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夜の森のヘゼル  作者: 文字野
一章 平民ヘゼル
2/8

2話

 

 涙は朝食を食べ終わったら止まっていた。温かい麦粥を飲み込んで、ヘゼルはほっと息を()く。

 両親は何があったのかを深く尋ねなかった。穏やかに微笑む表情に込められた優しさがヘゼルの腹を満たした。少し前向きになれた。今日も一日、これからも毎日、頑張っていこう。


 ヘゼルの住む村は、名前も無い小さな山村だ。夏は厳しい暑さに、冬は芯まで凍る寒さに襲われる田舎の村。ところどころ、例えば村長の家の柱などに、古ぼけてはいるが細やかな装飾が施されているのを見ると、昔はもっと賑やかで栄えた町であったのだろう。しかし今では宿屋も無ければ道具屋も無い。生活用品はほぼ自給自足。どこかの家から借りたり貸したり、どうしても入り用な物があれば馬で少し離れた町まで買い出しに行く。山の澄んだ水は動植物を豊かに成長させ、村人はそれらの一端を頂戴して生活している。

 およそ自分とは違う生活水準だった男の記憶を得た今でも、ヘゼルはその生活を嫌ってはいない。畑を耕し、木を切り、山や森を育み、自然に寄り添いながら生きている。常に命を感じながら生きていけることはとても贅沢だろう。そのおかげで他人との結びつきだって強い。孤独になることはいっそ難しい。


「ヘゼル、枝切りを頼む」


 大人の男達は朝に森へ出て木を切り、太陽が高く昇りきる前に帰ってくる。ガタガタと車輪を鳴らす台車に括り付けられた木を降ろし、一息ついて汗を拭う大人達に、ヘゼルは「はあい」と返事をした。隙間風の吹き込む木製の小屋から小さめの鉈を取って来て軽く素振りをする。

 村に若者は少ない。子どもも貴重な労働力であるから、子ども用として誂えた農具がいくつかある。鉈だけでなく鍬や鋤もヘゼルは立派に扱える。台車は単なる筋力不足で引けないが、大きくなったら絶対に引いてみせると息巻いていた。

 大人達の置いた木に跨り、慣れた手つきで鉈を振り下ろしていく。太い枝は大雑把に落とされていた。ヘゼルの役目は残った枝を綺麗に切り落としていくことである。

 ヘゼルにできること、やるべきことは多い。それをこなさなければ生活は苦しくなる。今日の働きが明日の命を支えるのだ。

 記憶の中の男の世界はそうではなかった。いや、きっと同じだったろうが、そう実感することが難しい世界だった。安寧の中に横たわるだけで生きていけた。ヘゼルはそれを羨ましく思うが、同時に可哀想だとも思っていた。

 確かに便利で豊かな世界だった。人間の姿もそう変わりは無い。それでもこの村に生きていたら、あんな寂しさに喘ぐことも無かったろうに。


 ――ら、ら、ら……。

 記憶を思い返しながら作業していたからだろうか、ヘゼルは無意識のうちに聴いたこともない歌を口ずさんでいた。孤独に溺れた男が他人からの共感が欲しいときに聴いていた歌。前向きな歌詞ではない。寂しい気持ちを訥々と語っていくだけの、孤独を確認するための歌。それでも男は慰められていた。

 伸びやかな高音はしかし静かに、途切れ途切れに紡がれる。記憶を辿りながら一音ずつ、噛み締めるようにうたう子どもの(つたな)い様は、切々と訴えてくるものがあった。


「なんだその歌? 初めて聴いたな」


 ヘゼルと同じく作業をしていた大人の一人が顔を上げた。その表情は不思議そうであり、しかしどこか不安げに眉を寄せている。ヘゼルが唄うところすら初めて聴いたのだ。それが鬱々とした曲調なら尚更気になる。いつも黙々と集中していた、あのヘゼルが。

 ヘゼルは何と言おうか迷ったが、正直に言ったところで笑われるだけだろう。正直に話すことへの気恥ずかしさもある。困ったようにゆるりと微笑んだ。


「……夢の中で、聴いたの」


 言葉にすれば鮮やかに残る記憶が本当に単なる夢のように思えて安心する。ヘゼルはもう二度三度「夢の中で」と繰り返した。

 その大人びた微笑みが。

 耳にした物悲しい調べが。

 浮かされたような喋り方が。

 ヘゼルの様子を見た大人達に「いつもと違う」と印象付けたなど、本人は知らない。


 ヘゼルは元々おとなしい子だった。

 だからと言って自己主張が弱いわけではなく、言いたいことやりたいことがあれば進んで手を挙げる。他の子どもの悪戯に乗ることもある。周囲への迷惑は一応考えるが、考えが足りず被害が広がった場合もあった。普通の子どもだった。だが他の子どもに比べて、ヘゼルは『待て』が少し上手だったのだ。必要以上に動き回らないヘゼルは大人からすれば随分おとなしいと言えた。

 そんなヘゼルの中に二十四年生きた孤独な男の記憶が入り込んだことで、今まで生きてきたヘゼルとしての行動が僅かに変化していた。生きた年数は記憶のほうが上だ、六歳のヘゼルに釣られるなと言うのも酷だろう。だがその記憶が何のきっかけも無く与えられたため周囲にはヘゼルの様子が突然変わったようにしか見えない。


