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乱れ咲く華々~百合短編集~

散華

作者: an-coromochi

毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。


少しずつ秋の足音が聞こえてきた今日このごろですが、舞台は春のお話です。


今回は、双子百合になっております。

病気を取り扱ったお話なので、終始、シリアスなものとなっておりますが、

お時間があれば、お付き合いください!


では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!

 (1)



 一つの球根から、二つの花が咲くことが時々あるらしい。


 共に日差しを浴び、

 共に天に向かって伸び、

 共に美しい花を咲かせる。


 一つの花を咲かせるものより、大きな花を咲かせることは難しいかもしれない。


 でも、自分は一つより二つだと思う。

 だって、それだけで特別だと思えるから。


 大風や大雨、日照りだって…。

 苦しいことは、共に励まし合って耐え抜く。


 柔らかな陽光、乾いた土に染み込む慈雨。

 喜ばしいことは、共に分かち合って天に伸びる。


 共に生きることの出来る存在がある、ということは、どれだけ美しく、かけがえがないことだろうか。


 ただ一つだけ、疑問がある。


 片方の花が枯れるとき、もう片方も、きちんと枯れることが出来るのだろうか?


 生まれたときから、いや、生まれる前から一緒なのに。

 散るときが、別々なんて、そんな残酷なことがありうるのだろうか?


 そんなことばかりを悶々と考えていた双葉美月(ふたばみつき)は、すれ違った看護師に挨拶をされて、我に返りながら無言で頭を下げた。


 リノリウムの床材と、白い壁と天井が、ここが病院であることを嫌でも思い出させて、美月は表に出さないように苦虫を噛み潰す。


 この場所は、自分を現実に引き戻す。

 諦めきったような人々の顔と、それを見慣れた連中の貼り付けたような仮面の笑顔。


 ここには、死と慣れ親しんだ空気が充満している。


 桜色のロングスカートを揺らし、もう目を閉じていても迷わず向かえる病室を目指す。


 突き当りにある休憩室の大きなガラス越しに、青々とした空が見えた。

 こうして、風光る景色を見ながら病室を訪れる度に、美月は思い知る。


 世界は、自分たちの都合など見向きもしていないということを。


 ノックを二回する。音が小さかったからか、中から返事はない。


 あるいは、ここを尋ねる人間は医者か看護師か、自分ぐらいなものだと、彼女が知っているからかもしれない。


「入るね」わざと明るい声を出す。


 こういうことが上手くなったのは、あまり喜ばしいことじゃない。


 扉を開けて、彼女が横になっている場所に視線を向ける。


 真っ白な衣装に身を包み、瞳を閉ざした少女が寝台に横たわっていた。


 そのあまりにも穏やかな表情に、もしや、という不安が湧き上がったが、慎ましい胸が規則的に上下しているのを見て、美月はほっと胸を撫で下ろす。


 開けっ放しになった窓から、春風が舞い込んでくる。


 目に見えぬ桜の花びらが部屋の中で踊り、室内の換気を手伝う。

 波打つスカートにそっくりな動きで、カーテンが風に揺れていた。


 美月からしてみれば、何もかもが白で統一されたこの部屋は、酷く隔絶された印象を受けるものだった。


 ここで暮らす人たちは、病院から一歩外に出た世界の住人――私たちとは、違うのだと言われているみたいで、癪に障る。


 窓際に移動して、カーテンを少しだけ開ける。風を受ける面積の減った布地は、はためくことをやめた。


 カーテンを開けた音が眠りの妨げになったのか、ベッドのほうから寝返りを打ってシーツが擦れる音と、かすかな声が聞こえた。


 叶うことなら、まだ眠らせていてあげたかった。


 夢の世界は優しい。

 少なくとも、この世界よりは。


「…美月?」


 振り向けば、寝ぼけ眼をこすりながら、わずかに上体をもたげた少女がこちらを見ていた。


 声も、顔立ちも、髪の色も質も、自分に瓜二つの少女を見て、美月は微笑んだ。


「まだ寝てていいよ、美陽(みはる)


