闇の守り手
海辺にあるという街はノームのいた街から、かなり離れていた。馬車を乗り継ぎ、いくつか街を越えた。ルミールは一度、行ったことがあるらしく海を見たこともあるらしい。
「海ってどんななの?」
「そうだな。湖をかなり大きくしたようなものだ。海の向こうにも街があって船が行き来していたな」
ルミールはソニアと違って、様々なところへ医者として旅しているらしい。そのためか、いろいろな場所や地理をよく知っている。普段はあまりしゃべらないが、行った街のことや旅のことはよく話してくれる。その話自体が面白くて、ついついソニアは聞き入ってしまう。
海辺の街は温暖で、いつも穏やかな風が吹いているという。人々は陽気で音楽が絶えない街だ。ソニアはどんな所なんだろうと想像をして、早く着かないものかとわくわくしていた。
だが、着いてみると、街の様子は随分、変わっていた。通りにはあまり人はおらず、風もどちらかというと涼しい。寒く感じることもあるぐらいだ。
「どうしちゃったのかな」
やはりウィンディーネに何かあったのだろうか。ルミールは前にここに来た時に見たという水の大精霊の社の入り口へ連れて行ってくれた。港の傍、海に突き出たところに、その社の入り口はある。入り口は海の上にあるが、社そのものは海の下に作られているという。
港も人はほとんどいない。停泊している船はどれも大きく立派だが、出入りはしていない。海に近づくと寄せてくる波にわずかに流氷が浮いていた。川の水が少なくなっていたのも、海が凍っていたせいだろう。海はソニアが思っているよりもずっと広かった。地平線の向こうまで、どこまでも広がっている。少し不安になるぐらいだ。空には重たい鈍色の雲が垂れ込めている。鳥たちが海に向かって何羽か飛んでいく。海からの風は寒くて、ソニアは身震いした。晴れていればまた違っただろうが、今はなんだか寂しそうだ。
「海が凍ってる」
「そんな……。あれほど暖かったのに」
社もかつては様々な人が訪れていたというが、今は扉は固く閉ざされている。ソニアたちが社の前にいると、通りかかった初老の男が親切に教えてくれた。
「今は誰も行ってねえよ。祭りまで開かないだろうな」
海は少しくらい前から急に凍りだしたという。ウィンディーネの怒りに触れたのでは、と噂になっているほどだ。自分たちは何も悪いことはしていないのに、と男は苦々しく口にする。
もともと、この海はウィンディーネの守護のもとで栄えたと伝えられる。ウィンディーネが来る前、この海は怪物リヴァイアサンが荒らしまわっていた。恐ろしくて誰も海へなど出ることもできなかった。リヴァイアサンを封じ、この海を安全なものにしたのが大精霊ウィンディーネだった。
「俺たちは毎年、そのウィンディーネを讃えて音楽祭をやるんだ。それでちょっとは機嫌をなおしてくれたらねえ。観光で来たんなら間が悪かったな。それでも見て行ってくれや」
男が言ったように街の大通りを歩いているとそこかしこから音楽が聞こえてきた。通りで演奏している人々もいる。石畳の通りにヴァイオリンやフルートやピアノや歌声などが一緒になって響き合っている。それだけは、かつての街の活気を伝えているようだった。
そのソニアたちの行く先に人だかりができているのが見えた。何かあったらしい。周りの人が焦って駆け寄っている。人だかりの中にいる一人がこちらに気づき、人だかりを割って出てきた。若い女性、しっかりとした作りのドレスを身に着けた女性が血相を変えて走ってくる。
「あなた、お医者でしょう。ちょうどよかったわ。来て!」
そう言ってルミールの手を引っ張っていく。体制を崩しかけながら、ルミールは人だかりの中へと入っていく。あわててソニアも追いかけた。人だかりの真ん中には顔色の悪い男の人が倒れている。怪我をしているわけではないから、具合がよくないんだろう。
ルミールが男の人を見ているのを女性は硬い表情で見守っている。よく見ると周りにもタキシードやドレスを着た人々がそれぞれ楽器を手にしている。
