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苦手な方はご注意ください。

調査船「日鷹丸」襲撃事件

作者: 林盃癸

 ―月は傾くヨ、潮は光るヨ。中を乗り切るヨ、快鷹丸そかヨ。(快鷹丸殉難歌)


 カーム、海況は0。(※1)かさの掛かった満月に照らされて、重油を撒いたかのような漆黒の海は白銀に光る。舷側に目をやれば、ただ本船の走るせいでかき回された水面が周期の長いうねりを遠くへ遠くへと送るのが見えるだけである。

「明日の朝は、恐らくスコールになりますよ。」

「ええ、海峡通過時にちょうど当たりますから厄介ですね。」

 女性士官と甲板員が気象海象の見立てを行っている。

「オートパイロット、コースワンツーゼロ(オートパイロット、進路120。)」

「コースワンツーゼロセットサー。」

 梅浜操舵手が復唱しコースをプリセットすると、船体はわずかに傾き、ガッコンガッコンとジャイロコンパスの回る音が艦橋内に響き渡る。

「コースワンツーゼロサー。オートパイロット追従しています。」

 梅浜がそう告げると同時に船の傾きは元に戻った。

「はい。」

 当直士官、三等(サード)航海士(オフィサー)(当時)の井上豊海は舵が中立になったのを確認し、レーダー画面から離れチャートテーブルへと向き直った。

「ちゃんと実効もコースに乗ってますね。変針点到達予定のヌーンまではこのまま行きましょう。君達、裏で休憩しなさい。前見とくから。セイロンの紅茶水筒に入っていますよ。」艦橋に6名ほど詰めている見習い予備員が、三航士の一言によって「見張り員、離れます。」の言葉を残し次々と見張りから離脱していった。


 「あの子達を見ていると、私が学生だった頃を思い出します。あの頃はまだ今の彼らを担任している山谷先生が三航士でした。今でもそうだけどその頃から男前でしたわ。」若干頬を染めながら豊海は言う。

 当直士官が交代する0000まで、ただ毎時00分に風向風速と気圧、気象海象 をログブックに書き込むのみで、全く課業らしい課業がない。そのため、専ら艦橋はボースンと水産高校上がりの甲板部員が繰り出すキャバレーに行ったという下世話な会話とチョウジのきついグダン・ガラムの紫煙に満ちている。女の面前でこれらの行為は御法度と されているが、この世界は長く女人禁制であったため、きわめて大らかである。豊海自身も最近になってようやく年頃の男性は仕方ないと割り切れるようになってきた。酒も煙草も飲まないので、大好きなくろがね羊羹(※2)と八女茶(※3)を頂きながらレーダ画面を眺めていた。こんな航海が延々と続けばいいのにと不意につぶやく。

 


 平成九年十月二十五日、明朝0800、船は、マラッカ海峡西端入口、ワンファザムバンク灯台に差しかかろうとしていた。折からの予想通りのゼロ視界。ただレーダー画面を見る限り錨泊地になっている北側と異なり、水路の南側に船舶の反応は無い。

「ずいぶんと、さぶいわね。」

 そう言いながら豊海は定時のログブック(※4)に記事を書き込んでいる。旋回窓のモーター音と、紅茶の立てる湯気、芳香があるのみで、誰も話さない。スコールの朝は決まってこのような状況になる。

 「もうまもなく無線封鎖に入るわ。AIS(船舶自動識別装置)切れ。」

 「AIS切ります。」

 この先の海域には最近海賊が出没するため警戒警報が発令されている。襲撃を避けるために自船の送信側装置を切るので、これより後は一次レーダーや目視でないと本船を捉えられない。

 「鉄条網巻いてる?」

 「はい、昨日の課業でさせました。」

 これ程までに頑丈にするのには理由がある。マラッカ海峡の海賊は、身代金で生計を立てているため、抵抗されて自身に損害が出ることを嫌う。そのため武装もなく莫大な身代金が手に入る日本船(多くはパナマ籍の便宜置籍船)を積極的に狙ってくるからである。過去には井村汽船所有の「アロンドラ・レインボー」(7,762t)が、12億円相当のアルミニウムを積み日本へ向かう途中、マラッカ海峡で海賊に襲われ、積荷と船を奪われ、日本人の船長・機関長を含む17人の乗員が救命筏とともに海上に放置される事件が発生している。