「ううん、大丈夫。何かお話しようよ、眠るのは飽きちゃった」


「そう…、分かったわ」


 美月は、美陽のベッドのそばに置いてある椅子に腰を下ろした。


 鏡写しのようになった二人。違うのは、髪型がロングか、セミロングかという点ぐらいだ。


 美月の片割れである、双葉美陽(ふたばみはる)がこの白の牢獄に閉じ込められて、もう数年が経っていた。


 眠りと覚醒を繰り返す日々は、ほとんど全てのものを美陽から奪った。

 そしてそれは、双子の姉である美月すらも、がらんどうにすることを意味する。


 病魔が、美陽の持ち前の陽気さだけを唯一残していったことは、幸福でもあり、残酷でもあっただろう。


「今日も天気がいいわね。後で散歩でもする?」肩にかかったロングヘアを振り払い、美月が言う。


「え、ほんと?やったぁ!」と破顔した美陽は、直後、一瞬で顔を曇らせて首を傾げる。「でも、先生から許可が出るかな?」


「ええ、大丈夫よ。先生を説得して、お許しを貰ってるの」


「おぉ、さすが美月、どうやってあの先生を説得したのやら…」


 嘘だ。本当は説得なんてしていない。

 でも、許可が出たことは本当。


 というよりかは、もう、事前にしていた外出許可の申請が不要になっただけだ。


「私が頭良いの、知ってるでしょ?」


「うわぁ、嫌味だなぁ。私も美月くらい頭が良ければ、大学だって行けたのにさぁ」


「…そうね」


 言葉を失いかけ、俯きそうになった美月は、何とかそれをこらえて、笑ってみせた。しかし、それは失敗に終わったようで、目頭がじんと熱くなり、視界がかすみかける。


 美陽はそんな美月の顔を見て、困ったように口元を歪めた。

 昔なら、絶対にしなかった笑い方だ。


「ごめん、ごめん。冗談だよ、泣かないで、美月」


 かつては、美しい陽光しか知らなかった笑顔に、暗雲が立ち込めていた。


「ご、ごめんなさい」慌てて涙を拭いながら、美月が呟く。


「いや、私のジョークのセンスが悪かったんだから、謝んないでよ」


 冗談っぽく告げる美陽が、酷く哀れに映る。


「美陽…、どうして、貴方が…」


 ほとんど独り言のようにして言った美月の言葉に、ふぅ、と美陽はため息を吐いて答える。


 彼女は、美月の嘆きを聞き飽きていたのだ。


「ねえ美月、楽しいこと、考えようよ」

「楽しいこと、なんて…。あるわけないじゃない」

「もぅ、頭良いのに馬鹿だなぁ、美月は。これじゃあ、どっちが病人か分からないよ」


 そう言って朗らかに笑う表情が、青白い顔に不似合いだった。

 また美月は目頭が熱くなり、言葉が出てこなくなる。


 そんな美月を見て、美陽はいよいよ呆れた表情で肩を竦めた。


「あるよ、絶対。美月となら、必ず見つかる。どこでだって、いつだって、どんな体だったって」


 眩い光を放つ美陽のオニキスの瞳を見て、美月は唇を噛み締め、泣くことを必死に止めようとした。


 彼女が強く咲こうとしているのに、同じように咲けない自分が、憎たらしくて仕方がなかった。


 医者の言うことが悪い冗談ではなく、真実であるならば。


 春が死に、夏が芽吹く頃に、


 私の片割れの花は散る。


 嫌味なほど健やかに咲く、私を置き去りにして。

 



(2)



「美陽、見て?綺麗なアネモネ」


 美月の目線の先、病院の花壇には、赤、白、青と色とりどりのアネモネが咲き誇っていた。


 その愛らしさに、一縷の救いを見出した美月であったが、肝心の美陽は車椅子の上で、空の向こうを眺めているばかりだった。


「美陽?」と不安そうに妹の名前を呼ぶ。

「あ、え?なに?」

「なにって…。アネモネ、綺麗だよ」

「あぁ、本当。そっか、春だもんね」


 何事もなかったかのように会話を続ける美陽だったが、美月は、そんな彼女の様子に顔を曇らせた。


 日が経つにつれて、美陽がぼうっとしている時間が増えた。


 単純に眠いのか、体力が尽きかけてしまっているのかは分からない。

 それを尋ねる勇気も、今の美月にはなかった。


 もしも、後者だったら…。いや、彼女が何と答えたとしても、無理をしているのではないかと、どのみち落ち着かないに決まっている。


 美月は、美陽が自分の問いかけに答えなくなる、そんないつかに想いを巡らせ、身震いする日々を重ねてきた。


 そして、それがいよいよ間近に迫って来ているような気がして、毎日、血の気の引くような恐怖に襲われているのだ。


 それを表に出さないよう、努めて明るい声で告げる。


「花、好きだったよね?」


「うん。特に春の花は好き」


 何となく、彼女がそう言う理由は想像できた。

 だって、春は…。


「だって、私たちの生まれた季節の花だから」美陽が、こちらの頭の中をトレースしたみたいに言う。


 満開の桜のような笑顔を美月に向けた彼女が、とても愛おしく思える。


 双子だから、不思議なテレパシーがある、とは言わないものの、自分を構築している遺伝子が丸々同じだというのは、並の関係ではない。


 そればかりか、小さい頃からべったりだった二人は、同じものを見て、聞いて、感じて、学んで生きてきた。


 少なからず、通じるものがあるほうが自然と言えるだろう。


 多少は明るい話題になった、と美月が安心したのも束の間、美陽が姉の想いを無視するような発言をこぼした。


「死ぬなら、春がいいなぁ…」


 冗談でも、言って良いことと悪いことがある。

 美月は車椅子の背もたれに力なくもたれかかり、見えもしない塀の向こうを眺めていた。


 美月は体を前のめりにして、どこか虚ろ気な瞳を、おそるおそる覗き込んだ。


「美陽…」


「あ、あぁ、ごめん。冗談だよ、冗談」


 はっと我に返った様子で答えた美陽は、誤魔化すように話題を素早く変える。


「ねぇ、美月、覚えてる?小さい頃に行った、大きな桜の木がある湖のこと」


「ええ、もちろん。今じゃダムになってるんですってね」


「えー、そうなのぉ?なんかショック」


 変わらずにはいられないものね、と口にしかけて、慌てて口をつぐむ。


 それを認めるのは、現状、最もつらいことだった。


 湖の周りをダムで囲い、水をコントロールするように。

 自分の心も、コンクリートで覆うことが出来ればいい。


 そう、美月は思った。


 何か喋っていないと、余計なことを考えてしまいそうで、恐ろしかった。しかし、無理やり口を開こうとしても、言葉は現れない。


 病院の中庭では、美月と美陽以外にも、何名かの患者と介護者がいた。看護師も数名いる。


 ほとんどが年老いた患者であったが、中には、美陽よりも幼い子どももいる。


 一人の女の子が、花壇のアネモネに手を伸ばし、車椅子から落ちかけていた。看護師は、それを慌てて止め、優しく叱りながらも、ハンドルを押して女児を花に近づけてやっていた。


