たゆたう知識の火
目の前に広がっているのは一面の銀世界。風が吹くたびに雪が宙を舞って辺りを白く染める。防寒着を買い込んでおいてよかったとソニアはつくづく思う。まさかサラマンダーのいる街がこんなに寒いなんて。ウィンディーネのいた街が少し暖かっただけに余計、寒く感じる。
もう少しで街に着くという時に、何かの声が聞こえた。
「今のは!?」
「人の声に聞こえたが」
目を凝らしつつ、声のしたほうに駆け出す。この一帯は魔物も多い。日が高く昇らないこの辺りは時に、一日中、夜であることもあるという。魔物が活発なのだろう。
「た、助けて!」
誰かが雪に足を取られながら走っている。その後ろから走ってくるのは黒い狼。とっさにシルフィールの魔法を使う。猛烈な風が雪を巻き込んで狼を襲う。雪の上に投げ出された狼は煙のように消えた。逃げていったようだ。
追われていたのはソニアと同じか少し年上ぐらいの少年だった。鎖帷子をつけ、鉄のヘルメットをかぶり、腰には剣をさしている。随分、物々しい恰好だ。肩を押さえているところを見ると怪我をしているらしい。
「大丈夫?」
慌てて治癒の魔法をかけるが一向に効かない。ルミールが横からじっと少年の怪我を見つめる。
「怪我そのものは浅いな。……なんだ、これは」
「どうしたの」
「影のようなものが……」
ルミールには、怪我の辺りに、もやのような黒い影が漂っているように見えるという。魔物のせいだろうか。ルミールはしばし考え込み、いくつか薬を試した後、ソニアに言った。
「もう一度、魔法を試してみてくれ」
ソニアは同じように呪文を唱える。その傍らでルミールも力を使っているようだった。間近で力を使うところを見るのは初めてだった。ルミールは何も言わなかったが、彼が悩むほど恐ろしい力には思えなかった。
怪我はきれいに消え去った。少年は驚いたように腕や手を動かしている。痛みも消えたようだ。
「ありがとう」
少年は疲れたように礼を口にした。
少年はアウリスといってサラマンダーの街にある剣士団の見習いだった。この間、剣士団に入ったばかりで今日は街の外の見回りをしていたという。この地域は昔から魔物が多く、サラマンダーの守護のもとで人々は暮らしている。それだけではなく、サラマンダーを慕う人々が魔物から街を守るために剣士団を作っているのだ。
「最近、街に近づく魔物が多いんだ。さっきも狼の群れに追いかけられて」
ほとんどの狼は、まいたらしいのだが、一匹だけにしつこく追い回されたらしい。乗っていた馬もおびえて逃げ出してしまった。そこにソニアたちが通りかかった。
「おかげで助かったよ。えーっと、魔法使いなの?」
「うん。わたしたちもサラマンダーの街に行こうと思って」
「もしかして、サラマンダーに会いに来た?」
意外な言葉にソニアもルミールもアウリスの方を見た。アウリスはあわてたように、答える。
「旅の魔法使いは皆、サラマンダーに会うから、そうかなって。でも今は会えないかもしれない。かがり火がものすごく弱くなっているんだ」
サラマンダーが人々を魔物から守るために分け与えたというかがり火がある。常に燃え続けていた、かがり火の火が弱くなっているのだ。そのせいで街に近づく魔物が増えている。普段は見習いが一人で外を見回ることはないが、人手が足りない。基本、偵察だけで戦わないそうだが、ああやって魔物が襲ってきたら戦わなければならない。
街の中へ入っても雪は降っていたが、人々の生活する明かりのせいもあって、雪はほとんど溶けていた。さっきの雪道に比べて、歩きやすいのが幸いだった。
「あー、また団長に怒られちゃうな。俺、戦うの下手だから」
もともと剣は習っていて、試合なら何とかなるというアウリス。しかし、いざ魔物を相手にするとうまくいかない。サラマンダーの火が弱くなっているから、何とか役に立ちたいのにとアウリスは残念そうに笑った。
街の中ほどには大きな広場があり、そこに東屋のようなものが見えた。中で火が燃えている。時々、金色の火の粉がまじっている。あれが、かがり火のようだ。確かに置かれている入れ物に対して火は小さく見えた。
かがり火の周りにアウリスと同じような剣士が何人も立って見張りをしていた。アウリスが近づくと、中でもひときわ、細かい装飾が施された鎧を身に着けた剣士が出迎えた。
「団長……」
「遅かったな。まさかまた、怪我をしたのか?」
団長と呼ばれた男性の声には怒りよりも心配がにじみ出ていた。アウリスがいきさつを話すと、ほっとしたように表情を緩めた。どうやら、団長が怒るのはアウリスの身を案じた末のことらしい。
