつかない。何よりもまずこれを外せない限り、何一つ現実はやってこないのだ。
一人目は野崎だった。これは想定内だが、やはりそれが事実だと確認できると胸の内が暖かくなる。思わずこぼれた笑みに野崎は顔をしかめた。
「おい、何笑ってるんだよ」
近づいてきて、両手で両肩を強く掴んでくる。激しく、何度も、何度も揺さぶられる。
もちろん手が使えない俺には抵抗ができず、されるがまま彼の話を黙って聞いた。
「矢廉、これからどうなるのかわかってるの!? あれだけの人数の存在を否定するなんて、何でそんな馬鹿なことしたのさ!」
歯を食いしばり表情を歪める野崎。その顔を俺は真っ直ぐ見つめ、ただただ彼の言葉を聞いた。
「何で、どうしてだよ……。俺の話聞いてくれるの、矢廉しかいなかったのに……」
やがて肩から手が離されて、揺すられ続けてふわふわとした感覚を振り払う。しかし目の前で野崎が涙を流していることに気づいて、俺は動きを止めた。
「……ごめん、違う。本当は僕が守るべきだったんだ。様子がおかしいのなんて朝からわかってた。だから僕がずっと一緒にいて見てあげなきゃって思ってたのに。まさか別れたタイミングで揉め事起こすなんて。もっと気をつけてればこんなことには……」
「それは違う。野崎、それは違うぞ」
今度は俺が彼の手を取る。
「野崎がいたにしろ、いなかったにしろ、あいつらには一言いわなきゃ気が済まなかっただろうし、そうなれば多分さっきみたいに止まんなくなってたと思う。だからお前が気にすることじゃない」
「もし僕があの場にいたらぶっ飛ばしてでも止めてたと思う。それほどの事をしたんだよ、矢廉」
左手で涙を拭い一歩後方へ移動する野崎。
落ち着きを取り戻した口調が部屋の中を跳弾し続けて、俺の体に多方面から浸透してくる。それでも俺にはどれほどのことをしたのか、未だ検討がつかない。これから何が起こるのかもわからない。
「でも、もうお別れだ」
しかしだからといって何もかも諦める必要はないはずだ。
「また会おう野崎、必ず」
野崎の瞳には相変わらず希望が宿っていない。今はそれでも構わない。どうなるのかわからない未来の中で、俺の持つ希望がお前に届くことを願う。俺は諦めない。絶対に。
野崎が退室すると、立て続けに二人目の尋ね人が姿を表す。引き締まった体と育ちの良さを感じさせる所作が目に入って、俺は一人目にした時と同じように微笑んだ。
「部長、なんて顔してるんですか」
しかし柊部長は答えない。男らしさが全開に出ている太い眉を八の字にして、柄になく今にも涙を流してしまいそうな顔をしたままで、今しがた閉まった扉の前で立ち止まっている。
「話、しないんですか?」
彼の息遣いが聞こえてきて押し黙る。しかしそんな気遣いも虚しく、彼はすぐに言葉を発した。
「悪い、全部俺のせいだ」
微かに発された掠れた声が、閑散とした部屋の中でとてもよく響く。
「部長のせいじゃないですよ」
「お前が庇わなかったら、今俺はお前の立場になっていたかもしれない!」
悲しい表情のまま、下を向いたまま、彼は怒鳴り声のみを向ける。
「でもお前を犠牲にして助かったって、全然良くねぇよ……」
尻すぼみになっていく言葉とともに、彼はその場に座り込み手で顔を覆い隠した。彼の責任感が人一倍強い事はこの一年と少しで大分わかったつもりだ。そんな彼が人の犠牲の上で成り立つ平穏に満足できるとは、改めて考えれば到底思えない。
「……お前と俺のどっちかが犠牲になる運命なら、どっちに転んだって俺には地獄だ。どうしようもねぇ生き地獄だ。俺はこれから何と戦って生きればいい。誰と鎬を削っていけばいいんだ」
言われて気が付いた。この世界では部長以外にまともな部員は存在しない。もしもこの状況で俺が学校から消えてしまったら、彼は部内で一人取り残されてしまう。当然だがまともな練習など出来るわけがないし、他者の行動を否定できないこの世界において改善策は皆無。無意味に時間が流れるだけの日々を送ることになってしまう。
「すみません、部長」
この時、はじめて部長は俺に顔を向けた。
「もしかしたら他に出来ることがあったかもしれなかった。別の方法を探した方が良かったかもしれなかった。だから、すみません」
