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アルファベット短編集

小学生A君の話

作者: 猿戸柳

 小学校で大便をするには相当な覚悟がいる。もし誰かにそれを知られた(おり)には人権を、最低でも向こう一年は剥奪(はくだつ)されると思っていい。すぐさまクラス中に知らされ、ウンコマンだの、尻に付いたタイマーが三分経つと赤く点滅して便意をもよおすだの、脱糞王にお前はなるだの、言われたい放題なのは容易に想像できる。生きとし生けるものはすべて排便を行わないといけないというのに、(はなは)だ理不尽極まりない話である。

 小学3年生のA君は今まさに人権簒奪(さんだつ)の危機に瀕していた。給食を食った後腹がゴロゴロいって仕方がない。幸いまだ痛みはそれほど感じないが、腸にぽこぽこ空気が入り込んでいる様な不快感がある。体に合わない何かが食い物に混じっていたのか、はたまた若く活発な五臓六腑のなせる技なのか判然としない。彼は出来るだけ体を揺らさぬよう食器を片付け、教室の前に掲示されている掃除当番の確認をしに行く。これで室内の雑巾がけの日であろうものなら、彼は今日から不憫(ふびん)にも人間未満の存在に成り下がるだろう。身を屈め、さながらクラウンチング、否、クラウチングスタートの様な姿勢を維持しながら、あの市松模様にも似た木材で出来た床を複数回行ったり来たりするなど、到底今の彼には出来る所業ではない。天にうん、いや、そのウンではない、天に運を任せ、恐る恐る本日の当番の割り当てを見てみる。

 僥倖(ぎょうこう)、体育館の掃除だ。彼には運がついている、無論下着にウンはまだ付いていない。ここでなぜ彼にとって都合の良い事なのか説明する必要があるだろう。まず端的に掃除自体が非常に楽なのである。持ち手の長い黄色いモップをちんたら掛ければいいだけなのだ。それに教師は(もっぱ)ら教室を掃除している生徒の監視をしているのでまず来ない。一つあるとすれば彼の居る二階の教室から体育館まで距離がある事くらいだろう。まず一階まで下りそこから校舎の端まで行き、さらに渡り廊下を渡った左手にあるのだ。しかしこの遠さこそ彼にとって最も幸いだったと言ってもいい。なぜなら人気(ひとけ)も無いし、渡り廊下の右側には夏に使用するプールが設けられており、その上()()()が併設されている。このトイレには髪の長い白装束の女や落ち武者の幽霊が出るとか、ありきたりな噂が流れているが、A君は元来そんなものは気にしない(たち)である

 この機を逸してはならない、と彼は直感して腹の調子を最大限尊重しながら体育館へ向かう。

「ちょっとA君、早く来なさいよー!」

同じ掃除グループの女の子が向こうで(まく)し立てる。

本当に具合悪そうに返事をして、女子に保健室に連れて行かれるのも情け無いし、男子小学生なりの矜持(きょうじ)もあったので、いかにもただ掃除が面倒くさいだけなんだという感じで、

「はいはーい」

と気だるそうに返す。我ながら上手く演技が出来たと思った矢先、

「ほら、早よ行けA」

と教師が背中をバチンと叩いた。

 おいふざけるなよアホ教師!こっちの腹は今大変なんだ、人の気も知らないで!俺が同級生に不名誉なあだ名を付けられた所でどうせ見て見ぬ振りを決め込むくせに、こんな時だけ立派に教師(づら)しやがる!と心の中で罵倒する。しかも教師に注意された手前、ちんたらし過ぎても良くない。腹に出来るだけ振動をあたえない様に少し歩みを早めた。ああほら少し痛みだした、あいつろくな事しないな畜生!。腹の虫も痛みも収まらぬが、耐えながら階段を下る。この下りる作業は一見すると上るより楽に思えるかも知れないが、そうとも限らぬ。確かに上る際は足を踏ん張って体を持ち上げ、さらに下っ腹に少し力を入れる必要があるが、その分重心は安定しているように思われる。しかし今いる段から下の段へと進む場合は自由落下の要素が加わるのだ。さながらジェットコースターが最高到達点へたどり着き、そこから落下を始める刹那に感じる浮遊感と同じである。平常時に気にとめる事はほぼ無いが腹痛の時は全く別だ。なぜなら腹をいたわるため体の隅々へ注意を行き渡らせているが(ゆえ)、このわずかな浮遊感さえも不快に感じられるからだ。何とか下りきる。この頃には断片的でわずかだった痛みが確実に、そして継続的に知覚できるまで成長していた。

 あとは校舎の端まで行き、渡り廊下を通過するだけである。平坦な道なので階段より大分楽だ。そしてA君はここで放屁を画策する。これから楽とはいえ掃除をする事になる。そこで腹痛が我慢できぬ位になるのは何としてでも(まぬが)れたい。ガスを抜き、ある程度余裕を持ってモップ掛けに臨む算段である。ここで払うべき細心の注意は実を出さない事だ。ここまで苦労して来たのに実を出してしまえば今までの努力が水泡に帰すし、見事に脱糞王の称号を(たまわ)る羽目になる。ウンが付き、運が尽くのはなんとしても避けねばなるまい。幸い、騒がしいもののぶつかってくる阿呆な下級生は見当たらない。呼吸を整え、ゆっくりと腹部に圧力をかける。見事に空気だけが尻の穴から出て行った。すうっと腹が落ち着く感覚がある。随分楽になった。そしてここで欲張ってもっとガスを出そうとしてはいけないのをAは重々承知している。屁以外は出してはいけないし、掃除が終わって便所にたどり着くまで耐えられればそれで良いのだ。