「助けてもらったようだな。ありがたい」
団長がそう言って胸に手を当てて礼をとると、ほかの剣士もそれにならった。
「何か礼をさせてほしい」
「そんな。たまたま通りかかっただけです」
正直、こんなに物々しいお礼を言われるのは落ち着かない。それでも、団長はなかなか引き下がらなかった。
「団長、彼らはサラマンダーに会いに来たのです。旅の魔法使いだそうで」
困っているのが分かったのか、アウリスが助け舟を出す。団長はほう、と珍しそうにソニアを見た。
「そうであったか。しかし、今は難しい。サラマンダーの宿る魔術書が開かないのでな」
サラマンダーはもともと一冊の魔術書に眠る大精霊であるという。魔術書は常に開かれていて、触れればいつでもサラマンダーが現れ、魔物から人々を守った。特に氷と冬を連れてくるというフェンリルという魔物は幾度も街を襲った。サラマンダーは仇敵であるフェンリルに何度も敢然と立ち向かった。
その魔術書が閉じたまま開かなくなってしまった。それにつられるように、サラマンダーが人々に分け与えた、かがり火もすっかり弱くなってしまっている。
「それでもよければ、様子だけでも見てほしい。何か分かるかもしれん」
案内された社は、白い大理石で作られていた。中央の台座に真紅の魔術書が浮かんでいる。その分厚い本はぴったりと閉じたままだ。
手に触れ、魔力をこめてみても開かない。それ以外に特に変わった様子もなかった。
「やはり、開かないか」
どうしても魔術書が開かないのを見て、残念そうに団長は呟く。ソニアもなんといっていいか分からなかった。
「何かわかったら、言ってくれ。魔物に気を付けるように」
剣士団の人々はソニアたちを広場まで送ってくれた。ソニアは礼を言い、そのまま街へ戻った。今は、何もすることができない。それに、長旅の後で疲れてもいる。休息が必要だった。
ルミールは眠れないまま、外を眺めていた。雪が覆う街を銀色の月光が照らし出す。恐ろしく静かな光景だ。
アウリスという少年を助けるとき、ごく普通にあの力を使った。迷いもためらいもなかった。いつもつきまとっていた影はもう、自分の前に現れなかった。当然だ。自分の力の一部になってしまったのだろう。
どんどん、元の自分ではなくなっていく気がする。そんなことは決してないはずなのに、そんな気分になってしまう。闇がいつか自分を呑み込んでしまうかもしれない感覚。
ソニアはこの力をどう思っているのだろう。何も言わないが、どんな精霊かも知れない力だ。もしかしたら、この力を与えたのは精霊ではないのかもしれない。今まで会ってきた大精霊とも違った存在に思える。そんなよく分からない力を魔法使いでもない自分が使う。もし、自分だったら、気味悪いと思っているだろう。
ふと窓の外に目をやると通りを何かが走り抜けた。狼の魔物だ。それも一匹ではない。その後に一人の杖を持った人物が歩いて、ついていく。
「あいつは」
見間違えようがない。フロルだ。今回のことも、フロルが絡んでいるのか。
そっと外へ出る。少し風があるが、歩けないほどではない。フロルの歩いて行った先を追った。フロルは自分の力について何か知っている口ぶりだった。そういう意味でも見過ごせなかった。
しかし、角を曲がった先にフロルの姿はなかった。かわりにいたのは、何匹もいる魔物。魔物はルミールに気づくと周りを囲むように寄ってくる。よく見ると魔物の狼たちはあの影と似た姿をしていた。自分の前に現れ、力を与えた影に。この力で何とかなるかもしれない。
ルミールは杖を地面へと向ける。こんなに多くの対象に使ったことはないが、やってみるべきだろう。自分はこの力を嫌ってはいるが、こんな時には役に立つ。皮肉なものだ。
自分の力が月光の作る影の中にまじる。それが狼を包んで広がっていく。まるで黒い炎のように。それが消えると狼たちも消えていた。この力に押されて去ったのだろう。
突然、ひどい疲労感が襲ってきた。こんなことはなかったのに。思わず膝をついてしまう。杖で自分の体を支える。荒れた呼吸を何とか落ち着かせようとする。
なんなんだ、これは。このままここで、眠り込んでしまうそうになる。力を使いすぎたとでもいうのか。慣れない感覚に焦りと少しばかりの、先の見えない恐怖を感じた。
誰かが遠くの方で自分の名前を呼んでいる気がした。そちらに目を向けると雪の降る向こうにオレンジ色の明かりが近づいてくるのが見えた。ソニアだった。杖に明かりを灯して必死に走ってくる。
自分の傍に駆け寄り、何か言っている。それもぼんやりとした音として過ぎ去っていく。
ルミールは自分が倒れ込むのを感じた。