 船はクリン岬をクリアし、ウンダン島付近に差し掛かっていた。まもなくシンガポールである。霧は晴れないが一同に安堵の気持ちが広がる。

「ここ、レーダーで言う左舷後方4マイルあたりに小型船のような影が2つ見えませんか。」

 操舵手が豊海に報告を上げた。

「あら、本当ですね。さっきまで何も居なかったのに。島の影になって映らなかったのかしら。」

 豊海は双眼鏡を持って艦橋横から外に出て、後方を見る。しかし白く濃い霧が本船周辺を包んでいるせいでクリン岬灯台ですらぼんやりとした点滅がかろうじて視認できる程度であった。

 「いや船です!すごく速い!大きいほうですら対水40は出てます!こっちに突っ込んでくる!」

 操舵手が叫ぶ。しかし一向に見えてこない。豊海は、自分の顔色が青ざめていくのを感じた。

 「キャプテンを呼んで!緊急事態発生!全員起こしなさい!」

 「full(フル) ahead(アヘッド) (全速前進)!」

 「フルアヘッドSir!」

 復唱と共に、船は急加速を始める。

 「おい、何をしよるんや!」

 白井博之船長(当時)が艦橋へ息を切らせながら上がってきた。

 「敵襲です!左舷後方1マイルに国籍不明の小型艇、まだ見えません!おそらく海賊の母船とモーターボートと思われます!」

 「本庁にインマルで電話しろ!本船はメーデーを宣言する! シンガポールまで逃げ切れ!」


 その頃艦内は経験したことの無い事態に学生、部員問わず右往左往していた。

 「(ベル単音7長音1)総員、直ちに非常警備配置につけ!」

 今まで訓練でしか流れたことの無かった非常信号が艦内を駆け巡ると同時に、109名の足音が動き出した。訓練の通りいけば彼らは総員5分以内に教室に集合する。しかし階段を踏み外す者、天井で頭を打つ者などが出て、結局11分を要した。


 「小型艇がVHFで本船を呼んでます!」

 「つなげ!」

 「日鷹丸、こちらインドネシア沿岸警備隊。これより臨検を行う。直ちに停船せよ。こちらインドネシア沿岸警備隊…」

 艦橋は騒然となった。まだ視界に入らないが、どうやら2隻の小型船はインドネシア沿岸警備隊の巡視艇らしい。日本の官公庁船が臨検を受けることなど前代未聞である。しかしこのまま逃げ続ければ国際問題になりかねない。

 「インドネシアコーストガード、こちら日鷹丸。貴船の命令に従い、本船は直ちに停船する。」

 「フルアスタン(全速後進)!」

 船長が機関部へ指示を出す。

 「フルアスタンSir!」

 船は急速に減速を始める。艦橋内の人間は皆、前のめりに転倒した。

 「船尾(とも)に行って様子を見ます!」

 豊海は船尾から近づいてくるであろう検査官を迎え入れるため、無線機を持って船尾へと向かった。

 「井上、見えよるか。」

 「船長、ボンヤリと見えてきました。」

 「インドネシアのコーストガードは青ラインが入っていて海保の巡視船と似ているはずや。見えとるか?おい!うんともすんとも言わんか!」

 豊海は絶句していた。双眼鏡を覗いて確認すると、そこには全体が黒塗りで異様な風体の小型船がいた。その瞬間、沿岸警備隊を騙った嘘の停船命令が出されていたことを悟った。

 「船長!船体は真っ黒です!コーストガードじゃありません! 逃げましょう早く!」

 豊海は我に返り無線でデッキへ叫んだ。


 「おいあれ海賊じゃ!」

 「はよ逃げぇ! フルアヘッド! 」

 艦橋はうろたえた。日鷹丸は全長の割に一等駆逐艦クラスのトン数を持つ鈍重な船で、ただでさえ機関を全開にしても全速までいくのが遅い船である。

 「放水装置使います!」

 訓練の通り、豊海は舷側にある放水装置を作動させる。接舷だけは阻止しなくてはならない。他国の船舶は武装した警備員を乗船させているため、海面に数発ほど威嚇射撃を行えば向こうから逃げていくが、日本船は国内法の都合上それができない。そのせいで何隻もの日本船が歯がゆい思いをしたに違いない。豊海はそのことを思いながら放水装置を動かそうと舷側に行こうとした、