 無事渡り廊下を渡り終える。やはりここまで来ると人気(ひとけ)はほとんどない。体育館に入るとA君以外は既に掃除を始めている。

「A君遅い!はいこれ!」

と言って先ほどの女の子がモップを差し出す。

「ごめんごめん、最後に片付けとかやっとくから許してよ」

「ほんと?じゃあまあいいよ」

Aは機転が利いた返事だと我ながら感心した。これで掃除が終わればみんなは遊びたくてすぐ校庭に向かうだろう。そうすれば自分一人だけになり悠々と(かわや)へ向かう事が出来る。掃除の間は腹痛もそこまでではなく難なく終える事が出来た。

「はい、じゃああとよろしく!」

そう言ってみんなは乱暴にモップを押し付けるやいなや、下駄箱へ靴を履き替える為に我先にと駆け出した。よし思った通りだ、これで片付けをしてトイレへ行くだけだと思った途端、ここへきて急にまた腹が痛みだした。大抵腹痛というのは緊張が解け、安心したときに再び強襲してくる。電車に乗っている時はのらりくらり痛みをかわせたのに、家の玄関まで来た所で耐えられなくなるのと同様である。これはまずい。モップをその辺に放り、小走りでトイレへ向かう。モップは後で仕舞えばそれで済むが大便はそうはいかない、出したら仕舞えぬ。トイレに駆け込み一番近い個室へ入る。和式だが構わない。鍵を閉め、ズボンを下ろししゃがみ込む。

Aの心が安堵と達成感で満たされる。するりと悪い物が外へ出て行き、全身の新陳代謝が一気に行われたかの(ごと)き爽快感である。

 大分腹も心も落ち着いたのであたりの様子を見てみる。なるほど変な噂が立つのも納得だ。十一月に入ろうかという季節なのに、プールが近くにあるせいかモワッとしていて生暖かい。しかも校舎と一緒に建てられたはずなのに、このトイレだけ異様に古びていて薄暗い。今にも多足類が這い出してきそうだ。A君は幽霊の類いは信じないが虫は苦手である。何を考えているのか見当もつかないし、噛んでくる輩も居る。第一魑魅魍魎(ちみもうりょう)や亡者とは違い、奴らは確実に地球上に存在しているのだ。もう腹痛は完全に収まったし長居して虫にも人にも出くわすのは回避したい。そう思うとトイレを出る支度を済ませてさっさと外へ出た。

 校庭で遊びたいとA君は思った。喉元過ぎれば熱さを忘れる、もとい尻穴(けつあな)過ぎれば痛さを忘れる、である。トイレに籠っていた時間もせいぜい五分くらいだろうし、昼の二十分休みの終わりを告げるチャイムも鳴っていない。そう考えたが、何か様子がおかしい。児童が騒いでいる気配が全く感じられないのである。いくら本校舎から離れているとはいえ、はしゃぐ声くらい聞こえて来ていいはずだ。渡り廊下から校庭のほうを見ても誰も遊んでいない。これはいよいよ変だ、A君は怖くなって教室に向かって走り出す。廊下も階段も人っ子一人居ない。恐怖で涙腺がじわりと緩む。今までに感じた事のない寂しさと不安、絶望の感情が押し寄せて来た、訳が分からない。みんなどこへ行ったんだ、自分だけどこか違う世界に放り込まれたのだろうか、学校の外もこうなのか、お父さんとお母さんは…と様々な事を考えながら教室の前まで来るや否や、ガラガラ!と引き戸を開けた。

 みんな席に着いている。教師も教壇に居る。しばらく呆然としてその光景を見ていると教師が、

「おいA、もう授業始まってるぞ」

「…あ、ご、ごめんなさい」

そう言ってA君は着席した。教師は遅刻の理由を詰問しようか迷ったが、さっさと授業を先に進めたいという欲が勝ち、

「次から気をつけろよ」

とだけ注意した。

 もう授業が始まっているだと?そんなことはあり得ない。だってさっき掃除をしてトイレに行って…例えトイレに居る間に休み時間が始まったとして、そんなに時間を浪費したはずがない。確かにA君の父親はトイレにひとたび入ると三十分くらい、尻の穴に南京錠でもぶら下げているのかと疑う程に大便と格闘しているが、A君の場合はそんな事も無かった。何よりチャイムを聞いていないではないか。この難攻不落とも言える謎に、彼は一つの仮説を導きだした。


 あそこだけ空間が歪んでいて、時間の流れが早いのではないか


と。突拍子もない推論かもしれないが、アインシュタインが発表した理論によれば、重力で光が曲がったり時間の流れが相対的に変わったりするらしいのであながち間違いとも言い切れない。女や落ち武者の幽霊という、一見すると散漫な噂もその場所だけ何らかの原因で時間の流れが違い、その(ひず)みのせいで見えたのではないかとも考えられる。A君はそこまで突き詰めて熟考はしなかったが、以後そのトイレには出来るだけ近づかない様に気をつけた。そして片付け忘れたモップの件で翌日、教師からA君が叱責を受ける羽目になるのをこの時はまだ誰も知らない。

読んで頂きありがとうございます。そして9割以上大便に関する話になってしまった事を申し訳なく思います。まさかこんなに便意に対して書きたい事があったなんて我ながら驚きです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 前面に押し出された小学生時代のノスタルジアが、良い味を出していますね。 掃除の時間の雰囲気が良く再現されていて、懐かしい気分になりました。 私もかつては男子小学生だったので、個室トイレに行…
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