「わぁ、きれぇ!」女の子がはしゃぐ。まだ、小学校低学年ぐらいだろうか。


 看護師は、女の子に対して慈悲深い笑みを向けていた。

 美しい一枚絵になるかもしれない光景だが、美月には、そしてきっと、美陽にも、全く違うものに見えていた。


 あの尊い優しさは、きっと少女に終わりが近いことを示している。

 儚い運命の元に生まれついた少女へ、せめてもの幸せを与えようとしている。


 二人には、そう見えた。

 だからだろう、彼女らはどちらからともなく視線を交わし、車椅子を押して少女に近付いた。


 少女よりも先に、看護師がこちらに気づく。一瞬だけ複雑そうな顔を浮かべた彼女は、慌てて美しい笑顔を繕う。


 ぺこり、と二人で頭を下げる。

 振り向いた少女に、美陽が声をかけた。


「こんにちは、お嬢ちゃん」


 柔らかいトーンだが、少女はきょとんとした顔だ。


 もう一度、小首を傾げて美陽が挨拶をした。それでも、少女にあまり変化はない。

 すると、少女はその丸々とした瞳を上に向けて、車椅子のハンドルを握っていた美月を見つめた。


「え」と声が漏れた。


「『え』、じゃないよ。美月、ちゃんと挨拶しなきゃ駄目じゃん」


「あ、うん…」情けない。もう二十歳なのに、双子とはいえ妹に叱られた。しかも、常識的なことで。「こ、こんにちは…」


 じっ、と二人を見ている。悪意も恐怖も感じられない、純な眼差しだが、逆にそれが不安を煽る。


 あまりに気まずい沈黙に、看護師が口を開きかけたそのとき、少女がようやく声を発した。


「おんなじだ!」


 爛々と目を輝かせ、口を大きく開けた少女が、指先を美月と美陽に向ける。その発言で、なぜ少女がきょとんとしていたのかが分かった。


 人を指差すのはいけない、と看護師が咎める。しかし、少女はまるで話を聞かず、「私、知ってるよ!コピーっていうんでしょ」と見当違いなことを言った。


 こればかりは看護師も、失礼な発言だと厳しく少女を叱った。だが、当の本人たちが気にしていない様子で笑うので、彼女は少し安心したように微笑んだ。


「すいません、失礼なことを…」


「いえいえ、気にしないでください。私たちは慣れてますから」元気よくそう告げた美陽が、くるりと美月を振り返って尋ねる。「ね、美月?」


 こくりと頷く。

 美陽の眩しい笑顔に、美月も口元を綻ばせ、答えた。


「ええ、もちろん。むしろ私は、美陽のコピーと思われて嬉しいわ」


 少女のほうを見ながら、少し体を折り曲げる。


「え」と美陽が低く呟く。「え?どうしたの?」


「いやぁ、ちょっと…」


「ちょっと、何?気になるじゃない」


「んー、美月、怒るか、いじけるかするから言いたくない」


「し、しないから。ほら、言ってちょうだい」


「ほんとぉ?」と美陽は目を細め、苦い顔つきになる。


 昔と変わらない表情に、苦悩の日々を忘れることが出来ていた二人だったが、少女のことも、看護師のことも同時に忘れてしまっていた。


 美陽は目線を美月から逸らしつつ、先ほどよりも明らかに言いづらそうに声をひそめ、低く告げる。


「『コピーと思われて嬉しい』って…。ちょっと、キモい」


「き、キモっ…」


 美陽の口から自分を否定するような、しかも、二人のつながりを無下にするような言葉が告げられ、美月はショックのあまり声を途切れさせた。


 それから、少しずつ何を言われたのか理解すると、頬を膨らませ、「うぅ」と唸りながら、自身の半身を睨みつける。


 迫力に欠け、今や失いつつある幼さを全面に出した行動と表情であったものの、じんわりと涙を浮かべた様子に、美陽が慌てて先刻の言葉を濁す。


「ち、違うんだよ?嫌とかじゃなくてね、うぅん、なんというか…。怖い?」

「うぅ、美陽…!」

「あ、ああ、えっと、違くてさ、んー…、そう、そう!重い!メンヘラ?ヤンデレ?みたいだよ」


 何のフォローにもなっていない言葉に、美月はがくりと肩を落とした。それから、ややあって、車椅子から少し離れると、近くのベンチに腰を下ろして、両手で顔を覆った。


 やばい、と思い美陽が声をかけるも、彼女は、「放っておいて!」と喚くばかりだ。


「やっぱり、いじけるじゃん…」美月のほうから、看護師のほうへと視線を移す。「ごめんなさい、美月、頭良いんだけど、ちょっと、その、ヤバい奴なの」


 苦笑いする看護師の後方から、「ヤバくない!」と怒りの声が聞こえる。


 美陽は美月を無視することを決めると、少女のほうに近づいた。まだ、車椅子を自分で動かすくらいの力ならある。


「私は、双葉美陽」すっと手を差し出す。握手を求めているのだろう。「お嬢ちゃんは?」


 それを指の隙間から見ていた美月は、自分とは似ても似つかぬコミュニケーション力に、やや後ろ向きな気持ちになった。


 名前通り、美陽は太陽の光を十分に浴びて育ったような快活な女性だった。表舞台で踊ることが大好きで、みんなの注目の的だった。


 対照的に、美月は月の光を浴びて生きてきたような女性だった。

 陰陰滅滅(いんいんめつめつ)としていて、舞台裏でこそこそと作業をしているほうが、落ち着くようなタイプの人間だ。


 どうして、私ではないのだろう。


 美陽の病気が発覚してから、ずっと美月が繰り返してきた問いだった。

 今でも時折、何かの間違いでは、と聞きたくなる。

 自分が薄命で、彼女が見送る側だったならば、どんなに納得出来たことだろう。


 美陽は、少女と自己紹介を済ませたようで、小さな手としっかりとした握手を交わしていた。どちらの手も、細く、白いのが印象的だ。


 それから、数分の間、彼女らは立ち話をしていた。いや、座り話か。まあ、そんなことは重要じゃない。


 やがて、看護師が軽く頭を下げて、少女の車椅子を押した。

 元気に、こちらにまで手を振る少女へ向けて、小さく美月は手を振り返した。


 本当に、どうして彼女たちなのだろうか。


 いや、死神も避けて通るか、と浅く美月は嗤う。


 私のように、じゅくじゅくと膿んだ魂の持ち主は。


 自分の座っていたベンチのほうへ、美陽が車椅子の車輪を回転させながら寄って来る。


香奈(かな)ちゃんっていうんだって、あの子」


「…そう。人付き合いが上手ね、本当」


 ふ、と美陽が笑う。


「美月は相変わらず、人付き合いが苦手だね」


「しょうがないじゃない。初対面は緊張するの」


「意地張っちゃって。初対面じゃなくても、緊張してるくせに」


 ムッと、美陽の顔を睨みつけるも、彼女はからかうように口元を歪めるばかりだ。


 確かに、幼少の頃から美月は、美陽の後ろに隠れて過ごすような少女だった。口下手な一方で、依存的な傾向のある美月は、人付き合いの多くを投げ出して、美陽のそばから離れなかった。


