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夜の森のヘゼル  作者: 文字野
一章 平民ヘゼル
6/8

6話

 

 暑さを煽るばかりの風に、目が冴えるような涼やかなものが混ざるようになった。強く長い風が空の高いところから段々と地面へ降り、今では足元から掬い上げられることもしばしばだ。父親が穏やかな眼差しで慰めるように「そろそろ吹く頃かな」とヘゼルの頭を撫でた。ベッドなんて上等なものではない、粗末な布団の上に横たわり、ヘゼルはその大きな手に甘えるように額を押し付けた。

 しかし実際は、どうしてこうなった、という苦虫を噛み潰したような表情を隠すための行動である。


 嫌に印象的な夢を見た。今でも鮮明に思い出すことができるほどの夢だ。それが何を意味するのかなんてヘゼルにはわからないし、本当に意味があるのかなんてもっとわからない。

 それでも意味があったときのために無視することもできず、ここ数日はずっと落ち着かなかった。黙っていても浮き足立つ心に引き摺られて身体もそわそわと動いてしまう。それでも自分ではいつも通り平静を保っているつもりだったが、どうやら両親には一目瞭然だったらしい。娘の様子をどう判断したのか、ここのところは毎晩のように寄り添い、眠るまでずっと側に居る。

 朝には一人で目が醒めるため、添い寝をするつもりではなくヘゼルが眠ったら自室へと戻るようだ。しかしそれでもヘゼルは内心で頭を抱える。


 山の神(アデントルカ)がもたらすとされる恩寵の風は、おそらく明日吹く。いやもう吹き始めているのだろう。いくら建物や人間に危害が無い摩訶不思議な風とはいえその強さは嵐のようだ。木々のざわめきは雨音に似て、強い風の音は合戦前の鬨の声にも聴こえた。

 恐ろしいわけではない。こんなものただの風だ。この程度の自然に、望みを絶たれるような恐ろしさなど感じない。


 それでもヘゼルが恐怖するのは、いま眠った先に何があるのかが想像できないからだ。やはり親はどんな世界でも親なのだと痛感する。子どもの取り繕いなどお見通しだ。しかし全部を理解などできるわけがないので、少しでも自分と子どもの不安を取り除こうと手を伸ばすのだろう。恵まれているとヘゼルは思う。そのことを疎ましく思ってしまう罪深さも、よくよく自覚している。

 先日仕込んだ『眠り草(泣き払い)』は恩寵の風が吹く前夜、寝る前に飲むつもりであった。煎じて服用するとのことなのでこっそり準備もしていた。だがいくら成人男性の記憶があるとはいえ、所詮は子どもの浅知恵ということか、台所を管理する母親の目は誤魔化せなかった。夜中に布団を抜け出したところ、ヘゼルの用意したものを丁寧に片付けていた母親にあっという間にバレて首根っこを掴まれ、そんなにのどが渇いたのならと渡されたコップ一杯の水と「早く寝なさい」の一言と、おまけで見張り役の父親も共に寝室へと投げ込まれたのだ。

 子どもを叱りつけるその当たり前の行動を受けられない人間だって――記憶の中のあの(ひと)のように――居るのだから、文句を言うなど贅沢だろう。それでも、どんなに稚拙でも、これが最善と思って立てた計画だったのだ。直前で頓挫したことによりささくれ立つ心を抑えるのは、今のヘゼルにはまだ難しい。


「大丈夫だよヘゼル。山の神(アデントルカ)は優しい神様だ、人とその財産を壊すことは為さらないよ。お邪魔にならないよう、僕らは明日は一日中外に出られないけれど、明後日はお祭りだ。確か、そうだな、アレンくんが今年の祭祀奉上を読み上げるんだったかな。応援してあげよう。他にも楽しいことが沢山あるよ。怖がらなくていいからね」


 父親の声はどこまでも平穏だ。わかってる、と心の中で返事をする。

 恩寵の風が吹く日を選んだのも、『眠り草』の効果がどれほどのものかわからなかったからだ。眠気が引かず、寝坊して仕事ができないようではいけない。信用と信頼はコツコツと積み重ねていくものだ。失望の眼差しはそれだけで人を殺す。それをヘゼルは重く知っている。

 しかしこのままでは『眠り草』も飲めず、機会を伺ってはずるずると延長していく未来しか見えない。今を逃すことでどんなリスクがあるのか、そもそもリスクなんてものが本当にあるのか、ヘゼルにはわからない。わからないことは怖い。だから行動する。

 今のヘゼルにとって父親の言葉は、単に耳触りの良い音楽だ。何の足しにもならない。

 言葉に込められた心は――その根本にある愛情は、泣きたくなるほど有り難いけれど。


 次第に意識が微睡みの中にとろとろ溶けていく。

 外から聞こえる風の音が心地良い。すぐ側にある父親の気配に安心し力が抜ける。起きて、起きなきゃ、と自分に言い聞かせないとすぐにでも眠ってしまいそうだ。

 このまま眠ってしまうのは駄目だ。強く意識しないと徐々に下りてくる瞼をなんとか開こうとヘゼルは眉間にシワを寄せる。


「……おやすみ、ヘゼル」


 それでも父親の囁きでふわりと意識が浮上したということは、一瞬でも眠っていたのだろう。

 遠ざかる足音に息を潜め、薄目を開いて周囲を確認する。父親の姿は無かった。交代で母親が様子を見に来るなんてことも無さそうだ。風の音だけが静寂の中で暴れている。


 ヘゼルはそっと自分の手のひらを開いた。強く握り締めていた所為か、その草は手の中でへたりとくたびれていた。

 出来すぎた偶然によって手に入れた『眠り草』は、夏の気候の所為かやや乾燥が足りない気もするが、それでも煎じて飲む分には問題無いだろうと思った。しかしこうなると二進も三進もいかない。既に破綻した計画に縋るのは現実的ではないだろうし、次を練る時間も余裕も無い。ヘゼルはゆっくりと起き上がる。


