#2 紗基
その女は、生真面目そうな女だった。眼鏡と鋭い目付き、それに尖った顎は、まるで絵に描いたようである。人事部の人間で、中里里子というらしい。見た目の年齢は三十代手前くらいだ。
「あなたね、十六課でヘマして左遷された裁定員って」
出会って開口一番が皮肉。紗基は辟易せざるを得なかった。
「なに? どういう意味?」
「悪ガキっぽいツラしてるもの」
「うるさい」
少女――八角紗基は掠れた声で吐き捨てた。
よく勘違いされるが、茶色の髪は地毛で、遺伝によるものだ。太いとよく言われる眉毛、中性的な顔立ちとショートカットの髪型から、私服だと同年代から少し下の男子と間違われる事もしばしばある。だが本人は気にしていないので眉毛を整えたり髪を伸ばしたりはしない。里子に悪ガキのようと言われた由縁もそこにある。
「とりあえず車に乗って」
里子は後部座席のドアを開けた。
「……ってわけなのよ。まったく酷いと思わない? こっちは組織のために必死に頑張ってるのに、上の人間ったら文句ばっかりで一言も褒めやしないのよ? だからこっちも言い返してやったのよ。『上司さんだったら、事を荒立てずに解決できるんですか?』ってね。そしたら黙りこくってね、その上司――って、どうしたの?」
紗基の溜め息を聞いて、里子は長々とした喋りを中断した。再び紗基は溜め息をついて、視線を前から横の窓に移す。車の助手席に座るのは、久しぶりのことだった。
「出会って二十分も経ってないのに、愚痴を聞かされるハメになるとは思わなかった」
「あなただって、ココに不満が無いわけじゃないでしょ? 紗基」
「その呼び方、やめてくれない?」
紗基は心底いやそうな声で言った。
「嫌なの?」
「ええ。苗字で呼んで」
「そう……八角さん、でいいの?」
「ええ」
苗字の距離感は心地よかった。名前で呼ばれると、鶴野課長を思い出すので嫌だった。
「じゃあ、状況を説明するわね」
紗基は思ってもみない――こうした車中での会話が、これからの日常になるなんて。
「裁定委員会の仕事でポピュラーなのは、『追求者や解創者が、解創を一般に漏らす事をしていれば裁定する』ってのだけど……もう一つあるのを知ってる?」
そもそも裁定委員会の目的は『解創の維持と発展』だ。追求者の裁定は、そのための具体的な方法の一つでしかない。
「解創の発展……追求者の教育でしょう?」
紗基の回答に対して、里子は「正解よ」と頷く。
「その中には、追求者の作成物の貸与や譲渡というものがあるの。追求者……提供者は裁定委員会に作成した解創の道具を渡す……この道具は『参考資本』という言い方をするわ。委員会は希望者……別の追求者に、参考資本を料金付きで貸与する。委員会は手数料をもらい、差っ引いた分を、提供者はもらえる」
割のいい仕事だと思うかもしれないが、貸与を希望する者はそれほど多くないので、それだけで稼いで生活するのは簡単ではない。
「知ってるわ。追求者個人は、委員会を介さない貸与もしてるっぽいわね」
紗基が言ったのは、追求者同士で道具を貸与して、互いの追求の材料にするという話だった。だが、それには一つ問題が伴う。手数料を差っ引かれない分、利益なども多いが、トラブルの処理は、すべて当人たちが行わなければならない。
「で? 派遣代理人の仕事は?」
人事部派遣代理課の派遣代理人。それが八角紗基に与えられた新たな肩書だった。
本来、派遣代理人というのは、裁定委員会に実力を買われた解創者――道具でなく、自分自身に解創を刻んだ者――が勤めるのだが、紗基は特別だった。それは良い意味ではなく、悪い意味で。
派遣代理人と裁定員の大きな違いは、個人か、それとも組織の一員か、という点だ。つまり厳密に言うと今の紗基は『裁定委員会の人間』ではなく『裁定委員会に協力する人間』に格落ちしている。人事部派遣代理課の派遣代理人という言い方をするのは、派遣代理人は、裁定委員会に所属こそしていないが、事実上、人事部派遣代理課の専属になるからだ。
「今回の依頼は資材管理部から。貸与期間を過ぎているんだけど、いまだに返還されてない参考資本があるのよ」
何かと難しい言い方をする。他人の認識だというのに、気に食わない紗基はそれを訂正してしまう。
「ふん。ようは、借りパクされたってことでしょ?」
歯に物着せぬ紗基の言いように、里子が苦笑いを浮かべた。
「パクられたと決まったわけじゃないわ。向こうが謝ったら、延滞料を請求するだけよ」
ようはレンタルビデオ屋の取り立てと一緒である。実働部で活動経験のある元裁定員にとって、こんな仕事を押し付けられるのは屈辱に等しい。
「そのつもりなら、実働部を動かした方が良かったんじゃない? 変にスマートに済まそうとするより、大勢で押しかけた方が、結果として手早く片付く」
「委員会だって大盤振る舞いってわけじゃないのよ? 人件費削減は急務」
「その割には、十六課の会議室で使ってたソファ、高そうな皮製だったけど」
「昔に買ったんだろうから、減価償却で五十パーセントオフってところかしらね」
愚痴っぽいだけでなく冗談にも柔軟に応じてくる。この女はお喋りの好きな性質らしい。
「ところで、前にいた十六課、相当ヤバいことしたらしいじゃない? すごい成果だったって、上層部の間で話題になってたわ」
「上層部で話題になってたって、なんで末端のあなたが知ってるのよ?」
「それは秘密」
飄々と受け流した里子に不満を漏らすように、紗基は、ふん、と鼻を鳴らした。
自動車の振動が心地いい。次第に、紗基は眠たくなってきた。思考は乱れ、夢見心地で近況が反芻される。
紗基は、優れた裁定員ではなかった。体格は小柄で、特別な得意分野があったわけではない。
だというのに、鶴野温実――裁定委員会きっての逸材――を課長とした第十六課、その一員として抜擢された。全てのメンバーは推薦ではなく、課長が直々に選んだというから、温実が紗基を選んだのにも理由があるはずだ。
だが、紗基は決して「なぜ自分を選んだんですか?」とは漏らさなかった。それが危険なことのような気がしたからだ。自分が課長に、いったい何を期待されているのかは、察せられなかった。
なぜ、自分だったのか?
疑問は湧いたし、答えも欲した。だが辿り着けなかった。それでも課長の指示には従い、力を身に付けた。
追求者に対抗するため、裁定員には解創の道具を作ったり使ったりする力が求められる。そして十六課は、その身に着ける力が、他と少々違った。他の課は、個人の追求のしやすさを優先するが、十六課は最初に皆で同じ目的を掲げ、そこに達するまでの過程だけを個人によって変えるという方針を取った。手段は違えど同じ結果を出せるという――ある種の大量生産の試験を兼ねていた。
紗基も同様に解創の道具と、それを使う力を手に入れた。『火成り』という、およそ試験的ではあるが、汎用性が高い解創。
そしてある作戦に臨み、紗基だけ失敗した。
あの状況で、どう判断するべきかは迷ったが――紗基は断行して、見事に返り討ちに合うという失態を犯した。解創は使えても、作戦事態でしくじったのでは、意味がない。
それは自分のミスだった――そう思う一方で、こうも思う。
自分のミスの原因は自覚しているが――果たしてそれを、事前に鶴野温実が予測できなかったのだろうか、とも。