3話
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夢とは、脳が記憶の整理をしている際に見える、記憶の断片らしい。
ではこれはどちらの記憶なのだろう。
静かで穏やかな水中を漂うような頼りなさがあった。少しずつ、少しずつ、瞼を開いていくように感覚を広げていく。意識して夢を視ようとするのは初めてだ。
覆い被さるような暗闇の中、ヘゼルはぼんやりと立っていた。ヘゼル自身の視点からは暗闇しか見えないが、たまに俯瞰的に自分が見える。そのときのヘゼルは黒よりも濃い緑の木々に囲まれていた。森の中なのだろうか。
ヘゼルは一歩踏み出した。足元はまるで泥のように不安定だ。離すまいと張り付くぬかるみに、転んだら二度と起き上がれないのではないかと思ってしまう。心臓が縮こまった。これは恐怖からか、それとも焦りか。
ぐるり。場面が変わる。大きな木の前に立っている。目立つのはぽっかりと大口を開けたウロ、その中で何か四角いものが光っていた。ジリジリと燃えるような音を立てながら光は目まぐるしく色を変える。ヘゼルは――いや違う、今の自分はヘゼルではない誰かの視点だ――その四角に近付いた。
光の中でアーモンドグリーンの少年が大粒の涙をこぼしている。
アレンだ。と、ヘゼルは声に出したかもしれない。その行動に弾かれるように、ヘゼルは急速に夢の中から引き上げられる。
待って、まだ目醒めたくない。どうしてアレンが泣いているんだ。どうして、誰か、教えてくれ――。
夢と現実の境目で、四角い光の前に座る誰かの背中を見た気がした。
○
春のうららかな気候は次第に澄んだ暑さを伴っていく。高さを増していくように色濃く変わる空に、ヘゼルは緑の輝きを抱く青の目を細めた。雲も厚いものが増えてきた気がする。ふと耳を傾ければ、春には聴こえなかった虫の音が耳朶を打つ。
ヘゼル六歳の年、季節は夏へと移ろうとしている。
子ども四人の仕事は森へ行き草花を摘んでくるものへと代わった。自然というのは不思議なもので、その時期に必要とされるものが同じ時期にしか芽吹かないことがある。ヘゼル達が探すのはそれだ。
『虫熟し』と呼ばれる植物で、春から夏になるこの短い期間にしか育たない。花や葉だけでなく茎から根、種に至るまで余すところ無く虫除けの薬となる。町では独特の匂いと苦味で嫌煙されがちだが、まさにこれからを乗り切るために必要なものだ。
ヘゼル達の村はほぼ森の中にあり働き手も少ない。大人が一人、厄介な虫に刺されでもしたら、それだけで大打撃を食らってしまう。責任は重大だ。
「あれはねえ、いつもお日さまのいっぱい差すところにあるからね」
鳥の声と木々の緑に囲まれながら、先を進むのはノージだ。ヘゼル達四人の中では一番歳下だが、植物に関してもまた一番だ。父親から借りたつばの広い帽子が落ちないよう両手で押さえながら、時たま上を見つつ歩いている。肩から下げた水筒からは歩く度にチャプチャプと音が聞こえた。
転びそうになると、すぐ後ろのアレンが水筒の紐を引っ張って立たせている。アレンも水筒を下げていたが、ノージと違って両肩に一つずつだ。
「あんまり一人で行っちゃダメよ、ノージ。はぐれちゃったら大変なんだから」
ニッカはノージ相手だとお姉さんぶる。「はあい」素直なノージの返事によろしいと笑顔を返した。
ヘゼルはニッカの隣で黙ってついて行く。二人は、前を行く二人の分の籠も持っていた。重くはないが少々歩きにくい。段々と高くなる気温も堪える。
「……ねえ、わたし、のどかわいたよ」
ヘゼルは一度唾を飲み込んでから声を出した。アレンとノージが振り返る。
ノージはヘゼルを見たが、アレンには一度視線が合った瞬間すぐに逸らされた。ここのところヘゼルはなぜかアレンに避けられている。理由は思い至らない。悲しい気持ちが顔に出るのが自覚できた。
「そうね、あたしもちょっとのどがかわいたかも。ちょっと休憩ね。ほらアレン、水筒ちょうだい」
わざとなのか違うのか、明るい声でニッカはアレンに手を伸ばした。