 友人もほとんどいなかったし、必要に迫られるような人間関係については、その多くの場合で美陽の支えを必要とした。


 しかし、彼女がそうなった大きな原因は、美陽にあったと言っても差し支えないだろう。


 双葉美陽は、あまりにも眩しすぎた。

 人間的な魅力にあふれて、容姿にも恵まれていたほうだった。


 もちろん、容姿に関しては、双子の美月も劣らなかったし、スタイルに関しては彼女のほうが優れていた。しかしながら、なにぶん、人付き合いを拒み過ぎたのだ。


 彼女の儚げで、奥ゆかしくも、一途という魅力を知る者は、妹の美陽を除いてほとんど誰もいなかった。


 月が、太陽の光に遮られて見えなくなるように。

 美陽の存在が、美月の存在を覆い隠してしまっていたのだ。


 しかし、だからといって美陽がこの世を去れば、美月が輝けるわけではない。


 月は、陽光を失えば輝けない。

 虚無の夜闇だけが、月を包む。


 それを考えれば、美月が、美陽の死期が迫っているのを極端に恐れるのも頷ける。


 美陽が、美月の手をおもむろに握った。


 急にどうしたのか、と美月は怪訝に思ったが、彼女の瞳がシリアスな光に埋もれていたことで、不安になった。


「しっかりしてよ、お姉ちゃん」


 美陽がそう呼ぶときは、大抵ろくなことではない。


 いたずらを仕掛けて来るか、言いづらいことがあるか。


「私がいなくなったら、そういうのも一人でしなきゃいけないんだよ?」


「…っ」


 美陽がいなくなったら、なんて、想像したくもない。


 そんな日、来なくていい。

 



(3)



 美陽は、香菜と遊ぶことが増えていった。


 昔から子ども好きだった美陽が、お見舞いに来る者のいない香菜を気にかけるのは、当然のことでもある。


 遊ぶ、といっても、彼女らは病人だ。そのため、お喋りがメインになる。


 口の達者な美陽との会話に、すぐ香菜はのめり込んでいった。これが彼女のすごいところだと思う。


 天真爛漫な美陽の前には、人見知り、という不可視の壁は、あってないようなものだった。


 今日は、病室で絵を描いていた。

 器用さと、芸術的センスには恵まれなかった美陽は、度々香菜に笑われていたが、それすらも楽しんでいる様子だ。


 二人のために、温かい緑茶を用意する。香菜は嫌うが、ジュースなどは飲めないので仕方がない。


 ベッドに腰掛け、スケッチブックに絵を描く美陽と、車椅子に座ったまま破顔する香菜。


 穏やかだった。


 静謐(せいひつ)とは遠いものの、心休まる昼下がりである。


 時間が止まって、彼女らの中に巣食う病魔の動きを封じているのかもしれない。

 そんなくだらない想像が出来るほどに、安らかだった。


 二人の元へ飲み物を運ぶ。


 サイドテーブルにコップを乗せると、香菜が顔をしかめた。


「うえぇ、また苦いお茶だ」


 初めは、子供らしい、不服さを隠すことのない態度に困惑したが、今では苦笑いで流せるくらいには成長した。


「好き嫌いしたら、病気が治んないぞぉ?」と美陽がからかう。


「大丈夫だし!私もう、手術を受けるだけなんだよ!」


「…へぇ、そうなんだ」


 初耳だった。いや、別に香菜の病気の種類、状態を尋ねたことなどなかったので、知るはずもないのだが。


 看護師には、激しい運動などはさせないよう、しっかりと念押しされている。

 心臓系が弱いのだろう、と勝手に想像していた。


「いつ受けられそうなの?」と口を挟む。


「んん、知らない」


 やはり、と美月の眉が垂れる。

 それに目ざとく気づいた美陽が、低く、小さな声で、「美月、顔」と呟く。


 これはいわゆる、ドナー待ち、というやつなのではないか。


 もしも…、もしも、間に合わなければ…。


 みるみるうちに、美月の顔が悲壮感に歪んだ。


 幼い香菜がその意味を悟るとは思えないが、子どもの感性は鋭い。何かを察する可能性があるので、良くないことだとは分かっていた。


 だが、分かっていてもコントロール出来るものではない。


「ごめん、香菜ちゃん。ちょっとだけお絵かきしながら待っててね?」


「うん?」


 ベッドから下りた美陽が、素早く美月の手を掴んで、車椅子もなしにユニットバスのほうへと連れて行った。


「ちょっと、やめてよね、美月」


 無理やりトイレの蓋の上に座らされた美月は、怯んだ面持ちで顔を逸らす。


「ご、ごめんなさい」

「あの子にストレスをかけるのは、本当に洒落にならないんだから」


 確かに、心臓病なら、冗談抜きで悪影響だ。いや、そうでなくともプラスには働かない。


 美月はきちんと反省しながらも、感情を昂ぶらせて、急な動きをした美陽のことが心配になっていた。


 医者が宣告した生命の期限は、もう二ヶ月近くを切っていた。


 信じられないことだが、別れは目の前だ。


 むしろ、今の彼女の元気の良さを見て、死を連想することのほうが不自然ではないか。


 余命はあくまで目安だと言っていた。本人の意思や病気の進行次第で、期限は前後するとのことだった。


 だからこそ、今の彼女に無理をさせるのは、呼吸が出来なくなるくらい恐ろしいことだった。


 美陽が呆れたようにため息を吐いたのを見て、美月は話を切り出す。


「あの、美陽。あんまり急に動かないで」


「ちょっと、美月。今は私の心配じゃなくて、香菜ちゃんの心配をしてよ」


「し、してるわ。だから、落ち着いて、体調悪くなっちゃうわ」


「美月…!」


 あからさまに軽蔑したような眼差しで、美陽が鏡に映った自分を見た。


 その冷たさに、美月は慌てて美陽の手を握り返し、懸命に声を出した。


「しょうがないじゃない…!私にとって、美陽以上に大事なものなんてないのよ」


 美月の必死さに心を打たれたのか、それとも、単純に勢いに気圧されたのか、美陽は顔を赤らめて視線を逸らした。


「そ、それは、嬉しいけどさぁ」

「だから、そんな顔をしないで。お願い、私のこと、嫌いにならないで…」


 美陽が大きく息を吸い込んだのを感じる。

 どんな顔をしているかは、分からない。


 こんなときにまで、自分のことを考えてばかりだ、とさらに軽蔑されたかもしれない。

 余命を宣告された妹にまで縋るなんて、と愚かに思われているかもしれない。


 おそるおそる、顔を上げる。

 バチッ、と妙な顔をした美陽と目が合う。


 彼女の瞳が、今まで見たことのない色に揺れていて、美陽自身、混乱しているように見えた。


「…とりあえず、戻ろう」

「ええ、ごめんなさい」

「いいよ、私も、悪かった。心配してくれて、ありがとう、美月」


 良かった、少なくとも怒ってはいないみたいだ。


 美月はほっと胸をなでおろすと、美陽に続いて室内に戻った。すると、いつの間に入ってきていたのか、香菜の隣に看護師が立っていた。


 彼女は少しの間とはいえ、香菜から目を離していたことを厳しく咎めると、車椅子を押して病室へと戻ろうとした。


 すると香菜は、途中で車椅子を止めるよう看護師に頼むと、大きく笑って二人に告げた。


「お姉ちゃんたち!手術の日、決まったよ!」

 



