夜の帳を綾なす者
ルミールが一人で出て行ったのに気づいたのは、たまたま廊下に出たからだった。その晩、ルミールは眠れないと廊下の窓から外を見ていた。普段からルミールは夜更かしをする習慣がった。ソニアは心配したが、彼は平気なようで、何回も大丈夫と諭されて気にしないようにしていた。疲れていたせいもあって、先にソニアは横になった。それでも何か気になって眠れず廊下へ戻った。そこで、ルミールがいないことに気づいた。
あわてて外へ出た。何かあったのかもしれない。普段は何も言わずにどこかへ行ってしまうことはなかった。それがあったのはフロルに連れていかれたときだけ。そう考えて背筋に冷たいものが走った。
雪の中で杖に明かりを灯し、ルミールを探した。歩いていくと影のような狼、魔物の姿を見かけた。嫌な予感がして、そっと後をついていった。
そこで見たのは黒い炎のような影と消える魔物。そして、ルミールが倒れ込むところだった。あわててルミールを支えた。名前を何度、呼んでみても反応がない。
「ルミール!」
どうしたらいいんだろう。考えられるのは力を使いすぎてしまったということだった。あれだけの魔物を一瞬で追い払う力だ。そんな力を使ってしまったせいで、魔力がほとんどなくなってしまったのかもしれない。それならば、分ければ元気になるかもしれない。どう分ければいいのか、そんなことは分からない。でも、目の前でルミールの体温がどんどん失われていくように感じた。ソニアは震える手に魔力を込めた。それを胸元にかざそうとする。自分の魔力を流してみれば、なんとかなるかもしれない。
『その人の子を救いたいのか』
頭上から声がして、振り向く。雪の中に音もなく立っていたのは長身の黒いローブを着た男性だった。髪も同じように黒く、ぼさぼさで目の辺りを覆うほどの長髪だ。そして話されるのは紛れもない精霊の言葉。
「あなたは…」
『私の声が聴こえる人の子だな。やっと伝えられる』
心の奥から聞こえる声。他の大精霊とは明らかに違う。どこかであったような、そんな懐かしさを感じるのに、どこで会ったのかはまるで思い出せない。そんな感覚に陥る。そして、とても大きな力を感じる。
『私はその人の子を守らねばならぬ。お前もその人の子を救いたいのか』
「そうです。友達なんです。大切な、友達で」
だから、どうしても助けたい。
わずかに声が上ずる。男性はソニアの答えを了承と取り、ルミールの額とソニアの額に手をかざす。不思議な黒に近い藍色の光があふれる。その瞬間、風景が遠のくのを感じた。
「待って。あなたは? 精霊なのですか?」
男性はふわりと優しく微笑む。
『私は夜を見守る者。我らの声を聴く人の子よ。後は頼んだぞ』
夜の闇を見守る精霊は、ソニアを優しく見守っていた。
断片的なシーンがいくつも目の前を通り過ぎる。どこかの街。ここと同じように魔物の多い場所。魔法使いが魔物を追い払う。使われているのは影のようなものを操る魔法。ルミールと同じような力だ。魔法使いたちには取りまとめる人がいて、その人をじっと見ている少年がいる。その少年は魔法使いの息子のようで、少年に気づいた魔法使いが少年に微笑みかける。少年は、硬い表情のままだ。
場面は変わる。さっきの魔法使いと、青年になった少年が言い争っている。青年が家を飛び出していく。
さらに月日が流れる。青年は誰かと働いている。ここは病院だろうか。鳥のような仮面をかぶった医者がたくさんいる。一人の医者と青年が何かを話している。青年も同じように仮面をとる。青年は医者になったのだ。魔法使いではなく。
ああ、もしかしたら、この青年は。
これはルミールの記憶なのだろうか。
「いたたたた……」
声がして、はっと目を覚ます。傍でルミールが何とか立ち上がるところだった。眠っていたのだろうか。だとしたら、あれは夢なのか。
「おかしな夢を見た」
「わたしも」
誰ともなく呟いたルミールにソニアは同意する。意外そうにルミールがこちらを見る。
「同じ夢を見たというのか」
「多分、そうかな。あれってもしかして、ルミールの……」
ルミールは黙ってうなずく。どうしていいか分からず、ソニアはルミールを見つめた。夜の闇を見守るという精霊が助けてくれた時に、はからずもルミールの記憶を覗くことになってしまったのだろう。
「私の話を、聞いてくれるか」
突然、ルミールはソニアにそう言った。表情はいつものように見えない。でも、その目は何よりもまっすぐにソニアを見つめていた。