「もうかよ。だから自分で持てっつっただろ」
「だって肩痛くなるもん、それ」
ヘゼルは水筒を自分で持っている。四人は適当な木陰に座って足を伸ばした。
ごくごくと喉を鳴らすノージが目を丸くして首を傾げた。
「おみず、なんかしょっぱい」
「汗じゃない?」
ヘゼルは何てこと無いように言った。ヘゼルの中にあるとある男の記憶では、運動で汗を流したときは水だけを飲んだら返って身体に悪いと言われていた。塩分、つまりは塩を摂らなければいけないそうだ。そして帽子の影でわかりにくかったが、ノージが真っ赤な顔で汗をかいていることに、ヘゼルは気付いていた。念のためにと森へ出る前に全員の水筒に塩を入れておいて正解だったと胸を撫で下ろす。生憎具体的な量がわからなかったため二摘みほどにしたのだが、しかしやはり味はするらしい。そこは黙って我慢してもらいたい。
時が経つにつれ、ヘゼルは男の記憶をより詳細に思い描くことができるようになっていた。これまでは男の辿った人生で特に強烈に印象に残った場面しかわからなかったが、今では聞いた会話、読んだ本、訪れた場所などもヘゼルの脳裏に浮かぶ。それでも勿論、短いとはいえ一人の人間の人生だ、全部が全部鮮明にわかるわけではない。また他人のものとはいえやはり記憶には違い無く、一度脳裏に浮かべたものを時と共に忘れてしまうこともある。
だがヘゼルには充分だった。抱える寂しさは確かに男を殺したが、四六時中寂しさ虚しさばかりに苛まれていたのではないと知り嬉しかった。それに、男が歩んだ日々を否定するつもりは無いが、どうせならば楽しい思い出のほうが抱える側としても受け入れやすい。
喉を潤した四人は再び森を歩き始めた。ヘゼルはさりげなくノージの隣を陣取る。あまり汗をかくようならもう一度休憩を提案するつもりだったが、ノージはちらちらとヘゼルを気にしながら歩いていたのでその必要は無かった。気配り上手に成長する片鱗を見た。
「あった! あれだ!」
ノージが陽だまりの中を指す。紫色の小さな花が房のように咲いていた。この時期に咲く紫色の花ならほぼ『虫熟し』で間違い無いだろう。
ヘゼル達はしゃがみ込んで採集を始めた。根までが有用なため手で慎重に地面を掘り返さなければならない。それぞれが作業に集中し、自然と口数は少なくなる。さわさわと風で揺れる葉の音と、遠くで語り合う鳥の声が四人の沈黙を心地良く守っていた。
だからヘゼルが揺らぎに気付いたのは、きっと幸運だったのだろう。
空気が波のように揺れる、音の無い音――耳鳴りのように聴覚に響いた無音、その奇妙な感覚に、ヘゼルは土に汚れた手を払って顔を上げた。他の三人は何かを感じた様子も無く採集に勤しんでいる。
ヘゼルは薄ら寒いものを覚え、思わず周りを見回した。気の所為ならそれで良い。取るに足らない、ほんの錯覚であるならそれに越したことは無い。
だがヘゼルは自分の肌がぞわりと粟立つのを感じた。まるで夜の形無き暗闇に寄り添われているような、得体の知れない何かと隣接しているような恐怖。心を締め付ける不安がのどを乾かせ鼓動を速める。
そうして再び耳に響く無音が――他に聞こえる何もかもを押しのけて脳を捉える感覚が――ヘゼルには、奪われた誰かを探して叫ぶ、力無き人間の慟哭に思えた。
おそろしくはあった。身動きするだけでこんなにも怯えるのは初めてだ。それでもヘゼルは立ち上がらなくてはいけないと感じた。
聞かせるつもりの無い声を上げた誰かは、きっと記憶の中の男と同じだ。
寂しくて悲しくてどうにもならなくて後悔と孤独に泣き喚き、自分を殺してしまったあの男と同じだ。
――あの人がまた死んでしまう。
ヘゼルはゆっくりと立ち上がる。竦む心を抑え付けての行動だったが、それが他三人の集中を乱すことは無かった。悪いことをしているような罪悪感を覚える。それでもヘゼルは音を立てないようにその場を離れた。一度振り返ってみたが、誰も気付いていなかった。
