#8 里子
いまだにミンミンゼミが鳴き止まないのは、いかがなものだろうか?
中里里子は、裁定委員会に貸し出されているオフィス代わりの会議室の一室にいた。目の前……窓の脇には、とある女性が立っている。彼女はアルミブラインドの隙間から、真夏の陽射しに目を細めつつ、外の風景を眺めていた。
「紗基、うまくやったって?」
「ええ、鶴野さん……元上司としては、気になるのかしら?」
こういう冗談に付き合うタイプではないらしいが、さりとて怒りなどの感情を見せるわけでもなく「そんなところね」と軽く流した。
「仕事の出来は上々だったわ。参考資本を返さない追求者を追撃、見事に仕留めて捕縛したわ。しかも一人でね」
「報告書は読んだわ。まったくあの追求者、ずいぶんと上等な狩人にやられたものね。勿体ないわ」
既に異動した人間であろうと、その評価は正当に――それは自分の元から去った部下に対する、鶴野温実なりの礼儀なのだろうか?
「八角さんが言ってたわよ。『こんな仕事させるのは、私を潰そうとしてる鶴野課長の思惑なんじゃないか』ってね」
口調から声音まで真似た里子の言い回しに、温実は失笑した。
「恩知らずな娘ね。ま、そのくらい捻くれてる方が、あの娘らしいけど」
「らしい?」
室内に視線を戻すと、温実は里子に目線を合わせた。話の内容は、それほど固い内容ではないというのに、それでも射竦められると威圧されているような気分になる。これが鶴野温実という人物なのだろう。
「紗基って、割と突っ走るでしょ? 個人で別々の力を持っていながら、組織の歯車として動かないといけない実働部向きじゃないわ」
里子はつい問いただす。
「ということは十六課は……」
「ええ。一番向いてないでしょうね」
にべもなく、鶴野温実は元部下の適正を最悪と評価した。
「呆れたわ。そんな子をどうして十六課に引き入れて、追い出したのよ……意地悪?」
「勘違いしないでよ、紗基ならどこの課にいても同じことだったんだから。だからこうして、あの娘らしい居場所を提供してやったのよ、自分の力だけで気づくとは思えなかったからね」
ワザと失敗させたという事か……まったく腹黒い女である。だが、その失敗させた理由が己や組織の都合でなく、紗基を考えての事となると疑問符が付く。
「そこまで手塩をかける理由があるの?」
「裁定委員会は、私という追求者を一人の裁定員として扱ってるわ……私も、それで問題ないから了承してる。けど気づいてない紗基みたいな子には、そういう自分がいるべき立場を明確にしてあげてもいいでしょう?」
あるいは鶴野温実は裁定員だが、『解創の繁栄』という解創を抱く、一人の追求者なのだとしたら……八角紗基を導くというのも、そのための過程としての解創なのかもしれない。
「自分勝手なスタンドプレーに走る八角さんを、重要な部から追い出したって事?」
温実は首を振る。
「組織に従順な個人ってのも、それはそれで美しいものだけど……そんな生真面目な人間、そうそういないわ。大抵の人間ってのは、自分の都合と組織の規律に折り合いをつけて、のうのうと集団の一員として在り続けてるだけ。けど紗基は違うわ。あの子、弱いくせに、そういう我儘だけは押し通せるから」
まるで意図が分からないセリフに、思わず里子は苛立って詳細な説明を要求する。
「どういうことよ?」
「上宮家の時、紗基ったら上宮孝治に突撃していったのよ? 普通の奴らなら『実力的に無理だから』って応援を呼ぶでしょうに」
「ただ馬鹿なんじゃなくて?」
「まさか。あの子は、そういうところは獣みたいに敏感よ。それができてなお、挑んでいったのは、求めてたからよ。私が十六課の一員に、紗基を選んだ理由を……ね。より良い功績をあげれば、何か分かるんじゃないかって考えたんでしょう……仕事を通して己の価値を求道する……まったく可愛い子よね」
求道という言葉は、真理を追求するという意味だ。それを己の価値という言葉に対して使うのは――それが追求者という生き物ゆえの業なのか。
「可愛いから助けたの?」
「まさか。あの子がスタンドプレーで、結果的に良い成績を上げられればよし、できなければ、こうして切るだけ」
「ひどい言いようね。八角さんが独走するように誘導したんでしょう? あなた」
「否定はしないわ。けどその道を選んだのも紗基よ。私も紗基も、互いの目的のために、互いを利用したまで。互いを貶めようとは思ってないわ」
随分な言い草だ。自分が嵌めたくせに、責任は一方的に紗基に押し付けているのと違わない。だが里子は内容は理解したので、少し付き合ってやる。
「組織に従う個人ではなく、自分の都合のために組織を使う個人であるという事?」
「ええ……もっと正確に言うなら『自分の都合のために組織を使い潰せる人間』よ。あの子はそういう子。たんに自分の為に動くんじゃなくて、あくまで組織に準じるフリをするってことよ」
「けど結局、八角さんは失敗したじゃない。それで準じるフリが出来てるって言えるの?」
痛いところを突かれたかのように温実は目を伏せるが、言葉を濁したりはせず、いけしゃあしゃあと言ってのける。
「間違ってたら「ごめんなさい」って謝ればいいでしょう? 紗基のやり方は、失敗したからこそ損になったけど、成功してたら組織の利となる行為であったことには、間違いないんだから。問題は、結果が伴ったか、伴わなかったか。そこだけよ」
温実は椅子に座ると、道化を見た時のような、愛玩動物を見た時のような、はたまた悪戯を仕掛ける悪童のような――なんともつかない、妙な表情を浮かべた。
「反感を買うのを意に介さず、組織に準じることを本意として是としながら、個人のために行動するのは――それは、健全な悪意よ」
その言葉は、一組織の人間として、里子の胸に突き刺さる。
組織に準じることを不本意ながら是とし、組織のための行動をする我々は、邪悪な善意に塗れているのだろう――と。
これにてエピソード集1話完です
次回からは「ひれ欠けた鯉の滝登り ~上宮家■■編~」の続編にあたる、
「ひれ欠けた鯉の滝登り ~『使い「手」』編~」が始まります。
エピソード集の第2話は『使い「手」』編完結後に投稿する予定です。
それでは。