(4)



 病室の白が、光を失い黒に染まっている。カーテンの隙間から差し込んでくる月明かり以外は、もう何の光も残っていない。


 ぼうっと輪郭だけを闇に浮かべて、隣で布団の中に入っていた美月が、今にも消えそうな声を出した。


「良かったね、香菜ちゃん。手術、受けられることになって」


「え、うん…。そうだね」


 お昼には、私のこと以外はどうでも良い、と言ったのに、変わり身が早いものだ。


 …いや、そこまでは言っていないか。まあ、ほとんど同じだ。


 本当に、昔から私にべったりなのだ。美月は。


 まあ、それが嬉しくないと言うと…、嘘になるんだけど。


 歯切れの悪い物言いが気になったのか、美月が体の向きを変えて、こちらを見た。


「どうしたの?同じベッドは、嫌だった?」

「別に、そんなわけないじゃん。ただ、ちょっと考え事してただけ」

「ふぅん…」


 今日は、病院のほうに許可を貰って、美月が泊まっていくことになった。本当は同じベッドは禁止なのだろうけれど、バレなければ問題はない。


 もしかすると、余命幾ばくの私を特別扱いしてくれる可能性もある。


 あまり、死が近づいている、という実感がなかった。


 確かに、体の力は明らかに弱まる一方だし、長く喋っていると疲れてしまう。それに、何もしていなくても、ぼーっとしてしまう時間が増えつつあった。

 ご飯だって、昔の四分の一ほども胃に収まらない。自分の口から食べられなくなったら、終わりだと勝手に思っている。


 あぁ、よくよく考えてみると、兆しはあるな。死の兆しだ。

 いつものことが、いつもどおり出来なくなっていく。

 それが、ただ、あまりにも緩やかに進んでいくので、忘れてしまっていただけだ。


 耳を澄ませば、終わりの足音はそう遠くないところまで来ているようだった。


 そんな後ろ向きなことを考え出すと、途端に心細さが募った。


 一人で死にたくはない、という考えさえ一瞬、頭をよぎる。


「美月」と切羽詰まった心は隠して、どうでも良さそうに名前を呼ぶ。「なぁに?」


「くっついても…いい?」

「え?」

「え…って、何。え…って」不服そうに私は呟く。


 彼女が頓狂な声を上げたことで、自分の発言が急に恥ずかしくなる。


「いや、ごめんなさいね?驚いてしまって」

「あぁもう、うるさいよ、美月」


 誤魔化すようにして、彼女の懐に身を寄せる。

 許可なんて、そもそもいらないのだ。

 美月と私は、同じものだ。つまり、美月は私のものでもある。


 痩せ細る前から惨敗していた、ふくよかな胸に頭をうずめると、頭上で美月が息を吐く音が聞こえた。


 普段しないようなことをすれば、悟られるだろうか、と少し不安になるが、幸い、美月は何も思っていないようだ。


 久しぶりの姉妹のスキンシップに照れているようだったが、少なくとも、嫌がる素振りはない。


 低い心音が、どくん、どくんと、体を通して伝わって来る。

 力強いバストーン、あぁ、まだ美月は死なないんだ、と考える。


 美月に、私の心音が伝わっていませんように。

 小さくなる一方の私の命の灯火は、強く吹き荒れる病魔の風に打ちのめされる日々に、限界を感じているようだった。


「美陽?」残念なことに、何かが伝わったらしい。さすがは双子だというべきか、分かりやすかったのか。


「大丈夫?なんか、今日疲れたの?」


「別に」と素っ気なく返す。


「美陽らしくないじゃない?」


「だから…、ちょっと、色々考えただけだよ」


 本当は、色々なんて考えていない。

 美月と離れることについて考えていただけだった。


 しかし、一向にはっきりとは答えない美陽の態度を、美月は曲解してしまったらしかった。


「…お医者さん、呼ぶ?」

「平気だって。心配しすぎだよ、美月はさ」

「心配するよ、だって…」


 そこで、美月が言葉を区切った。掌からこぼれそうな水を、慌ててせき止めたような中断の仕方だった。


 ――だって、何だよ。


 彼女の言わんとすることが分かっていた私は、ほぼ反射的に相手を睨み返した。


 私と同じ顔が、何かから逃げるように横を向いた。


「大丈夫だよ、まだ死なないから」

「…当たり前でしょ」


 当たり前じゃ、ないんだよ。

 私はもうじき、いなくなるんだよ。


「ねえ、美月」

「なぁに?美陽」


 ぎゅっと、美月の襟元を掴む。


「またいつか、あの湖に行こうよ」


 来るはずもない、いつか、を口に出す。


 泣いている、とでも勘違いしたのか、美月はかき抱くようにして、私の体を包んだ。


「ええ、行きましょう。二人で、また」


 自分が死ぬ、と分かった日も、私は泣かなかった。

 そのときは、死がリアルに感じられていないから、とばかりに思っていたが、どうやら違うらしい。


 自分の頭の上から聞こえてくるすすり泣きに、私は温もりのカゴの中で目を細めた。


 自分よりもパニックになっていたり、緊張していたりする人間を見ると、かえって落ち着くのと同じ原理だ。


 美月が、私以上に悲しむから。

 私以上に、死を感じているから。

 それを通して、私は、私の現実を受け入れていた。


 美月は、私だった。

 そして、私は美月だ。


 (みはる)と、(みつき)