隠れるように木陰を移動し、慎重に茂みを掻き分ける。森は深くなるが陽の光は届いている。聴覚だけを揺るがす叫びは聴こえなくなったが、しかしヘゼルは迷い無く足を進めた。何故か近付いているという確信があった。
近くに居る筈だ。ヘゼルにはわかる。
だって彼らは気付いてほしいのだから。誰かと触れ合うことが苦痛で、遠ざけて、一人でうずくまって。それでも完全に他者を拒絶しているわけではなく、手を差し伸べたり寄り添ったりしてくれる誰かを求めて視線を集めたがる。
そして誰にも見向きもされなかったら、そんなもの初めから望んでいないと虚勢を張って、傷付いた心で涙するのだ。
はたして――彼はそこに居た。
その佇まいは年端のいかない子どものようにも、年月を重ねた大人のようにも見えた。葉の多く茂った木の下に、膝を抱えるように座り込んでいた。灰色のローブは表情を隠していたが、突然現れたヘゼルを見るその目は夜空に輝く星のように、黄色の中に橙色がまたたいている。ヘゼルの青と緑の目とは違うが、彼もまた混合目だ。稀に見るとは言え混合目が産まれる確率は生物学的に低い。ヘゼルは自分以外でその目を見たのは初めてだった。
「君は……」
あどけない顔に合わない、低く掠れた声だった。
あの、えっと、とヘゼルは言葉を詰まらせる。衝動に突き動かされたのでこれからどうするかを考えていなかった。うまく説明もできそうにない。
「声が、聞こえた気が、して」
嘘は吐いていないが、ヘゼルは真っ直ぐに前を向くことができなかった。
「声、なんて。そんな」
星の目の彼に信じられないものを見るように言われた。ヘゼルも自分のことが若干信じられない。気の所為と片付けられるほど根拠の無い不思議な出来事。それに突き動かされた自分。行動力は無いほうだったのだが。
それでも動くと決めたのはヘゼルだし、動かしたのはあの無音の慟哭だ。ヘゼルは恐る恐る口を開いた。
「泣いて……叫んでいたのは、あなたですか?」
狼狽たように星の目が揺れた。ぐわりと見開かれたそれは心底驚いたと言わんばかりだ。薄く開いた口からは声も出ない。彼の身じろぎでローブから長い白銀の髪が覗いた。その鮮やかさに、ヘゼルも小さく息をのむ。
彼は、気を抜けば泣いてしまうのではないかと思うくらいにその混合目を潤ませた。
「ああ、我らが親しき神! 卑しき僕になんということを……!」
挙げた神の名に憶えは無かった。しかし頭を抱えた彼がいよいよ死んでしまいそうに思えて、ヘゼルはそちらのほうに焦った。
「だ、大丈夫、ですか」
「……平気だ。うん、平気だとも。すまないね、私は大丈夫だよ」
顔を上げた彼は力無く微笑んだ。その表情を見て、ヘゼルは彼に大丈夫と言わせてしまったことを悔やんだ。痛みに耐える顔だった。嘘だと丸わかりだ。
「わたし、ヘゼルといいます」
話を逸らすようにヘゼルは名乗った。謝罪は見当違いだとわかっていた。
「この近くの村に住んでます。今はちょっと欲しいものがあって、友達と来てました。そのときに、声……みたいなものが聞こえて」
「みたいなもの、ね。それは間違い無く私の声だろう。……君は良い耳をしている」
そういうことにしておこう――と、彼は呟いた気がした。首を傾げるヘゼルに、何でもないように名前を名乗った。
「私はラール。旅の吟遊詩人、といったところかな」
吟遊詩人とは、言葉と音楽によって世界各地の伝説や物語を語り聞かせる人々を言う。彼らは多くが流浪の民で一つ所に定住することは滅多に無い。町の酒場で吟遊詩人から聞いたという話を村の大人が語ったこともあったが、歳上の男の記憶を得る前だったからか、話し手の技量が拙かったからか、ヘゼルはさほど興味を持てなかった。
ラールは吟遊詩人として旅をしながら人を探しているらしい。今は近くの村に身を寄せており、そこで探し人を見たという情報を得てこの森に来たそうだ。しかし成果は無く、今度こそはと期待していただけに落差もひどかった。そうして思わず叫んだ心の声を聞き届けたのがヘゼルだと言う。
「その耳の良さはこの森で育ったからかな」
