上中下の下
卓袱台にお皿が並べられ、その勢いで老婆は食べ始める。
ご馳走となる身としては「いただきます」と手を合わせてから食べ始める。
そういえば大学生の時アルバイトに誘われたな。選挙の意識調査で家庭を廻ってアンケートをお願いする仕事だった。そのうちの一軒がこういうアパートに住むこういう女性で、私が来たことを歓迎してくれ、お茶を出してアンケートに答えてくれた。
「誰が当選してくれると嬉しいですか」の問いに、立候補している人ではない、全然知らない人の名を挙げて、「この人が政治家になってくれたら世の中は良くなると思うのですけどね」と言っていた。
こんなどこの馬の骨だか解らん若造をここまでもてなすなんて、寂しさにつけこんだ悪い奴に引っかからないかなぁと不安に思ったけど、だからといって私が通うわけにもいかない。あの人は元気かなぁ。
…お味噌汁、美味しいです。
…ご飯、美味しいです。
…ポテトサラダ、美味しいです。
…この肉、なんだ?
大きめの肉の塊がゴロっと。かかっているのはウスターソース。魚じゃないし鳥でもない、牛にしろ豚にしろ、こんな大きな固まりって、あるか?
箸である。ナイフもフォークも出されていない。のでご飯の上に乗せて、口に近づけて囓る。
火加減が絶妙なのだろう、歯に力を入れなくてもスッと入っていく。噛み切って下に乗せて…え?この噛み切れ方、舌触り…咀嚼が慎重になり、口腔内の感触…とても気持ちがいいのだが…おい。
今さらながら味が最上等の鶏肉であることに気がつく…
…これ、飲み込んでいいやつか?と迷うのだが、口の中が快楽にまみれていてコントロールできない。そのまま喉に滑っていった。
美味い。何が美味いって、喉を通るのが快感だ。
以前「スパゲティのアルデンテは歯応えのことであって味(舌)のことではない」という人がいて議論になったことがあったのだが、この料理は味もさることながら感触も最高で、一切合切含めて“美味い”。
美味い、けれども。
口と手は動くが思考が止まる。意思の力を総動員して、箸の先に皿のソースをかき乗せ、口に入れる。
かけられたウスターソースの下にある舌をちくりと刺す味は、あれだ。喉を通る微妙な粘度。ぜったいあれだ。
もう自分で口と目が釣り合っていないのが解るのだが、老婆を見てもまるでこっちを気にせずもぐもぐ食べている。
まぁいい、いや、よくないけど、とにかくそれはいい、おいておこう、問題なのは、この老婆にとって俺は客なのかどうかだ。俺のことを迎え入れてくれた、食事だって美味しいものを出してくれた、今だってニコニコ顔だ、しかしいつ手足が痺れ出すか、表情を一変させて恐ろし笑顔を出すか、それが問題だ。
もう自動的に手が料理を運び、口が食べ、頭の中は快楽で一杯なのに、脳の危険信号も最大音量だ。恐怖は笑いと紙一重という話はよく聞くけど、恐怖と美味はどんな位相なんだ?
なんだか頭のてっぺんの右側が痛くなってきた。集中のしすぎか。
俺は決して早飯食いではないのだけど、美味いものは仕方がない、どんどん食べ進めてしまい、ご飯一膳と柔らかいお肉は長く感じることなく食べ終えた。老婆もだいたい同じくらいに食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」
「とても美味しい料理ですね」
「そうですか、それはよかった」
老婆は気持ちの良い笑顔を崩さない。これが恐ろしい笑顔になる前に、言葉でこの笑顔を固定しなければいけない。
好奇心だ。好奇心を刺激すれば、口を塞ごうとは思わないはずだ。幸い俺には“事実”という力強い武器がある。
「私の知り合いの料理人、天才なんですけどね、そいつが“この”料理を極めようと研究して、私に食べさせてくれるんですよ。いやぁ、それに勝るとも劣らない味でした」
老婆が目と口を丸くして、素直に驚いている。
「そうなんですか」
「ええ、今は料理の世界も競争ですからね、でもお婆さんがその料理人よりも先を行っていたとは、私もびっくりですよ。いやぁ、すっかりご馳走になってしまいまして。ありがとうございます」
立ち上がって帰ろうとするのだが、正座なんかしてないのに足が痺れてよろけてしまう。うん、血管に血が流れ始めての痺れだ、一服盛られたのとは違うだろう。
「いえいえ、ろくなお構いもせずに」
根性で出口まで進む。よろけがてら老婆をちらちら見るのだが、足のことで心配そうな顔をして玄関まで送ってくれるだけで、棒とか紐とか手にする様子もない。安心して玄関で靴を履き、立ち上がり、ドアを開ける。
「それでは、ご飯ありがとうございました」
「はい、ごきげんよう」
老婆は(この人何しに来たのかしら?)とも思わないような笑顔ぶりだ。
ドアが閉まり、安心はしても一気にシリアスモードとなる。
幸い階段はすぐだ、左脇をしっかりと手すりにかけ、力が入らなくなって座り込みそうになるのを防ぎながら階段を降りる。いや、足を満足に動かせず、落ちる寸前である。背後を最大に気にしながら、落ちるのでもいいから前に進もうと、体重移動だけでなんとか前に進む。
いや実際に落ちたら拙いので左脇はしっかりと手すりをはさむのだが、一段降りるのに時間がかかり、また一段降りるのに時間がかかり、いつ後ろのドアが開いて恐ろしいものが出てくるかに脅えながら、なんとか地面に着いた。
そこでホッとしてしまい、意識が遠のいていった。
完全に意識が途切れる寸前、アパートの前の車だろう、ドアが開く音が聞こえ、人が駆け寄ってくるのを感じた…。
ずいぶん考えましたが、この話「まな板」はこれで終わりです。これ以上は蛇足にしかならないので。