 母親から、何も渡されないではなく、その場で飲みなさいでもなく、コップ一杯の水を渡してもらえたのは幸運だった。


 手のひらで『眠り草』を小さく丸める。ヘゼルはしばらくそれを見つめていたが、うろうろと視線を彷徨わせ、何度も唾液を飲み込んで、風の音に急かされるようにしてようやく口に含んだ。草の味を感じる前に間髪入れずに水を流し込む。コップの中身を一気に煽っても、苦味と奇妙な清涼感が舌に残った。

 間違った服用方法だが、つまりは胃に収めればいいのだ。しっかり効いてくれることを祈ろう。ようやくノルマを達成したとばかりに安堵のため息を吐いてヘゼルは布団に潜り直す。


 例え一人でも、眠りにつくのは思いの外簡単だった。



 ――ジリ、ジリ。

 鼓膜に届いたそれは虫の羽音にも似ている。ヘゼルがそれの音を耳にするのは何度目だろう。思った通り、目を凝らさなくても、その四角い光は見逃せないほど鮮烈だ。


 木々の音は聞こえない。地面もぬかるみではなく、もっと芯のある柔らかさだ。まるで床に毛布を敷いたような。

 ヘゼルは四角く明暗する光の前に腰を下ろした。この光に浮かび上がる絵や文字が何かを示唆していることには気付いている。『眠り草』を飲ませたのも何かの意図があるのだろう。それが良いことであれ悪いことであれ、ヘゼルには無視できなかった。

 心構えなどできていない。けれど一人では何もわからない。知らない恐怖と知っている恐怖、必ずどちらかを選ばなければいけないのなら、きっと後者のほうが幸福だ。


 光はパチリと色を変える。どこからか音楽が流れ始める。始まった、とヘゼルは自分の服の胸元を握り締めた。緊張で心臓が痛い。自然と呼吸が潜められる。

 これから与えられるものはヘゼル(わたし)にとって重要なことだ。そうであってほしい。そうであってほしくない。相反する願いが胸の内で騒いだ。覚悟などそうそう持ち得ない。それでもヘゼルは身を乗り出すように光を凝視する。


 そこでふと、光を縁取る輪郭から、何か紐のようなものが伸びていることに気付いた。


 黒くて目立たないため今まで気に取られなかったのだろう。新鮮な気持ちで紐の先を探せば、それは小さな箱のようなものに繋がっていた。耳を凝らせばウィィンと何かが悲鳴を上げているような音がする。

 その箱から、さらに一回り細い紐が伸びていた。ヘゼルは視線で辿ってその先を探す。

 そしてそれが自分の少し後ろに座る人間が――居ることに今のいままで気付かなかったためヘゼルは大きく肩を跳ねさせた――持つ、奇妙な形の道具に繋がっていることを知った。


 誰だろう、なんて、そんなごく当たり前の疑問がなぜか思い浮かばなかった。


 暗闇の中。ヘゼルにはその人間の手元しか見えない。顔立ちなどわかる筈も無い。表情なんて論外だ。

 それでもヘゼルには、(かれ)がこちらを咎めるように苦笑しているのを感覚で視た。


 ――【テレビを見るときは、部屋を明るくして、画面から離れて見てください】


 それは声だったのだろうか。音だったのだろうか。沈黙した空気の震えか、それとも五感以外で覚えた直感か。


 ともかくその『意思』が響いた途端、パッと周囲が明るくなる。そこでヘゼルは夢の中の場所が今までと違うことを知った。暗かったときは同じような森の中だとばかり思っていたが、どうやら誰かの部屋らしい。本やカードの山、ボードゲームなどが所狭しと置かれていて、そのくせどれもが使い込まれた様子も無く静かに埃を被っている。

 明るくなっても男の顔だけが認識できない。確かに見ている筈なのに、目にした側から忘れていく。印象すら手元に残らず、目を細めた、眉を寄せた、といった事実だけをかろうじて捉えることができる。


 ――それでも、ヘゼルには充分だった。


 あなたは、と口を開いた。男はゆるりと首を振った。詮索するなということか。それとも、ヘゼルの持つ答えが全てだと言うのか。耳を塞ぎたいだろうに、その両手は紐の伸びる奇妙な物から離れない。

 ヘゼルは男の隣へと座り直した。男は許されたように息を吐いた。だからヘゼルは何も言わなかった。真正面から投げられる言葉は、きっと叱責にしか思えないのだろう。そういう(ひと)だと知っていた。


 これは恐らく、(かれ)の導きだ。

 ならばヘゼル(わたし)は受け取ら(入れ)なければならない。

 少し遠のいた画面が、音楽に合わせて目まぐるしく変わる。ヘゼルは先程より一層真剣にそれを見つめた。


 カチッ――男の手元から、何かを押すような乾いた音がした。

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