 顔を寄せた美月の体から、私の匂いがする。


 私が死んだとき、美月が生きていける気がしなかった。

 でも、それはそれで、自然なのだろうか。


 いや、そんなことはない、あってはならない。


 私は奥歯を噛み締め、心の中だけで激しく頭を左右に振った。

 そのときは、私と美月がバラバラの存在になるだけだ。


 一つの球根から、二つの花が咲いたような私たち。


 片方が病魔に侵されているなら…。

 間引かなければならない。


 その後に、美月はすくすくと育っていけばいい。


 私よりも、ずっと綺麗で、可愛くて、スタイルだっていい、魅力的な人だから。

 きっと、誰よりも、今よりも美しく輝き続けるはずだ。


 …それでいいよね、私。

 



(5)



 生まれて初めて、時間の無常さに反吐が出そうになった。


 今までは、流れゆく時が季節を運んでくるのを、嬉々として迎え入れていたのだが、今日ばかりはその限りではなかった。


 病室の窓から、外を見やる。ベッドから大して離れていないので、車椅子もいらない。


 ここから見える裏庭の花壇には、色鮮やかな花々が咲いている。

 生命を謳歌するような咲きっぷりに、むしろ、小馬鹿にされているような心地にさえなった。


 歯軋りしながら、窓枠を握りしめる。ノックの音が聞こえる。


「入るよ?」と美月の声。


 今は正直、会いたくなかった。


 だが、母も父も見放した私を気にかけてくれるのは、美月ぐらいのものなので、どんなときでも無下にも出来ない。


 何も答えずにいると、扉が開かれ、美月の息遣いが感じられた。


 顔を見なくとも分かる。初めは不思議そうだった彼女の気配が、素早く不安そうなものに変わった。


 だから嫌だった。

 私の半身は、私のことをよく分かっている。


 黙っているだけでも、美月は私の懊悩(おうのう)を見破っていた。


「どうしたの、美陽?」


 どうしたも、こうしたもない。


 乾いた笑いが口元に浮かんだ。

 自分らしくない、と分かっていながらも、私はニヒルな表情をそのまま美月へと向けた。


「どうしたの、何かあった?」


 もう一度、美月が同じ問いをぶつけてくる。


 別に、と口にしたつもりだったが、唇が動いただけで声が出なかった。


 病室の白が、酷く目障りだ。

 これならいっそ、白と黒で、喪に服したようなデザインにしてほしかった。


 そうだ、それがいい。

 そうすれば、自分が死を待つ存在であることを忘れずに済むし、

 この場所が、どういう場所なのかを忘れずにいられる。


 春風に揺れるロングヘアを抑えながら、美月が私のそばに立った。

 窓の外の花壇を眺めるフリをして、自分の様子を観察していることが容易に分かる。


 窓枠に置いた私の手に、美月がそっと、自分の手を重ねた。


 昔は私よりも細くか弱かった指先が、今では私よりも強く、しなやかだ。


 ――…分かっている。変わったのは私だ。


 それがどうしてか、やけに気に入らない。


 ――…私たちは、元は同じものだったはずだ。それなのに…。


 ほとんど払いのけるようにして、美月の手をどける。

 驚き、傷ついたふうに、目を見開いた彼女に、さらに苛立つ。


 胸に抱いている絶望感を、自分の片割れである美月にも、味あわせてやりたくなった。


「死んだって」あえて、どうでもよさそうに告げる。「し、死んだ?」


 頷きながら、美月の様子を窺う。

 私からの拒絶と、『死』という単語からくるショックで、固まっている。


「香菜ちゃん」


 猫の目みたいに、さらに大きく見開かれていく美月の瞳を、横目で確認する。

 信じがたい、という思いか。

 それとも、言葉が出ない、というだけか。


 口をぱくぱくさせた後、項垂れた彼女を見るに、どうやら後者のようだ。


 言葉にすることなど、無意味だ。

 言葉は、現実を変えない。

 変えられるのは、ほんのわずかな事象だけ。


 私は、言葉ほど無力なものを知らなかった。


 ふらりと、脱力していくようにベッドへ腰を下ろした美月が呟く。


「…どうして、手術の日程、決まったって」


「あれって、一か八かだったらしいよ」


「一か八か…?」と怒りを滲ませた美月。


「元々、移植手術の順番が間に合いそうになかったんだって。だから、このまま時の流れに委ねて、ゆっくり死なせるよりは、生き残れるかもしれない可能性に賭けたんだってさ」


「そんなことって…」


乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負だったんだよ。まぁ、結果的に、トスしたコインは裏だったみたいだけどね」