言葉が紡がれていくのと比例するように彼の手が強く握られていく。しかしやがて力が抜けたように再び手を開くと、何事もなかったかのように立ち上がり、そして扉へと向き合った。
「お前に謝られちまったら、どうしようもねぇな」
彼が退室してから次の人が来るまでは、少しラグがあった。一瞬、もう終わりか思いもしたが、聞き間違いなければ最初に担任が三人だと言っていたはずだ。
言っていたのであれば来るのだろう、と気長に待つ。
しかし俺には最後の尋ね人が誰か検討がつかなかった。野崎も部長も関わりの強い人物だったことから大体予想は付いていたが、基本的に部内のコミュニティから外れたところを行動の視界に入れていなかった俺は部外の友達が少ない。だがこの世界では部内でさえ部長以外とは険悪だった。要するにこの世界において俺の友人は二人だけになる。
そうなると、罪人扱いされている人に会う事を趣味にしている物好き、という架空の存在が脳裏にチラつくのだが、知らない人と話してられるほど俺だって余裕があるわけではない。
なんて思考を巡らせている時、ノック音が二回聞こえてきた。
「失礼します」
高い声と共にゆっくりと扉が開かれて、おずおずと姿勢の悪い少年が入ってくる。しかしその意外な人物に俺は目を見開いた。
「すみません先輩、どうしても話したいことがあって」
三人目は先程遠藤が引き連れていた輩の中の一人、後輩の栗田詩温だった。以前は小さい背におかっぱ頭が似合う可愛い後輩だったが、今は遠藤同様、とてもスポーツマンとは思えない派手な身なりをしている。
先程、遠藤に言われて先生を呼びに行こうとした彼だ。
「話したいなんて、なんのつもりだ詩温」
他の二人とは違って彼は特別仲が良いわけでもなんでもない。むしろ敵対していたやつだ。あまり好意的ではないことを口調に含み威圧する。
しかし返ってきた言葉は意外な物だった。
「僕の名前、知ってくれてるんですね。嬉しいです矢廉先輩」
言われて思い出した。恐らくこの世界では俺と詩温に接点はない。俺は彼を詩温とは呼んでいないし、彼も俺のことを啓先輩とは言わないのだ。こういった会話の一つが、他者への不審感に繋がっていたことを察して反省する。
「最後にどうしても言いたいことがあるんです。きっと言わなきゃ後悔すると思って。……もしかしたら貴方は僕なんかと話したくないかもしれないと思いましたけど、でもこれは僕の我儘です」
小さい少年はまだ幼い人見知りの子供のようにその場でもじもじとしながらも、はっきりと言葉を口にした。その言葉遣いや口調、表情からは嫌味な部分が一切感じられなくて、俺は少し考えた後やがて言葉を促した。
「聞くだけなら別に良い」
「ありがとうございます。僕、遠藤先輩たちとつるんでて格好もこんなんですが、実はいじめられてるんです」
言葉にも、表情にも出さぬよう努めたがこれには驚いた。
「いじめというか、多分あの人たちからしたらいじられ役をいじるみたいな感覚で僕に暴力を振るってるんだと思うんですけど、それが僕には苦痛で仕方がなくて。だって普通に暴力なんです。軽く肩を叩くとかそんなもんではなく、殴る蹴るで傷だらけ、一回骨が折れたこともありました」
「仲間同士でそんな……。なんでお前はそんな奴らとずっとつるんでんだよ」
「嫌って言えないからですよ。嫌っていう事は他者の行動を否定することになる。本当は元々、こんな格好するの柄じゃないし、派手なことにも興味ないから関わりたくなかったんです。だから僕、それならいっそ敢えて何も言わずに自然消滅を狙おうと思って。けど一回仲間の集まりを無視したら……」
表情を曇らせ、左手をさする詩温。
その左手に視線が集中する。だが詳しく聞き出そうとはさすがに思えなかった。
「もうしないって言ったらその時は解放してくれました。けど日常的暴力が消える事はただの一日もなく結局、半年近くが経ってしまっています。だから本当は明後日自殺するつもりだったんです。場所もタイミングも決めてて、仲間の目の前で堂々と死んでトラウマを植え付けてやろうって思ってました」
ただ聞くだけだと思っていた俺だが、少し彼に情が寄りかけていた。だから俺は彼の妙な言い回しに敢えて口を挟んだ。
「思っていたって事は、気持ちが変わったってことか」