 「気ぃつけろ! こっからは舳先を左右に振るけえ落ちるぞ!」

 「大丈夫です!何千何万回とこの日のために操練してきましたから!」


 水鉄砲といえども本船の放水装置は、人体を貫通する威力がある。船上に遮蔽物の無いボートに負けるはずが無い。豊海は若干の余裕を感じ始めていたらしく、少しの笑みを含ませながら船長の無線に答えた。

 ラッタルを上り、程なく操作盤にたどりついた。

 「エンジンポンプスタンバイ! 該船に向けて放水開始します!」

 エンジンの音と共にそれまで平たかった配管が瞬く間に丸く膨らみ床面を駆け巡った。

 

 気がつくと、スコールは上がっていて、青空が見え始めていたのだが彼らは双方ともそのことに気づいていなかった。二時間が経過。明日を生きていくため、家族を食わせていくために何としてもこの巨大な獲物を逃さんとする者、将来にわたり海国日本の生命線を守らんとする学生たちに再び母国の土を踏ませるべく決死の応戦をする者、魂のぶつかり合い、白兵戦の様相を呈し始めていた。

 「おい! ホースの根元に居るあの女、士官だ! 力の無いあいつを狙え!」

 「撃て!撃て!」

 「放水であいつらの土手ッ腹突き破ったれ!」

 「ぶち殺すぞ!」

 お互いの乗組員は完全に冷静さを失っていた。長谷川甲板次長(当時)が不意に操作盤の方向を振り返る。

 「アッ…」

 言葉はそこで途切れる他無かった。耳に特徴的な乾いた発射音が断続的に飛び込むのと同時に、175センチを越える豊海の巨体が崩れ落ちた。本当に一瞬の出来事であった。それでも夏制服が血に染まっているなか目を見開き鬼の形相で立ち上がりかけた。しかし非情にもそこに再び30口径弾が降ってきた。今度は操作盤にもたれ掛かるように突っ伏したまま動かない。極彩色をした鮮血が純白の船体、舷窓、天井付近までにべっとりと付き、時折掛かる潮に洗われ線を描いて流れ出している。

 

 「三航士(サード)がやられた!」

 「医務科に連絡せえ! はよせんと死ぬるぞ!」

 「左舷船尾で三航士負傷!救護手配を!」

 依然として小型船の攻撃は続く。舷側の要員は放水の手を緩めることが出来ず、。艦橋もモニター越しにその様子を見ていることしか出来なかった。救護班が到着するまで豊海はうつぶせに倒れた状態のまま放置された。悪意があってそうしたのではない。緊迫した状況下で持ち場を離れられる人間など誰一人いなかったのである。その時、黒い影が本船の真上を横切った。

 「国籍不明船に告ぐ、こちらはシンガポール警察軍沿岸警備隊。直ちに停船せよ。」

 間に合った。本船はカリムン島を越えて、シンガポール領海まで逃げ切ったのである。メーデーを傍受した地上基地より緊急発進した巡視艇三隻とSH―60二機が視界に入った。それを発見して本船をしつこく追跡してきたボートと母船が回頭し、逃走を図る。それを二隻の巡視艇と一機のS―70が警告の照明弾を撃ちながら追跡する。彼らはその後沿岸警備隊に逮捕された。自国の船舶を自国が守れない。それほど現代日本の法体系は理不尽でおかしなものである。

 救護班が到着し、豊海は医務科へと搬送された。しかし誰の目から見ても既に駄目なのは明白だった。左舷側の廊下に全乗組員、学生が集合している。この配置が行われるということは葬送を意味する。