ソニアはただ、黙ってうなずいた。面白い話ではないだろうが、と前置いてルミールは話し始めた。その声は静かに、だけれども確かにソニアの耳に届いていた。
ルミールが住んでいた街はここと似て魔物の多い地域だった。ここほど寒冷というほどではなかったが、夜になるとどこからともなく魔物が現れる。その魔物から街を守っていたのが魔法使いたちだった。
その地域一帯は夜の闇を守ると伝えられる精霊が立ち寄る場所と言われていた。その精霊と契約すれば、影を操る力を得られた。ただ、その力は強く、中にはうまくコントロールできない者もいた。また、代価として多くの魔力が必要だった。魔力は生物であれば何者でも持つ力。それがあまりにもなくなってしまえば、身の危険もあった。その危険と魔法使いはいつも隣りあわせだった。
その諸刃の剣をもってして、魔法使いたちは戦った。その長をしていたのが、ルミールの父だった。誰よりも力を使いこなす父は偉大な魔法使いだと言われていた。
魔法使いとなれる者は誰でも精霊と契約をしていた。しかし、ルミールは魔法にも精霊にも興味はなかった。むしろ嫌っていた。姿も見せず、契約の名のもとに一方的に力を与え、代価を求める。こんな不確かな存在に頼らなくていい方法はないのか。
父とはよく口論になった。魔法の才があるルミールに魔法使いになれ、と事あるごとに言ってくる父に反発した。今となってはもう、心の奥底にしまいこんでしまったような思い出だ。
何がきっかけだったのかは忘れてしまった。ひどい口論の末に、はずみのように家を出た。行く当てもなく旅をした。その旅先でたまたま、ある医者を手伝った。確か船で急患が出て、傍にいた自分が手を貸すように言われたのだ。
医学には興味があった。魔法ではない力で、人を助けるのに興味があった。独学で医学書を読んでたいのが役に立った。
「薬草の名が分かるのか」
医者は驚いていたが、それはすぐに関心に変わった。医者は一緒に来ないかと誘ってくれた。迷うことはなかった。
そこから医者のギルドが持つ病院で働いた。初めは風変りに思えた仮面も黒いコートもしだいに馴染んでいった。その姿をしている間は、医者でいられた。精霊のことは忘れていられた。
それでも、時に影のようなものが自分に付きまとうようになったことに気づいた。あの精霊が追ってきたのだと、すぐに分かった。拒絶すれば消えても、またすぐに現れた。それは自分が医者として独り立ちをして、旅を始めてもずっと続いた。しだいに明かりのあるところばかり歩くようになり、夜も月が出なければ、なかなか眠れなくなった。
そして、ソニアに出会って、この旅を始めたのだ。そして、フロルと戦うために、結局は精霊と契約してしまった。それだけが契約した理由ではなかった。力が必要というだけではなかった。逃げるのはもう、やめにしたかった。いつかはこうするだろうという予感はあった。あの精霊からずっと逃げ続けるぐらいなら、向き合いたかった。それが少し思っていたよりも別の形で現実になった。
「私はソニア、君と旅を始めて、君の魔法を見て、精霊がそれほど不可解な存在でもないと思い始めていた。だが、私のこの力はやはり、異質だと思う。大精霊たちや君の魔法とは」
この力をうまく使えるか分からない。
それは口にできなかった。
しばらくの間、沈黙がその場を支配した。ソニアがなんというのかをただ黙って待った。ソニアは何かを考え込んでいるようだった。そして、思い出したことがあると、口にした。
「おじいちゃんからずっと小さい頃に、おとぎ話を聞かせてくれたの。その中に夜の闇の精霊の話があって。てっきり、物語の中の存在なのかと思ってた」
そう前置きしてソニアが話し出したのはルミールの聞いたことのない物語だった。ソニアはよどみなく、その精霊の物語を口にした。その物語は時に歌のようにも聞こえる不思議な言葉で、つづられていた。
この世界にまだ、大地しかなかった頃。夜の闇を司る精霊と日の光を司る精霊がその大地に降り立った。彼らはいたく、この大地を気に入り、共に見て回りたいと考えた。
しかし、二人の精霊の力は強すぎて、一緒に同じ大地へ存在することができなかった。そこで天空に社を作り、一人が天空で待つ間に、もう一人が大地を見て回ることになった。
こうしてそれぞれの精霊の力が天空にあるうちは、天に日が昇り、夜の帳が下りるようになった。二人の力が交代で天空と大地を巡るうちに時が生まれた。時が生まれた大地には、いつしか風が吹き、雨が降り、緑があふれ、多くの生き物と精霊が生まれた。