「ご名答です。きっかけは今日、あの部室内での出来事です。常識も、保身も、何一つ投げ捨てて出た真実の断罪。この世界に囚われた誰もができなかった、正義の遂行。それを平然とやってのける貴方を見て、僕はこの世にはなんて格好いい人がいるんだと感銘を受けました。その時同時に、嫌な事を嫌って言うただそれだけの事がどうして出来なかったんだろうって、これまで何もしてこれなかった自分を強く悔やんだんです」
「それは、そうしてたら今の俺みたいになるんだから仕方ないんじゃないか」
清々しい笑顔のまま真っ向から俺を見つめる純粋な瞳が、首を振る。
「今の貴方が、僕にはとても格好よく見えるから言ってるんです。僕は貴方の行動に心も体も救われたんですよ」
言い切って満足したのか、彼は目を閉じると拳を作って自らの胸の前に置いた。
正直に言えば彼の言葉は俺にとても刺さっていた。俺の言葉が、行動が、この歪な世界に暮らす歪な住人たちの間で苦しむ人に少しでも勇気を与える事ができた。否定を否定する世界において、俺の行動は間違っており明確な悪である事は明白なのに、それを肯定してくれる人がいた。救われたと言ってくれたその言葉にこそ、俺は救われたのだ。
「その言葉が聞ければ俺も悔いないかな」
彼の笑顔に呼応するように、俺も笑顔を作る。
地平線の彼方に太陽が沈みかけている。思えばろくに部活もできず随分と無駄な時間を過ごしてしまった。それを言ったらこれからも当分は部活動なんてできないのだろうが。
「詩温、お前部活ちゃんとやれよ。んで明日、いや今日からお前が部長を支えてやってくれ」
「え」虚をつかれたとでも言いたげに露骨に驚く詩温。
「お前の考えてる事は大体わかる。けどそれは今じゃなくても、もう少し学校生活を楽しんでからでも良いんじゃねぇか? これまでが辛かった分、ここから見えてくるものもあると思うし」
「でも俺、今までずっと部活には迷惑かけてきてて、バスケだって上手くないし……」
「いやお前がいてくれるだけで部長は絶対喜ぶと思う。多分部長、ああ見えてメンタルあんま強くないし俺がいなくなったら腐っていくと思うんだ。だからそうならないように、お前がサポートしてやってほしい」
小さな少年は胸に置いていた拳を開き、わずかに震える手のひらを見つめる。そしてやがてそれを下ろすと再び俺を真っ直ぐとらえた。
「僕で良いんですか?」
「俺はお前に頑張ってもらいたいな」
俺の言葉に応えるように最初に入ってきた時と差異のない爽やかな笑顔で頷く。
そして最後の尋ね人との会話も終了し俺はまた孤独へと戻った。何もないただただ広い空間の中、特にやる事も無いので大の字になって寝転がりこれからの事を考える。
まあ、捕まるんだろうな。と思う。
一度も明言されていないが、会話から察するに多分そうだろう。俺からしてみれば学生同士のくだらない喧嘩だが、この世界では犯罪だと判決をくだされてしまうわけだ。これで前科者だと聞くと笑えないが、三人と話してる中で何となく自分の中で覚悟はついた気がする。
「矢廉、移動の準備ができた。部屋から出ろ」
扉が開かれないまま担任の声が響く。
手錠が繋がれたままだと言うのに不親切な。しかし反抗しても仕方がないので、素直に扉を開いて外に出る。
「先生、俺これからどこへ行くんですか?」
担任は怪訝な顔をしつつも、どこか冷めたような眼差しで俺を見下ろし、躊躇いを見せながらも割と素直に口を開いた。
「神と呼応せし摩天楼。その果てに位置する天に最も近しき神聖なる空間、高楼の神殿だ」
それがあたかも普通であるかのように、不自然さを全く出さず歩き出す担任。呆然としたまま動けずにいる俺は流れるように遠くなっていく背中を見送ることしかできない。本当に、担任は至って普通だった。
俺には、担任が言った言葉が何一つ理解できなかったというのに。
「祝祭の鐘よ鳴れ」
「祝祭の鐘よ鳴れ」
頭の中に鈍く、けれども強い音が聞こえてきて急に目が覚めた。まるで頬を叩かれ無理やり夢から引き剥がされたような不快感が襲い、胃の奥から気持ち悪さが込み上げてくる。
しかし周りを見て、そんな事は些細な事であったと気づく。
俺が存在していたのは、過去の一度だって訪れたことのない真っ白な空間だった。左右と後ろ、天井はどれほど遠いのか判断がつかないほどに奥行きがあり、前方十メートルほどの位置には祭壇がある。そのすぐ後ろは壁だ。
