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「巫女、本当に全部お一人で大丈夫ですか?」
奥殿へ続く通路の前に積まれた、祭壇を作る道具を見て、無理ですって言いたい気分になったけれど、そうは言ってられない。
「ちょっと大変そうですけれど、大丈夫です。ここまで運んで下さってありがとうございます」
にっこりとシレルに笑いかけたものの、本当に出来るのだろうかって不安にならないわけじゃない。
だけど私にしか出来ないなら、やるしかない。
「……では、わたくしはこちらで失礼致します。何か御用がございましたら、お呼びくださいませ」
恐らくシレルだって、手伝えるなら手伝ってくれるはず。だけれど、奥殿に入ることは許されないのだから、手伝うなんて言いたくっても言えないんだろう。
いつもは表情を崩さないシレルなのに、本当に心配そうな顔をしている。
明日の前夜祭、そして明後日の本祭、明々後日の後夜祭。
その間沢山の人が水竜の神殿を訪れる。
その人たちに年に一度開放する礼拝堂の飾り付けや掃除だって、結構大掛かりで大変なはずなのに、私の為にシレルを始め何人もの神官が材料運びを手伝ってくれたんだから、それ以上求めるなんてこと、出来るはずがない。
それに、こんな風にシレルに心配かけちゃいけない。
むしろ「ありがとう」って、ちゃんと言葉にして気持ちを伝えなきゃ。
「ありがとうございます。今日は礼拝堂の飾りつけがあるんですよね。何かありましたら、礼拝堂の方へ参ります」
「畏まりました。では、失礼致します」
きっちりと決められた型どおりの礼をするシレルの背中を見ながら、こっそりと溜息をつく。
あまり高く積み上げると持ちにくいからと、神官たちが並べておいてくれた材料は結構な数になるというのに、これを全部運んで設置するのに、どのくらいの時間がかかるんだろう。
大祭は明日から始まるっていうのに。
ここで弱気になったら、絶対終わるはずないんだから、頑張らなきゃ。
でも、本当に何とかなるかしら……。
ううん、終わらないかもしれないって思っていた掃除だって終わったんだから、何とかなるはずだわ。
それにしたって、何で巫女ってこんなに肉体労働が多いの。吟遊詩人の語る物語の中の巫女は、祭壇設置なんてしてなかったっていうのに。
どっちかっていうと、優雅に神殿の奥深くで守られて「おほほほほ」って笑っている感じじゃなかったかしら。
確か、ゆったりと水竜とお茶でも飲みながら……。
そんな事考えてたって、しょうがない。これも巫女の勤めの一つだって割り切ってやるしかないんだから。
意を決して、祭壇の土台になる板を持ち上げてみる。
ぐっ。
お。重い。
でも持てない重さじゃないんだから、気合と根性でなんとかするしかない。
最近力仕事なんてしてなかったから、鈍ってるだけよ。何とかなるわ、絶対に、何とかする。
明日からの大祭に間に合えばいいんだから。今日中になんとか終わらせればいいのよ。
……とりあえず小さいやつから順番に運ぼう。最初から大物はちょっと無理みたい。
「サーシャ大変そうだねえ」
とりあえず奥殿を囲む小さな湖の前に、なんとか全部の荷物を運んで、奥殿でぐったりしていると、心配そうな顔でレツが覗き込んでくる。
「大変よ。巫女がこんなに大変だったなんて知らなかったわ」
奥殿の床に寝転び、目を閉じると、床がひんやりと冷たくて気持ちがいい。体中がぎしぎし悲鳴をあげているし、汗をかいて暑くてしょうがない体には、この冷たさが丁度いい。
初夏の日差しは、容赦なく体の温度を上げて、たまにこうやって休憩しないと、倒れそうになる。
寝転んで見上げる天井は高く、奥殿の大きさを改めて知る。
こんな広いところ、よく掃除できたなあって自分で自分を褒めてあげたい。
そうやって自分の事を頑張ったねって言ってあげないと、とてもじゃないけれど辛くなってきちゃいそうだから。
まして、これから先の肉体労働を考えると、褒めて褒めて褒め倒さないと、めげそう。
「まあ、巫女も色々だね。サーシャが根性のある巫女でよかった。やっぱりボクの目には狂いがないなあ」
自画自賛して、嬉しそうに一人でレツが頷く。
あの、巫女を選ぶ基準は、根性なんでしょうか、レツさん。
荒い呼吸を静めようと、ゆっくりと何度も深呼吸を繰り返す。
全部終わった頃には、いい色に日焼けした巫女の出来上がりのような気がするわ。
そんなくだらない事を考えながら、天井を仰ぎ見ていると、息が段々落ち着いてくる。
ふっと、視界が遮られ、レツの温度の無い手が、額の上に置かれるのが見える。
決して触れることの出来ない手から、ふわっと風が吹き、前髪が舞い上がる。
すっと、全身の倦怠感が抜けていって、豆が出来るんじゃないかって思っていた掌からも痛みがひく。
あのだるい感じはどこにいっちゃったの?
試しに上体を起こしてみると、やっぱりものすごく体が軽い感じがしてレツの顔を見ると、にっこりとレツが笑う。
「ボクにしてあげられるのはこれくらいだから、まあ頑張ってよ」
「すごい! レツすごい! こんな事も出来ちゃうんだ」
えっへんという感じでふんぞり返り、レツが得意げに腕を組む。
「まあね、ボクに出来ない事なんてないんだよ。ま、でも巫女にだけだよ、こんな事出来るのは」
レツは出来ない事なんて無いっていつも言っているのに、どうして?