こうして世界に精霊たちの歌が満ちることになった。
今でも二人の精霊は天と大地を交互に見守る。片方が天へと戻る時には、それぞれの存在を知らせるために歌を歌うという。
「その二人の精霊は空にいるときも大地にいるときも、もう一人の精霊を見守ってるの。だから、昼には木陰が木の下にできて休めるし、夜の空には星や月の光がある。それぞれの力はまじりあっていて、それだけになってしまうことはない。どの力も、この世界にあるの」
やはり初めて聞いた話だった。もしかしたら似たような物語は聞くこともあったかもしれない。そうだとしても、すぐに忘れてしまったのだろう。
「わたし、ルミールが倒れそうになった時に、夜の闇を守るっていう精霊に会った。ルミールを守らないといけない、やっと伝えられるって」
「私を?」
「うん。ルミールの街を守ってたのって夜の闇の精霊じゃないかな」
突拍子もない話のように聞こえた。ソニアの祖父が話したというおとぎ話が事実だとは信じがたい。だが、その精霊はソニアの前に現れ、言葉を伝えた。恐らく自分に向けた言葉を。
「それに、ルミールの力ってそんなに怖くないよ。何回もわたしのこと、助けてくれたんだから」
ソニアが懸命にそう言うのをほほえましく感じた。自分は考えすぎていたのかもしれない。あんなふうにおとぎ話を話したのも、ソニアなりに自分を励まそうとしてくれているのだろう。なんとなく、荷を下ろせたようなそんな気分になった。
それとともに、思い出したことがあった。記憶を覗いたときに、ふと聞こえた声だ。
「あれも、夢ではなかったのかもしれない」
「何かあったの?」
「記憶を見た後に聴いたこともない声が聴こえた。夢だろうと思ったが」
それは記憶とはあまり関係のないことを伝えていた。だから、今のまま今まで気に留めていなかった。
フェンリルがやってきたら、サラマンダーに力を借りること。魔術書に向かって、語りかけるように。
ただ、それだけの言葉だった。
「どんな声?」
「男の声だった。心の底から響いてくるようなそんな声だ」
それはソニアが会ったという精霊と同じ声だという。やっと伝えられるというのはこのことも含まれていたのか。
考え込む二人の耳に聴いたことのないような大きな狼の遠吠えが聞こえた。
広場に着くと幾人かの剣士がかがり火を見張っていた。それ以外の剣士は街の門へと向かっているらしい。ソニアたちに気づいたアウリスがあわてたように、かがり火の傍から離れた。
「フェンリルがやって来たんだ! 今、出歩いたら、危ないよ!」
「フェンリルが……」
これを見越して夜の闇の精霊は言葉を伝えたのだろうか。だとしたら、サラマンダーになんとしても会わなければならない。
「アウリス。もう一度、社へ連れて行って。サラマンダーに会わなくちゃいけないの」
アウリスは一瞬、困惑したような顔をしたが、社へと連れて行ってくれた。社にはもう、人がいなかった。皆、フェンリルを食い止めるために出て行ってしまったのだろう。魔術書は相変わらず閉じたまま、何の変化も見せない。
ただ、魔術書を見たルミールが息を呑むのが分かった。
「あそこに影があるぞ」
恐らく、今まで見えていなかったのだろう。夜の闇の精霊が助けたせいなのだろうか。
「ソニア、魔術書を開く呪文はないのか」
ルミールの声は少しばかり落ち着いていた。しばし、自らの手を見つめ、ソニアに静かに告げた。
「私も力を使おう。一緒に力を使えば、何とかなるかもしれない」
ソニアは驚いてルミールを見た。さっきまで、力を使いすぎて疲れていた。それに、力を使うことに悩んでいたようだったのに。ソニアがためらっていると、ルミールはさらに続けた。
「今はこの方法しか思いつかない。それに、いずれにしろ、フェンリルはやって来るだろう」
確かにその通りだった。ソニアもそれ以上、何も思いつかなかった。それでも、なるべくルミールに負担はかけたくなかった。
「そうだね。わたしが開けるから、一緒に力を使ってみて。でも、無理は」
「分かっている。もう大丈夫だ」
ソニアはうなずいて、魔術書に手を伸ばした。隣からルミールも同じように手をかざす。魔術書を開くには心の中でその精霊に呼びかければいい。ソニアが手をかざし、呼びかけるとわずかに魔術書が光った。ルミールも力を使ってくれているのだろう。なんとなく傍にいてくれているのを感じる。