祭壇にはまた真っ白な、バスローブを正装化したかのような不思議な服に身を包んだ五十前後くらいの見た目の男が足を組んで座っておりこちらを見下している。
極め付けは、真後ろに立てられた石像のような物に手足が拘束されて身動きが取れない。
予想していなかった状況に理解が追いつかず、一先ずは視界から得た情報を一刻も早く整理しようと脳が回転する。
「祝祭の鐘よ鳴れ」
「祝祭の鐘よ鳴れ」
再び鈍く、強い音が部屋中に充満するように響く。心なしか音の振動が体を強く揺らしているかのような錯覚さえ感じて、再び不快感が蘇る。大きすぎて聞き取りづらかったが改めて聞くとそれは鐘の音のように感じた。
「静粛に」
祭壇に座る男が短い白髪を撫でながらゆったりと立ち上がる。彼の言葉に従うように長々と続いた騒音はぴたりと止み、同時に不快感が薄まっていく。
「矢廉啓だな?」
渋みを感じる、よく通る低い声だ。
「そうですが……」
無難に頷いておく。聞きたい事は山ほどあるが、無策な発言は予期せぬ炎に油を注ぎかねない。現状が把握できていない以上、全ての行動が無謀だと思っておいた方が身のためだろう。
しかしこれまでの比にならない異常事態なのに、信じられないくらい冷静な自分がいる事が意外だ。この世界に来てから予想だにしない出来事が起き過ぎた結果だろうが、この世界観に溶け込まれつつある自分が怖い。
「私は神に遣われし者。残念だが、お前はこれから贄として死す未来を辿ることになる」
一瞬、何を言われたのかわからなくて反応に遅れた。
「頭が追いついていないと思うが、こちらも時間がない。神との誓約を破るということは神に逆らうという事と同等、よってお前には死の審判がくだされたのだ」
「……何を言っているのかが、わからないのですが」
ようやく出た声は弱々しく、毅然とした態度を取ろうと思っていた俺は少し気恥ずかしさを覚えた。
「お前が理解するか否かは問題ではない。要は死ぬという事だけを理解していれば良いのだ」
「言ってる意味が理解できないわけじゃなくて、何でこんな事になってるのかわからないって言ってるんです」
今度ははっきりと言葉が出てきた。心に余裕が出て、少し強引に押してみようかと思案する。
だが対する男も同様に、毅然と俺を睨んだ。
「どちらにしても同じことだ」
「人を殺すと宣言しておきながら、その理由は深くは語らないと言うんですか?」
「殺すわけではない、贄となるのだ。他者を否定する事は神により定められた禁忌であり、贄となる事はそれに対する罰なのだ」
「なんだよそれ」
否定を否定する世界が神によって定められた?
誓約を破った罰が神の贄となり死ぬ事?
冗談じゃない。今の文明の時代で神云々を本気で言っているのなら良い笑い話だ。信じている人間が存在する事は知っているし、全面的に否定するわけではないが、何の神を崇めているかもわからない信者の作った勝手なルールに則って関係のない人間に手を下すなどあっていいはずがない。
そもそも何故こんな歪な世界は生まれてしまったんだ。
「否定を否定する世界だって事は十分理解した。けど何でそうなった。神って何だ。神がいるせいでこうなっているのか!」
「神を愚弄するな。貴様も言うなれば下界に巣食う寄生虫。偉大なる神に対する言葉には気をつけるが良い」
「どうせ死ぬなら教えてくれたって良いだろ。何で人を否定しない世界が生まれたんだ。そうする事によって世界になんの得があるんだ」
「世界は闇で満たされていた。人々は嫉妬にまみれ、自己愛を振りかざし多くの人間を不幸にした。お互いの足を引っ張りあい、醜い争いを繰り広げた。だから神は誓ったのだ。世界中の人々が誰一人、他者を悪く言ってはいけない世界を作ろうと。傷つく者のいない優しい、光で溢れた世界を築こうとしたのだ」
まるで自己の栄光を語らうかの如く、彼は天を仰ぎ実に嬉々として災いの根幹を口にした。停車駅のない電車のように言葉が次へ次へと滑らかに進みあっという間に終着駅までたどり着いてしまう。
「今の世界は、まさに光そのものではないか。傷つくことも傷つけることもなく誰もが笑顔を絶やさぬ世界。これが真の光だと、そうは思わんかね?」
「思わない」
