5話
季節は夏へと移った。高い陽射しが刺すように降り注ぐ。些細な微風程度では吹き飛ばせない熱が始終空気に留まっている。黙っていても流れてくる汗を水で濡らした布で拭い、ヘゼルは小さくため息を吐いた。その息の温もりすら今は煩わしい。
孤独に死んだ異郷の男の記憶にあるような、冷蔵庫だとかクーラーだとか、そういった便利なものはここに無い。食材は冬に集めた氷を床下の収納庫に詰めた氷室へ置いている。昼間の暑さは早朝に水を撒くことで少しでも和らげ、それでも乗り越えられそうにない日は朝夕と働き昼に休むようにして凌ぐ。
ヘゼル達子どもは夏の仕事は少ない。茹だるような気温で体調を崩しやすいからだ。外仕事は専ら朝に片付け、昼間からは家の中で内職に励む。もしくは村の祭りの支度だ。
夏の半ば、暑さも折り返しという時期に一日だけ、風が強く吹く日がある。未だ雪を被る山から吹き下るその風は嵐とも思うほどの強さだが、しかし不思議と森や村を荒らすことは無く、夏の空気を根こそぎ一新する。その日から数日間は秋を思わせる涼しさを得られる。村の人間はその風が村を抱く山の神の恩寵だと云い、恩寵の風が吹いた次の日に感謝を示す祭りを開く。
その祭りに使う装飾品や食事の仕込みがヘゼルたちの仕事である。
村の女たちが摘んできた香草を、目の細かい網に重ならないように並べる。その上にまた網を敷いて香草を並べ、またその上に網を敷き、それを何度か繰り返す。その網を風通しの良いところで陰干しする。ヘゼルが今やっている仕事はそれだ。祭りの料理に使うだけでなく今後の食卓も彩るための大切な仕事である。夏の気温と香草のむせ返るような匂いに負けじとヘゼルは手を動かす。
その単調な作業の中で浮かぶのは、季節が移り変わる直前に得た、奇妙な出逢いについてだ。
およそ現実とは思えない魔術という存在。星のような混合目を持つラザールドという男。ヘゼルの持つ他人の記憶と合致するそれらは一体何を示唆しているのか。そして、あの創作物めいた戯画。死んだ男の人生とも違うあの映像に、アレンに似た男とラザールドが登場していたのはなぜなのか。
わからないことだらけだ。ヘゼルは目を伏せる。ラザールドの言った『矛盾を強く信じる気持ち』など持てそうもない。自分の思考が死者の記憶と願望に溶け込んで混乱する。
それでもヘゼルは考え続けなければならないのだ。孤独な男の短い人生を無価値なものにしないために、何をどうするべきなのかを。
「……しなくちゃいけない?」
自分の心に何か引っかかるものを感じ、ヘゼルは無意識のうちに疑問をこぼした。
「しなくちゃいけないわけじゃ、ない」
記憶を得た原因は不明。しかし得たからには何か理由がある筈だ。きっとヘゼルにしか成し得ない、確固たる理由が――本当に?
「わたしが、そうしたいだけ……?」
魔術士の卵。ラザールドはヘゼルをそう位置付けた。それが本当ならヘゼルは強く願うだけで何でも手にすることができる。なら、本当は死んだ男なんてどこにも居なくて、生きていくための理由をヘゼルが無意識に願った結果、有りもしない記憶が生まれただけということも有り得てしまう。
ラザールドは魔術を可能性の具現だと言った。どんなに荒唐無稽な記憶だとしても、少しでも有り得るのならそれは形を持つ。誰かが孤独によって死を選ぶ可能性が、それをヘゼルが得る可能性が少しでも有るのなら――有ると願ったのなら、それは実現するのではないのか。
だがそうだと仮定した場合、見たことも聞いたことも無い文明のビジョンはどこから降って湧いたのか。本から影響を受けたわけではない。村に蔵書は少ないし、ヘゼルはまだ文字も碌に読めない。まるきり空想の産物なのか。それにしてはやけに具体的過ぎる。冷蔵庫やクーラー、駅、学校、アスファルト、テレビ、電気水道ガス、それらをゼロから考え付けるわけがない。
――ヘゼルは狂っているのか?