 「気をつけッ!敬礼!」

 担架が各学生班の前を通過する度班長が掛ける号令の声、至る所からの押し殺したような嗚咽が空しく響き渡る。

 甲板部の士官たちの前で足が止まった。船長が止めたのだ。

 「…あり得ない。お前、生きとるんやろ! 朝昼晩に飯いっぱい食う、殺しても死なんようなお前が易々と死ぬ訳がねえやろうが!」

 親子ほど歳の離れた船長は手や制服の袖に血がつくのも構わず揺さぶり続けた。

 「キャプテン! もう寝かせてあげてください!」

 見るに見かねて横にいた一航士が無理やり引きはがそうとする

 「放せ!合点が行かん! わしは認めん!」

 その時だった。豊海がかすかに動いたような気がした。甲板の士官一同がざわめく。そして目がゆっくりと開いた。居並ぶ士官、学生の順に船長のいる付近で何が起こっているのか徐々に伝わり、叫びへと変わっていった。豊海は生きていた。普通ならありえない話だが現場においての生死確認が曖昧な洋上の受傷事故では現在でもこのようなことが起こる。

 「言うた通り、井上まだ生きとるやないか!この馬鹿たれが!」

 船長は涙ながらに周りの士官に大声で言った。

 「はよ巡視艇に運べ! 絶対に死なすな!」

 誰が命令するでもなく総員一丸となっての移乗作業が始まった。平行して医務科により処置が行われ、豊海の胸に強心剤が打たれて、失血死を防ぐために計十一人分、の緊急輸血が行われた。

 その後接舷した巡視艇に移乗し、船長に付き添われて間近のシンガポール島へと搬送、そして上陸後、直ちに救急病院に送られた。

 「…学生は…」

 「総員無事じゃけん、それよりお前の心配せえ!」

 医師が処置に困るほど豊海の身体は異様だった。病院の誰もがライフル弾を4発被弾してもなお生きている人間を見たことがなかったからである。右胸から入った2発の銃弾は肋骨に当たった際に跳弾が起き軌道が変わったせいで心臓のほんの僅か横を通過し右肺を貫いて背中側の肩甲骨に突き刺さっていた。わき腹から入った2発は左の腎臓を貫通し背中側に抜けていた。しかし肋骨は四本折れ肺を完全に押し潰し、肩甲骨は粉砕骨折して破片が散らばっており、生きているのが不思議な状況であった。ただちに出血を止め、迫る命の危機を脱するために穴の開いた肺・腎臓を縫い合わせる九時間もの大手術が行われた。


 豊海は、朦朧と、どこかの海を漂っていた。どこまでも深い。さっきまで全身を苛んでいた痛みもなければ、傷もない。

 「なるほど、どうやら私はダメだったようですね。三途の川航路に就職でしょうか。」

 これがあの世かと、不気味なまでに落ち着き払っていた。

 「次生まれるときは護衛艦になりたいですね。」

 笑みさえ浮べながら奥底に沈んでゆく。

 「お姉様方のところに私も行きます。」

 「…待ちなさい…」

 暖かい水底から響くような声。豊海はどこかで聞いた事があった。

 「お姐様!(※5)」

 そうだ、確かに幼い頃に何度も聞いた声である。

 「あなたは、まだ学生を教える必要があるでしょ。こんなところで何やってるの。浮かびなさい。蹴飛ばすわよ。」

 豊海は、はっと我に返った。生きる気持ちがわいてくると間髪いれずものすごい力で光のさす海面に向けて蹴り上げられた。海面に浮かび上がると、そこは西日の差す仕切られた一室、窓の向こうから船長が心配そうに私を覗き込んでいる。

 「確か…本船はまだカリムン島の手前で…はっ…身体が…痛いッ!」

 起き上がることも大好きな食べることも出来ない。「そうだ…私、撃たれたのね…」

 外向きの窓の向こうには南国特有の蘇鉄の葉が揺れているのが見える。

 手術中、井上豊海は二度危篤状態になり、親族まで専用機で呼ばれていた。


 豊海は、一年後職場に復帰したが、それ以降も今まで何回にもわたってこの時の怪我の修復手術を経験している。そのせいで身体は繰り返される麻酔に耐性が出来てしまい、最近の手術は専ら麻酔無しで行わなければならない。これ以上強い麻酔をかけると助からないらしい。あの事件以来どんなに暑い夏でも長袖を着る。ただ、女の命ともいえる顔に傷がなかったのと、女性としての機能を失うことが無かったことが幸いであったと豊海は述懐している。


この物語はフィクションであり現実の団体、個人とは一切関係ありません。

アニメや漫画とは異なる現在の海賊像、漁業取締船の問題点を執筆したいとおもいました。

ありがとうございました。

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