 自分よりも幼い人間の死が、私の心を捨て鉢に、荒んだものにさせていた。きっと、事務的な様子で医者の話を聞いていた、少女の両親を目にしたことが、何よりもの原因だ。


 しかし、そんなことは知らない美月は、美陽のシニカルな発言に目くじらを立てた。

 普段温厚で、物静かな彼女が、これだけ真剣に怒りを露わにすることは珍しかった。


「やめさない、美陽。そういう物言いで、自分を慰めるのは」


 ただ、私の本当の裏側を、ここぞというときに鋭敏に察するのは、さすがと言わざるを得ない。


「…っ!」


 痛いところを突かれて、言葉を詰まらせながらも、頭に血を上らせる。

 一瞬だけ、くらりとしたが、それも怒りの濁流に飲まれて、消えた。


「現実を皮肉っても、誰も報われない、救われないわ。貴方の品位を落とすだけなのよ」


「品位…?今更そんなものに、一体どれだけの価値があるって言うの!」


「美陽、大声出さないで」途端に弱々しい声に変わった彼女。「美月は、自分が死ぬかもしれないなんて、考えたこともないからそんなことが言えるんだよ!」


 言ってしまった。


 脳内では、すでにアクセル全開で後悔を募らせている自分がいた。


 だが、一方で、ようやく言うことが出来た、とすっきりとした心地になっている自分もいた。


 美月が傷つくことは分かっていた。

 それでも、彼女にこの想いを知ってもらいたかった。

 一緒に、傷ついてほしかった。


 それなのに…。


 美月は、罵声を浴びせられても表情を崩さなかった。それどころか、儚く、いつもどおりの美しさで微笑むと、告げた。


「違うわ、美陽。私も死ぬのよ、貴方が死んだときに」

「はぁ?」

「貴方は、私だから」満足そうにも聞こえる声で続けた。「貴方の命が散るとき、私も散るのよ」


 その、ややもすれば狂気じみているように思える台詞を聞いたとき、私は得も言われぬ感情に支配された。


 筆舌に尽くしがたい、とはこういうことを言うのだと、初めて知った。


 美月が口にした、あまりにも勝手で独善的な言葉に、爆発しそうな怒りを覚えた。

 半身が口にした、あまりにも自己満足的で狂愛的な言葉に、身が焦がされるような熱を覚えた。

 (みつき)が口にした、あまりにも優しく(みはる)に溶け込む想いの込められた言葉に、震えるほどの愛情を覚えた。


 様々な感情が、スクランブル交差点みたいに行き交い、混じり合う。


 私は、ほとんど倒れかかるような動きで、ベッドに座っていた美月に体をぶつけた。押し倒した、という表現が適切なのかもしれない。


「やめなさいなんて、言ったくせに、お姉ちゃんだって同じじゃん。そんな小綺麗で、自己満足的な言葉で、自分を慰めないでよ」

「み、美陽――」


 さすがに驚いた声で、美月が言葉を紡ごうとした。


 それを、無理やり自分の唇で塞ぐ。


 息が、出来なくなっていた。


 キスのせいじゃない。


 肺が、血液が、酸素を取り込むことを、運ぶことを、諦めていた。

 重ねた唇を離す。

 突然の接吻と、私の青白い顔つきに驚かされた美月の顔が、みるみるうちに血の気を失っていった。


 何で、キスなんてしたんだろう。


 聞きたくなかったのかな。それともただ、刻みつけたかったのかな。

 ずっと美月と一緒にいたから、何気に初チューだ、今の。


 あぁ、さすがにそれくらいは済ませておきたいと思ったのかな。

 そういうことにしとこ。


 死に逝く私に、それ以上を知るのは、毒だ。


 ひゅー、ひゅーと、と酸素を何とか取り込もうとする喉が鳴る。


 警報だ、と暗闇に座り込んでいた、諦めの良い私が呟く。


 体内に残っている、わずかな酸素を――いや、生命を絞り出して、言葉を紡ぐ。


「ごめん…」


 みはる、と美月の澄んだ声が私を呼んだ。しかし、それは今の彼女の声ではない。

 ずっと昔に聞いた、幼い彼女が私を探すときに出す声であった。


 渾身の力で、もう一度だけ美月の口元に顔を寄せた。


 だがそれも、私の意識のほとんどを侵食していた暗闇に引き止められて、叶わずに終わる。


 世界が、明滅する。


 壊れかけの電球みたいに、

 チカチカと、

 白と、黒が、

 生と死が、

 混じる。


 どうやら、白の監獄から釈放されるときが来たようだ。


 力が抜けていく、という感覚すらなかった。

 どちらかというと、透けていく、というのが正しい気がする。


 周囲から、空気が絶滅したみたいに何も聞こえなかった。

 それでも、懸命に口を開く。

 喉が震えているかどうかも、私にはもう分からない。


 ――置いていって、ごめん。美月。


 ――独りにして、ごめんね。


 ちゃんと、言葉になったのだろうか。


 大好きだよ、という呪いの言葉だけは、あえて言わずに。

 私は、私たちを迎えに来た暗闇に身を委ねた。

 



(6)