「病気ではない。疲れからだな」
ルミールが冷静に告げると一同は胸をなでおろした。自分に何かできることはないかとソニアは考えてみたが、自分の魔法では傷しか治せない。ここはルミールに任せるしかなかった。こういうとき、ちょっとだけ寂しいような気持ちになる。何かできたら、いいのに。
「やっぱり無茶だったのよ! 今日こそは、休んでもらわよ」
やっと起き上がろうとした男の人に女性は毅然と告げた。男性は困ったようなそんな表情で笑っていた。
女性はルナと言って楽団でヴァイオリンをしているという。音楽祭に向けての練習中、根をつめすぎていた指揮者、ライルの具合が悪くなったのだ。
「一人で頑張りすぎなのよ」
困ったようにルナが呟く。あれからほかの楽団員と近くの宿を借りて、ライルを静養させた。今は落ち着いて眠っている。ルミールとしては、念のため、様子を見ておくほうがいいと感じていた。心労が原因とはいえ、病である可能性も捨てきれない。
部屋に入るとライルは起き出していた。ぼんやりと視線を泳がせている。
「まだ起きないほうがいい」
近寄って脈をとろうとする。ふと、何かがライルの手から伸びてきたように見えた。
影のようなもの。見間違いではない。ざわりと胸騒ぎを覚え、手を引っ込めようとした。しかし、影が手に巻き付いて離れない。
「お前、まさか」
「君、気付くの遅いよね」
ずぶりと、ルミールの体が闇に沈んでいく。ライルの傍には、あの魔法使いの青年が立っていた。
自分をどこかへ連れていくつもりか。何のために。目の前が闇に完全に遮られる。どうなっているか分からないが、恐らく影のようなものがまとわりついている。
「いい加減にしろ。離せ!」
思いっきり腕を引っ張る。影が引きちぎられると同時に視界が開けた。気づくと見知らぬ路地裏に一人で佇んでいた。うまく逃げられたのか。しかし、いつ青年が追ってくるとも限らない。周囲に気を配りつつ、走り出す。ここは闇が多すぎる。
どこまで行っても路地が続く。その先は袋小路になっていた。
「そんなに逃げなくてもいいんじゃない。話ぐらい聞いてよ」
袋小路の塀の上にいつの間にか青年が座っていた。悪びれた様子は微塵もない。
「聞くことなどあるか。だいたい、なんで私を狙う」
「僕は君とソニアに用があるんだよね。君がまず、ちょうど通りかかったから、連れ出した。あー、あの人の体はちょっと借りたけど。君ってさ、僕と同じ力を持ってない?」
柄にもなく心臓が跳ねるのを感じた。なぜ知っている。力を持っているわけではないが、影につきまとわれているのは事実だ。
「お前と一緒にするな」
「あれれ、図星? 僕と同じ影を操る力なんでしょ。やりにくいんだよね」
違う。自分はそれを拒否したのだ。それともこれも自分の一部だとでもいうのか。それが影が自分を執拗に追ってくる理由なのだろうか。
「リヴァイアサンを起こすのに、君の力は邪魔なんだよ」
ゆらり、と塀から影が染み出す。どうする。逃げられそうもない。
後ずさりしていると、染み出した影がぴたっと動きを止めた。何かに近寄れないように。いくつかの影がルミールの手前ではじかれた。何が起こったのか分からなかったが、ルミールはとっさに走り出した。迷っている暇はなかった。今は一刻も早く逃げなければ。
大通りをいくつか通り抜け、海の近くで一息つく。もう追ってきてはいないようだ。
さっきの青年の力を退けたのは、いつも自分につきまとう影だ。なぜか守ってくれたのだ。やはりあれはもう、自分の一部になってしまっているのか。
受け入れろということか。そうすれば恐らく父と似た力を手に入れるだろう。もしかすれば、青年自身も退けられるかもしれない。それで、自分はどうなるだろう。今のままでいられるだろうか。力に呑まれる人々もいた。自分はそうならずにいられるか。
答えは誰も教えてくれない。月が青白く照らす通りをルミールはじっと見つめていた。