男の言葉が紡がれるたび、天へ伸ばされた手が高く高く上がっていくたび、俺の感情はそれに比例するように徐々に膨れていった。
「その光は偽りに過ぎない。たとえ言葉を抑制したとしても、心のうちに秘めたる闇が消えるわけじゃない。隠して、押さえて、そして抑えきれなくなった闇は、別の形で他者を傷つけて自殺に追い込む。傷つく人がいない世界だなんて本気で思ってるのか? なあ、近年の自殺率の高さがその証拠だろ!」
「き、貴様……!」
男に初めて狼狽の色が見える。その隙を逃さんとして畳みかけるように、俺は言葉を探して必死に紡いだ。
「俺がこの世界で過ごしたのはただの一日だったけど、言いたい事が言えなくて苦しんでるやつを何人も見たよ。言葉を抑えたせいで、もう相手が何に対して怒ってるのか、悲しんでるのかがわからなくなってるやつもいた。平気で人の嫌がる事をするやつも現れたり、暴力も……。偽りの光で闇を覆ったところで世界が救われるわけじゃない。このままただ闇を隠すだけじゃあ、先の未来に待つのは偽りの剥がれた闇の往来に苦しむ世界、ディストピアだ」
ものすごい形相で睨みつけてくる男から絶対に目を逸らさないよう自分に言い聞かせ、乱れそうになる呼吸を平静を装いながら整える。しかし言葉を止めた今も、男は否定しようとする素振りを見せない。
言えるうちに、言いたい事は言っておいた方が良いだろう。腐らず堂々と、肝に銘じる。
「憎むことも否定することも、それを受け入れて悲しむことも、全部人間にとって大切な感情だ。それを乗り越えて初めて人は前に進める。負の感情そのものを否定して心の奥底に閉じ込めていたら成長なんてできない」
「ならば傷つく事を許せと言うのか。お前は醜い争いを延々と行う愚かな人類を肯定しようというのか」
「何でもかんでも全て許される世界にいたら、他者に対する信頼も、あらゆる物事に対する向上心も失ってしまう。それに嫌なことがあるから人は良いことに対してより感動を覚えられるんだと思う。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全て揃っているから人間は全力になれるんだ。誰も否定しない平等な世界なんていらない。誰もが本気でぶつかれる公平な世界こそ真の光なんだ!」
「それが貴様の理想か。神の創り出した世界を否定するなど、かつてない大罪ぞ!」
この世界に来てから罪なんて言葉は聞き飽きた。今更そんな脅し文句を受けたところで大した抑止力にもならない。
「神に言っといてよ。自分が同じルールの下で暮らすわけでもないのに勝手な判断で人間を不幸にすんなって。それかマジでキツいから一回この世界体験してみてって」
申し訳ないが、俺は神の存在を一切信じていない。先ほども言った通り信じている人間を否定するつもりも勿論、毛頭ない。それぞれの世界観で確立していれば、それで良いと思っている。けど混ざってはいけないんだ。
「鐘を鳴らせ!」
腕を薙ぎ払い叫ぶ男を前にして、俺は再び来る騒音を危惧して意味もないのに目を閉じた。
「祝祭の鐘よ鳴れ」
「祝祭の鐘よ鳴れ」
アナウンスのような男性の声が複数聞こえてきて、再び鼓膜を割くような鐘の音が脳内を直接刺激する。あと今思ったのだが煩わしさ極まりないこの空間で、よく彼は平然としていられるものだ。俺は正直、意識を保っているだけで精一杯だった。
「闇は全て葬り去るのだ!」
しかしその男の言葉が聞こえてきた瞬間、ギリギリまで張り詰めていた糸が千切れるように体が力を失った。意識も薄れ始め、冴え渡っていた思考も徐々に回りが悪くなっていく。
ここで意識を失う事は、多分すべてを失う事なのだと言うことは何となく理解している。わかっているのに、力が入らない体は操縦者のいない操り人形のように垂れ下がり、首は生後間もない赤ん坊の如く無力に傾いている。
どうしようもない状況の中で更に、今度は思考に霞がかかっていき意識が朦朧としてくる。瞳は開かれたままのはずなのに、何故か映されている世界を認識できなくて必死に何かを探しているはずなのに、何を探しているのかさえわからなくなってくる。何がしたかったのか、何が起こっているのか、どうするのか、どうなるのか。そうか、俺は……
「祝祭の鐘よ鳴れ」
「祝祭の鐘よ鳴れ」
「祝祭の鐘は鳴る」