何でも出来るレツなら、巫女に限らず、沢山に人を治してあげられるはずなのに。
瞳に、疑問の色が浮かんでいたのかもしれない。レツが間髪入れずに付け足す。
「巫女はさ、ある意味ボクの一部みたいなもんなんだ。だから、自分の体を治すように、巫女の体を治すことは出来る」
レツの目が、深い泉の底のように暗く、そして沈んでいく。
「これだけは覚えておいて。ボクは巫女以外の人間の傷を癒すことも、生き返らせることも出来ない。自然をほんの少しだけ、人間たちが生きやすいように穏やかにする事しか出来ない。ボクは万能だけれど、万能じゃない。ボクの力の及ぶ範囲は限られている。例えどんな事態になろうとも、これだけは覚えておいてね」
「うん、わかった」
いつもとは違うレツの表情が、その事をちゃんと覚えておくようにって言っている気がする。
まるで言い含めるように、レツが言うから。
人は何でも水竜に救いを求めるけれど、決してその全てを叶えることは出来ないのだということを、絶対に忘れちゃいけない。
もしかしたら、私が近い未来にレツにその事を求めるのが、レツの目には視えるのかもしれない。
レツの言葉の意味を考えていると、何もなかったかのように、目の前にちょこんとレツが座り込み、にっこりと笑顔を浮かべて、奥殿の外の荷物が積まれているところを指差す。
「はい、休憩おしまい。頑張って作ってきてね、あれが終わってもまだ大量の供物を運ぶ仕事があるでしょ」
「あっ」
レツの一言で、一気に気が重たくなる。
色んな村や街から、水竜に捧げる為に、沢山の荷物が届いていたんだった。
それも結構な量だったような気がする。
大半は前殿の礼拝堂に作られる祭壇に置くけれど、それでも少しずつは奥殿に作る祭壇に置かなきゃいけないんだ。
祭壇作っても、まだ終わりじゃないんだと思うと、がっくりと力が抜ける。
あー、もう本当に終わらない気がしてきた。
祭壇の材料だけでも結構時間がかかったのに、祭壇作って、全部綺麗に設置するまでには、一体どのくらいの時間がかかるっていうんだろう。
でもそんなこと考えてる暇があるんだったら、やらなきゃ。
「……いってきます」
「はーい。いい子にしてるから、早く終わらせて遊んでね」
極上の笑顔で、鬼みたいな事を……。
行ってくるわよ、それで早く終わらせればいいんでしょ、もう。
床から立ち上がって、レツに頷いて応える。
「サーシャ、お返事は?」
「……前向きに頑張ります」
ケラケラと、おなかを抱えてレツが笑う。
何がそんなにおかしいのよ、私は必死なのに。
神官服の長い袖をまくり、外に出ると照りつける陽の光にうんざりする。
雨が降らなくって良かったとは思うけれど、でもこんなにいい天気でも辛いわ。
湖の中に浮かぶ奥殿へ渡る唯一の道である橋を渡りながら、神官服の襟元を開ける。
基本的には肌を見せないように作られている神官服は、こんな時には暑くてしょうがない。
どっちかというと優雅さ優先、見た目重視の服だから、絶対にこういう時には不便だと思う。
歩いているだけでも暑いんだから、これでまた肉体労働したら、汗だくになりそう。
何で神官たちって、掃除している時も他の作業をしている時も、飄々として、汗一つ流さずに淡々としているんだろう。それにテキパキしていて早いし。
ちょっとは見習わないと。
でも、この天気の中で、優雅さとか気にしてられない。どうせ誰も見ないんだし。
服の高い襟が、下を向いた時に邪魔になりそうなので、襟を折り曲げようとして、手に細い鎖がひっかかり、鎖の先の青い石が揺れる。
――巫女が、いつまでも強くいられるように。
そう言ったウィズの事を思い出す。
きっと明日からの大祭には来るんだろうな。間違いなく。
神託がどうこうとかなくったって、大祭だからっていう理由があれば、レツの……水竜のことを気にしなくったって神殿に来られるんだから。
ここ半年くらい、本当にこっちから呼んだ時にしか来ないウィズだけれど、本当はどう思っているんだろう。
本当はもっと、神官長様に会いたいって思ってるかもしれない。
仲良さそうな二人の姿を見ないで済むからいいやって思ってたけれど、それも何かちょっと違う。
橋の真ん中で、空を見上げて立ち止まる。
何で、こんな風にウィズのことを考えちゃうんだろう。
ウィズと神官長様はきっと恋人同士で、私なんか全然関係ないのに。
そう思うのに、心に刺が刺さるのはどうしてだろう。
胸元に光る、小さな石を眺める。
大事に、でも神官長様にもレツにも誰にも見つからないように、こうやって毎日服の下に身に付けてる。
これを見るたびにウィズのことを思い出すのに。
思い出さなければいいと思うのに、気がつくと一日に何回かはウィズのことを考える。
元気にしてるかな。
今はどんな事してるんだろう。
話した事とか、今も覚えているかなあ。
そんなこと考えたってしょうがないのに。
いざ顔を合わせたら、何も言えなくなっちゃうのに。
会ったって、全然話なんてしないのに。
ウィズのこと、大切だと思うのは、ウィズが巫女になる手助けをしてくれた人だからだわ。
うん、そういうことにしよう。