サラマンダーはなかなか呼びかけに応えてくれない。辛抱強く、何度も呼びかける。闇がサラマンダーとこっちを遮っているようだ。でも、それはきっとルミールが何とかしてくれる。意識を魔術書のほうになるべく集中させる。周りにある音も風景も遠のいていく。世界に自分と魔術書だけになっていく。ここまで集中するのは久しぶりだ。初めて精霊と触れ合ったとき以来だろう。
やがて魔術書がひとりでに開き、その上に一つ、金と紅の混じりあった炎が現れる。
『汝、我の知識を求める者か?』
「力を貸していただきたいのです。フェンリルからこの街を守るために」
『よかろう。それこそ、我が使命。魔術書を持っていくがいい』
集中が切れる。一気に視界が戻ってくる。魔術書は開いたままになっていた。一つ、息をつく。隣ではルミールがやはり、少し疲れたように手を下ろしていた。
「うまく、いったようだな」
「そうみたい。あの、大丈夫?」
「これぐらい何ともない。それより、急いだほうがいいだろう」
唖然とこちらを見つめるアウリスをつれて、ソニアとルミールは門へと急いだ。
門に近づくにつれて、雪まじりの強い風が吹き付けてくる。手も足も凍えそうになる。視界は雪のせいでよくない。遠くに見える剣士団の持つ明かりを頼りに進む。
小声でサラマンダーの名を呼ぶと、小さな火が掌に現れる。サラマンダーは力を貸してくれているようだ。火はほのかに暖かく、周りを遠くまで照らした。
門の周りに剣士団が剣を手に集まっていた。その中心に狼の姿をした魔物が佇んでいた。この前に見た狼たちの二倍以上の大きさ。体は氷そのものでできているかのように、銀色に光っている。あれがフェンリルだろう。フェンリルの周りの大地が凍り始めていた。フェンリルは冷気を発していた。その冷気が雪まじりの強い風となって襲い掛かって来る。
フェンリルの発する冷気をとっさにサラマンダーの火で遮る。杖から放たれた火は冷気を打ち消すが、フェンリルそのものには届いていない。
「ねえ、ソニアはサラマンダーを呼べるの?」
魔術書を開こうとするソニアにアウリスが尋ねる。ソニアはそれにかろうじて、答える。
「サラマンダーは力を貸してくれるって言ってた。これから、呼んでみる」
「じゃあ、一歩、下がってて。必ず、呼んでよ!」
そう言うとアウリスは剣を抜き、フェンリルの冷気のほうへと飛び込んだ。その先にいる他の剣士や団長のもとへ伝えに言ったのだろう。
開かれた魔術書に目を落とす。書かれた文字が金色の光を帯びている。何も考えられなかった。足元の地面も、ところどころに見える剣士たちの剣も次第に凍っていく。迷っている暇なんてない。今は、アウリスを、皆を信じるしかない。
魔術書に手をかざす。足元に暖かい光の円が現れる。金の文字を目で追うたびに円の中の光が強まる。円の中に図形が自然と浮かび上がる。ごく当たり前のことのようにソニアはサラマンダーに語り掛ける。
「永遠なる生命の火よ、我が声を聞き届けたまえ」
目の前に火の渦が生まれる。その中から姿を現したのは、真紅と金の鎧をまとった立派な剣士だった。
『フェンリル、我を失っているのか。この一刀のもとに全てを終わらせよう』
情熱的でありながら、優しさを持つ声がする。サラマンダーは剣を引き抜く。炎をまとった剣はその刃を一閃させた。
ソニアとルミールは丘の上から街を見下ろした。日の光の中で街に積もる雪が輝いている。サラマンダーの力でフェンリルは森へと去っていった。しばらくは、ここに来ないだろう。アウリスは途中まで送ってくれた。
「もっとゆっくりしてもいいのに」
そう言いながらも、次の街への行き方を教えてくれた。心持ち晴れた顔でソニアたちを見送り、こちらが見えなくなるまで手を振ってくれた。
ここに四人の大精霊の力が集まった。精霊竜バハムートが祀られるという街へ歩を進めるだけになった。こんなにも遠くに来てしまったのだと、改めて感じる。
『といってもバハムートが天からやって来るという門には門番がいる。一筋縄ではいかんだろうな』
サラマンダーは魔術書を返しに行ったときに、力を再度、貸すとともにそんな忠告を伝えた。
『恐れる必要はない。己の力とよく対話するように』
何を伝えったかったのだろう。もしかして、大精霊たちと話をしてみろということだろうか。それなら、まずはシルフィールに聴いてみよう。そんなことを思いながら、旅路へと踏み出す。
「ここから先はまだ、随分とありそうだな」
「夜までに小さな町に着いたらいいね」
ルミールと言葉を交わしながら、少しだけ足早に歩くソニアの傍を暖かさを含んだ風が通り過ぎっていった。