「本当に、夢だったらいいのにねえ」


 およそ六歳とは思えない憐れみの表情は、ヘゼルが顔を伏せたため誰に見られることも無かった。

 しかし徐々に、徐々に、ヘゼルの認識は周囲の人間とずれていく。



 村にはヘゼル含み四人の子どもが居る。


 一人は、アレン。ヘゼルの一つ上の七歳。何でも知りたがる好奇心旺盛な男の子。アーモンドグリーンの髪は母親譲りの天然パーマで、目の色も母親と同じ茶色。子ども達のリーダーだ。

 もう一人は、ニッカ。ヘゼルと同い年の六歳。青い目をキッと吊り上げた気の強い女の子。しかしさらさらの金髪の手入れを欠かさないおしゃまな面もある。

 残る一人は、ノージ。数えで四歳になる。草花が好きなのんびりとした男の子。金の髪はニッカよりも色が濃く、緑の瞳はいつも穏やかに下げられている。

 彼等は時間が空いたらいつも四人で森へと遊びに行っていた。木の枝を振り回しながら一人で進むアレンをニッカが怒りながら追いかけ、野花や蝶に釣られてふらりと道を外れるノージをヘゼルが捕まえる。


 しかし、その日は違った。


「……ヘゼル? ヘゼル!」


 声をかける誰かの声など気にならない。ざわざわと風に揺れる木々の葉を見上げ、薮を眺め、野花に顔を寄せ、ヘゼルは熱の込もった溜め息を吐いた。


 ――森というものはこんなにも瑞々しかっただろうか!

 どこまでも広がっていくような開放感、それでいて常に生きているモノに包まれている安心感。草の匂い、木肌の手触り、花の色は、こんなにも鮮やかだったろうか。ヘゼルの混合(青と緑の)目に映る全てが輝いているようだ。


「おい、ヘゼル!」


 アレンに腕を引かれ、ヘゼルはようやく足を留めた。遠くに二人の名前を呼ぶニッカとノージが見える。いつの間にか走り出していたらしい。呼吸が苦しい。それでもヘゼルは胸の奥から湧き上がるような感情を覚えた。


「楽しい。どうしようアレン、わたしこんなに楽しいんだ!」


「はあ? 何のことだよ」


 アレンがたじろいで手を離す。昨日までのヘゼルとは違う。今のヘゼルは、まるで初めて森を見た(・・・・・・・)かのようだ。


「今日のお前、ちょっと変だぞ」


 はっきりと指摘できるのはアレンの美点だ。変化に気付いてくれるところも同じく。

 ニッカとノージが追いついた。三人の心配そうな眼差しを受けて、ヘゼルは――その記憶の中の男は――喜びに騒ぐ心臓を押さえつけるように「ああ!」と声を上げた。

 自分(・・)を心配してくれる人間がこれほど居ただろうか。勝手に進んだ自分を追いかけてくれる人間が居ただろうか。それがどんなに得難く、尊いことか、今のヘゼルは知っている。


 ああ、嗚呼、わたしはなんて恵まれているんだろう!


 感情を抑えようとしても堪えきれず胸を掻き抱く。しあわせが自分の周りにありふれていることに、ヘゼルはどうしようもないほど叫びたくなった。六歳のヘゼルには感情の殺し方などわからない。

 ヘゼルの心中を知らない三人は揃って顔を見合わせる。「ヘゼル、」名前を呼びながらニッカが一歩近付いた。


「ねえヘゼル、何か悲しいことでもあったの?」


 首を大きく横に振る。黒髪が頰を叩いた。


「わたしじゃないよ。わたしは全然悲しくない」


「そう……?」


 ニッカは納得いかないと言いたげに首を傾げた。ノージはオロオロと三人を見回している。アレンは、どこか怒ったように固く口を結んでいた。

 黙って享受してきた幸福を改めて目の当たりにして、ヘゼルは頰を薔薇色に染めた。


「ありがとう。わたしは大丈夫だよ。……ありがとうね」



 ――お前はお兄ちゃんなんだから。


 アレンはいつもそう言い聞かされていた。村の子どもの中で一番歳上なのだから、あまり泣かないように。我儘を言わないように。大人をよく手伝うように。ほら、みんなお前を見ているのだから。

 初めこそ嫌でたまらなかった『お兄ちゃん』の称号は、しかし日々が過ぎていく(ごと)に段々と馴染んできた。ノージが一人で歩き考えるようになる頃にはすっかりアレンの誇りになっていた。


 アレンは泣かない。我儘も言わないし、大人の手伝いだって進んで行う。子ども四人の中では誰よりも上手に枝を落とせるし、手先の器用さだって一番だ。大人用の小刀を危なげなく使い、端材でつくった箱や食器類に職人さながらに装飾も施せる。それらは町でだってそこそこの値段で売れるのだ。アレンは自分が皆から褒められるような『お兄ちゃん』であると、そう胸を張れると思っている。


 だからこそヘゼルの言葉に、自分ではどうしようもできない深み(・・)があることに愕然とした。

 何が大丈夫なものか。明らかにヘゼルはおかしい。昨日まではいつものヘゼルだった、それから今に至るまでの数時間に何があったのだろう。

 それに――そうだ、誰かが言っていた。今朝ヘゼルは大きな声で泣いていたらしいじゃないか。何かあった筈なんだ。

 自分の手など届きようもない、何かが。


 ニッカとノージはぎこちなくも笑いかけ今までのようにヘゼルと接している。そんな態度、アレンにはまだ取れそうも無い。


 アレンは今日までのヘゼルを忘れない。そして今日からのヘゼルのことも忘れないだろう。

 木の枝を振り回して背後の三人を護った気になっていた『お兄ちゃん』な自分を、所詮子どもなのだとせせら笑われたようだった。

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