親しげに話しかけてくるラールはそれ以上の踏み込みを拒んでいるように思えた。やわらかな表情、しかし星のように煌めく混合目だけが笑っていない。
その目に映る自分の色がなだらかに溶けていく。さわさわと揺れる木の葉の音が遠ざかったような気がした。汗ばんだ額を撫でる風の感覚が薄れ、身体の輪郭がゆるゆると曖昧になる。ヘゼルは自分がいま呼吸をしているのかすら知覚できない。驚きと、大きな不安が押し寄せた。
意識を失いかけている。一体どうして。
「予想外だったけれど、良い出逢いだったと思いたいものだ」
水面に広がる波紋のように、ラールの低く掠れた声が頭に響く。この声の所為だ。ラールの声がこの不調を引き起こしている。根拠は無いが、ヘゼルにはそう感じた。
ヘゼルは崩れそうになる足を無理矢理に一歩前へ出した。糸の切れた操り人形のように、がくん、と頭が落ちる。視界が端から暗くなっていく。それはまるでゆるやかな眠りに落ちるように。おだやかな夢を視るように。心地良い微睡みに包まれるように。
声が、落ちてくる。
「それじゃあおやすみ、ヘゼルちゃん」
――夢を視ている。
――ジリ、ジリ、虫の羽音のようなものが耳の奥から聴こえた。目の前で白い光が瞬いた。
――四角いものが見える。その中で小さな人間の絵が動いている。アーモンドグリーンの髪の男性と、空に透けた雲のような薄い水色の髪の少女。
――彼らと対峙する、灰色のローブを着た人間。先端に水晶のようなものがついた杖を持っている。動いた拍子に見えた髪の色は、白銀。
――閲覧者は大きく動揺した。息を吸い込む。肺が膨らむのを感じた。指先までの輪郭をはっきり取り戻す。自分の黒髪が風に揺られている。しっかりと見える。自分の足で立って顔を上げてこの目で見ている。
白銀の髪。星の瞳。白夜をその身で表しているような人間が自分と相対している、この感覚すべてを受け入れる。受け入れることには慣れている。
「――どうして」
そう呟いたのはラールか、それともヘゼルか。
先程までの不調は消えていた。狼狽え身じろいだラールのローブが風に煽られる。胸元に水晶のような球体が下げられているのが見えた。
やっぱりそうだ。どういうことだ。ヘゼルは動揺を隠しきれない大声を上げた。
「あなた、まるで同じじゃないか!」
男の記憶を思い返し、違う世界だと感じた。生き方も環境も何もかもが違ったからだ。それなのにヘゼルと男、二人に共通する人間がここに居る。『共通』だ。似ているなんて言葉では済まされない。
ひゅ、とラールが息を呑んだ。その目でヘゼルを見て一度大きく震える。
「……まさか」
呟き膝をついた。震える手でフードを脱いだ。長い髪がさらりと揺れた。ヘゼルと目線が合う。やはりそうだ、何度見ても記憶の中の映像と同じだ。ヘゼルとはまるで違う世界で短い人生を終えた、孤独な男の記憶。これは一体どういうことだろう。
ラールは「まさか」ともう一度口を動かした。
「君も、魔術を使うのかい?」
ヘゼルは言葉を詰まらせる。君も魔術を使うのか、とはつまり――何のことだ。
「驚いた……その目を見てまさかとは思ったけれど」
混乱している頭にさらに混乱を与えられ、ヘゼルは目を白黒させる。『まじゅつ』とは何だ。初めて聞いた。というか、ヘゼルの自前の、青と緑の混合目がどうしたというのだ。男の記憶を得る前は綺麗さと希少さに優越感を覚えていたが、『厨ニ病』という存在を知った今では恥ずかしくてあまり見せびらかしたくない。創作物の中でしか許されない容姿だ。知り合いの髪色も似たようなものだが。
「本当に、君も魔術士だったなんて」
なんのことだ、と声に出しそうになったが、ラールの様子があまりに真剣だったので口を噤んだ。
それにしてもまるでヘゼルが『まじゅつし』とやらと同じのように言う。理解が追いつかない。
「本当に我らが神は、謙虚な僕に思いも寄らないものを与えてくださる」
しかしヘゼルは一つだけ確信した。
「すまないヘゼル、改めて名乗ろう。私はラザールド。君と同じ、無から有を産み有を無に還す者――魔術士だ」
ラール――ラザールドは、何かを誤解している。