わからない。混乱する。ヘゼルは頭痛を覚え、頭を抱えた。
今よりもっと大人になれば、少しはわかるようになるだろうか。知りたいのは今この瞬間だけれど、少し待てば、年月を重ねて成長すれば、答えに辿り着けるだろうか。
とまっていた手をゆるゆると動かす。集中力はとっくに切れていた。それでもヘゼルがやらなければ他の大勢に迷惑をかけてしまう。そうなればきっと失望されてしまう。孤独の恐ろしさを、ヘゼルはよく知っている。香草を並べ、たまに紛れている他の草を端に寄せ、ひたすら無心に取り組んだ。
そうしているうちに日が傾き、穏やかに夕闇が押し寄せ、ヘゼルの視界も徐々に暗がりに呑まれ――。
――いつか見た白く光る四角形が、取り残されたようにぽつんと目の前に現れた。
風に揺らされる葉のざわめきが遠くから響いてくる。足元のぬかるみは胎動のように波打っている。不安を落ち着けようと息を吸えば、不気味な温もりがヘゼルの肺を満たした。
白い光がただただ目に痛い。瞼を閉じたが、目を逸らすことは許さないとでも言うように瞼の向こうが透けて見えた。
ピッ、ピッ、と軽い音を立てて光が色を変える。そこに浮かぶのは絵ではなく文字だ。ヘゼルはその文字を知らない。それなのに、何が書かれているのかをヘゼルは理解できた。
ステータス。装備。アイテム。その意味を考えるより早く音が鳴り、文字が変わる。ピコン、と違う音が鳴ったとき、文字はその量を増やしズラリと縦に並んだ。
薬草。傷薬。治療薬。ヘゼルの目は文字を追いかける。そうして『眠り草』の文字が浮かんだとき、もう一度ピコンと音が鳴り、光の中には細かい文字と共に絵が現れた。白い花とギザギザした葉の植物が描かれている。
その植物に、ヘゼルは見憶えがあった。
【使用すると確率で単体を眠り状態にする。
とある村では“泣き払い”と呼ばれ、夜泣きする子どもに煎じて飲ませた。】
春から初夏にかけて見かける植物だ。茎や葉は少量で人間を深い眠りにつかせるため慎重に取り扱わなければならない。花にその効能は無く、しかしその濃い香りは甘く安眠を促すためポプリなどに使われることがあると聞いた。
村の皆は、その植物を『泣き払い』と呼んでいる。
また同じだ。ヘゼルは呆然と文字を見つめる。ラザールドと同様に、ヘゼルとこの夢とを結ぶ共通項。
草木のざわめきが近くなった気がした。足元のぬかるみが大きく波打ち、ヘゼルの身体はぐらりと揺れる。
待って、と口を開いたが声が出てこない。どういうことなのか教えてほしい。この夢の価値を、意味を、ヘゼルは知りたい。
ピコン。音が鳴る。新たな文字が浮かんだ。
――使う。はい。いいえ。
ざわめきがすぐ側まで近付いた。
身体が大きく揺すられている。
頭の痛みがじわじわとよみがえり、ヘゼルは呻り声と共にゆっくりと瞼を開いた。
「ヘゼル? 起きて、ヘゼル。起きなさい」
母親の声だ。ヘゼルは何度かまばたきをしてゆるゆると起き上がる。
いつの間にか眠っていたらしい。目の前には香草の並んだ網が広げられたままになっている。鈍く痛む頭に手を添えた。気温は夕暮れと共に落ち着いていたが、ひどく汗ばんでいた。
「ほら、ちゃんと目を醒まして。夜に眠れなくなるでしょ。そろそろ晩ご飯だし、それも片付けなさいね」
「……うん」
元気の無さは寝起きたばかりだからと判断したらしい。頷いたヘゼルの額に張り付いた髪を優しく掻き寄せ、母親は台所へと向かった。心配など一欠片も見せずに微笑んでいた。
明かりの灯された部屋でヘゼルはぼんやりと虚空を眺める。奇怪しな夢だった。今まで思い出してきた記憶とはまるで違う夢だった。ただの夢だと一蹴するにはあまりに志向性がある。ピッ、ピコン、という聞き慣れない音がまだ耳に残っている。
のろのろした動きで片付けを始めたヘゼルだが、不意に視線を一点へと向けた。香草に紛れた他の草が集められた、その一画。
もしかして、と一つひとつ手に取って確認する。多くはよく似た別の植物や単なる雑草だ。それもそうだろう。季節が違うし、そもそもただの夢である筈なのだから。
しかし拾い上げたそれを見て、ヘゼルは愕然とする。
「これ、って……」
白い花こそついていないものの、微かに残る香りと、ギザギザとした特長的な葉。『泣き払い』――否、『眠り草』。
使う。はい。いいえ。ヘゼルの脳裏にあの見たこともない文字が思い浮かぶ。暫し悩んだ末、ヘゼルはキョロキョロと周りを確認し、網に並ぶ香草の中にそっと紛れ込ませた。