 花が、散ろうとしていた。

 私のそばで、ずっと咲いていた花が。


 あの後、美陽と美月が揉めだした声で、すでに異変を察知していた看護師が病室に飛び込んできた。


 美月に覆いかぶさるような姿勢で倒れていた美陽を見て、看護師たちは大騒ぎしながらも、美月を短く責め立てた。


 ――病人なんですよ、何をしているんですか。


 してきたのは美陽のほうだったが、そんなことはどうでもいい。


 緊急手術、ということであったが、予め、期待はしないでほしい、と担当医に告げられた。


 燃料切れで動かなくなった車のエンジンを、無理やり再起動しているようなものなのだろう。


 病室で待つことすら禁じられた。

 今の私は、体からくり抜かれた心臓そっくりだ。


 拍動する場所を奪われ、死を待つだけの存在。


 車の中で、じっと考える。


 春の穏やかな夜闇は、今の美月にとって、まとわりつく生ぬるい死の吐息にそっくりだった。


 どうせ死ぬことになるなら、せめて、彼女の望みを叶えてあげれば良かった。


 …いや、まだ間に合うかもしれない。


 もしかすると、今頃は手術が成功して、病室で奇跡的に美陽が意識を取り戻しているかもしれない。


 また大騒ぎすると、彼女の負担になるから、自分には知らされていない、という可能性も無きにしもあらずだ。


 そうだ、そうに違いない…。


 だが、それなら、一瞬でも早く彼女の願いを叶えなければ。


 いつまた、意識を失わないとも限らないのだ。


 美月は、何かに取り憑かれたような動きで、携帯を操作した。


『美陽、湖に行きましょう。車で待ってます』


 大きく、息を吐き出す。


 どうかしている、と冷静に己を分析している自分がいる一方、現実を認めることを諦めた自分が、頭の中で空想を描いていた。


 美しい湖の岸辺。

 裸足で水音を鳴らし、朗らかに笑う美陽。

 それを見つめる、幸せな私。


 来る、来ない。

 来ない、来る。

 来る、来る…、来る。


 ドン、とハンドルに頭をぶつける。

 叩きつけたときに、大仰なクラクションが響き渡った。


 ふぉーん…。


 リフレインする大音量に、時間の感覚を忘れて目をつむっていた。


 気づけば、音がやんでいた。


 夜のしじまに耳を痛めていた美月の鼓膜を、ガチャリ、という音が揺らした。


 ハンドルに額をつけたまま、ぱちりと目を開く。

 扉が開けられたことで、車内の暖色ランプが灯っていた。


 パッと、顔を上げる。


 美月は初め、窓に映った自分の顔を見たのだと思った。だがその人物が、自分の意思とは関係なく口を開いたとき、唇を震わせることとなった。


「お待たせ、美月」


「美陽…?」


 自分と同じ顔をした双葉美陽が、照れたように微笑んでこちらを見ていた。


「どうして…」

「どうしてって、まあ、今は調子が良くてさ」

「美陽、私――」ぴたり、と美陽の白い人差し指が、美月の唇を塞いだ。「湖。行くんでしょ?美月」


 幻惑的な微笑を浮かべていた美陽に対して、美月は消え入りそうな声で、「うん」と返事をした。


 そうだ、詳細なんて、どうでもいい。

 美陽が病室を抜け出したことなんて、すぐにばれてしまう。


 美陽がここにいるなら、もう病院なんて場所に用はない。

 この白の監獄は、私たちの思い出を汚しただけなんだから。


 車のエンジンをかけ、ゆったりとした動きでアクセルを踏み込む。

 鈍い速度から徐々に加速していく車体の外で、夜が流れていた。


 二人は、車内で様々なことを話した。

 過去の思い出に始まり、未来の話まで。


 一時間ほど、車を飛ばしていた。

 すれちがう対向車のヘッドライトが、幻想的に二人の顔を照らす。


 次第に、道の勾配が激しくなり、車とはほとんどすれ違わなくなった代わりに、緑が増えた。


 カーナビに表示されるデジタル時計は、すでに今日と明日の境界を越えている。


 大きくカーブした道に、車輪が悲鳴を上げる。そのときに、美陽の頭が美月の肩に、ぽん、と乗った。


 美月は、何も言わなかった。

 こうして一緒にいられることは、奇跡だと十分承知していたから。


 明滅する、愛すべき私のもう半分の命。


 離合など出来ないぐらいに細い山道を下り、湖畔に辿り着く。


 昔と何一つ変わっていない、桜の花びらが舞う、あの場所だった。

 ダムなんて、影も形もない。


 少し前方で、月光を吸い込んだ湖面が、桜の花びらを浮かべてきらめいている。


 月だけが、二人の逃避行を見守っている。


 幸い、携帯が鳴らないことから、まだ美陽が消えたことは気づかれていないのだろう。


 エンジンはかけたままで停車し、美月は美陽の頭を撫でた。


「着いたわ、美陽」

「…ありがとう、美月」


 そう呟いた美陽が、おもむろに顔を上げた。

 至近距離で、彼女と目が合う。


「さっきはごめんね、美月。あんなこと、言うつもりなかったのに」


「いいのよ…。私のほうこそ、ごめんなさい。美陽の気持ちも考えずに…」


「違うよね、美月」


 美陽が、小さく微笑む。


「私たちは、きっといつだって、私たちのことしか考えていないもん」


「…そうね」実際に、今がそうだ。


「そんな私たちが、互いの気持ちを考えていないなんて、絶対ないと思う」


 堂々と言い切った美陽には、かつての健やかな意思が宿っていた。その姿を見て、美月は嬉しそうに頷いた。


 一瞬の無音の後に、どちらからともなく、唇を重ねた。


 唯一欠けていたピースが、今、静かに埋まった。


「愛しているわ、美陽」


「私も、同じ気持ちだよ、美月」


 もう一度、惜しむように口付けを交わし、舌を絡める。


 より深く、より心の底から。


 互いに一つになれるように。


 例え、どこに行ったとしても…。


 タイミングを合わせたように、互いに顔を離す。


 美月は、ずっと考えていたことを口にした。不思議と、断られるとは微塵も思っていなかった。


「美陽、お願いがあるの」突然に真剣味を帯びた美月の口調にも、美陽は訝しむことなく微笑して応える。「ちょうどいいや、私からもお願いしたいことがあるんだ」


 呼吸を合わせるように、再び、夜空を照らす閃光みたいな沈黙が流れた。


「美月」

「美陽」


「一緒に、散ってくれる?」


 言葉が重なったことだって、何もおかしくない。


 私たちは、二つで一つなのではない。

 私たちは、元々、一つのものなのだ。


 二つに別れたことが、そもそもの間違いだった。


 優しく、互いに笑い合う。

 本当に久しぶりに、心から笑った気がした。


 今、一つの球根に還るときが来た。


 愛する半身を見つめたまま、車のギアをドライブに入れる。


 アクセルを強く踏み込む、美月の顔には、躊躇いも、恐怖もなかった。


 病院を発ったときとは、比べ物にもならないくらいの速度で、車体が加速する。


 唸り声と共に、加速するエンジン音。

 美月を押さえつける、重力加速度。


 そして、全てから解き放たれるための、刹那の浮遊感。


 大きなくぐもった音を立てて、車体が水中に没した。


 月明かりに照らされた青白い水面を目指して、無数の泡が車体の周囲から浮き上がっていく。


 霊魂たちが、天国を目指し昇っているようだ。


 ならば、私たちが向かうのは…。


 いや、どこだっていい。

 そう、どこだってね。


 水底が遠く感じられた。


 車の隙間から入り込んでくる冷たい水すらも、私たちの情熱は奪えなかった。


「美月」


「なに?美陽」


「ありがとう。一緒について来てくれて」


 その言葉を聞いて、美月はうっすらと笑い、首を振った。


 やはりそうか、という思いと同時に、抱えきれないほどの多幸感に涙があふれた。


「いいの、分かるでしょ、美陽なら。これは、私の望みでもあるの」


「うん」


「大好きよ、美陽」


「私も、大好きだよ、美月」


 胸元まで這い上がってきた水にも目をくれず、二人は、息を揃えて祝福の言葉を唱えた。


「ずっと、一緒だからね」

 最期のキスを交わす。


 水底に、落ちていく。


 ここなら、未来永劫、誰にも二人の邪魔は出来ない。


 虚無の夜闇が届かないところで、月と太陽は互いを照らし合い、見つめ合うのだ、


 幸せが肺に満ちていくのを感じながら、美月は目を閉じた。


 そして、遠い白の監獄の中で、自分の半身が花を散らせたのを直感してから、穏やかに笑ってまどろんだ。




 ――…散るときは、やはり一緒でなければならない。


 ――…ね、美陽。


いかがだったでしょうか?

ハッピーエンドか、バッドエンドか、

見る方によって変わる一本だったかと思います。


そして、車で水の中に…、という終わり方は、

私の大好きなホラーゲームのエンディングをリスペクトしてのものですが、

どなたか、分かられる方はいらっしゃいますでしょうか?


なにはともあれ、お付き合いいただき、ありがとうございました。


読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、


応援よろしくお願いします!


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