玖拾漆
少し、過去の事を思い出させて欲しい。
時を少々遡り、二十四時間程前の事だ。
私は翌日の西園寺家訪問に心を躍らせていた。
何といっても、あの殺し屋のおかげでパーティを楽しめなかったし、巴ちゃんとも話があまり出来なかったからだ。
明日は、それを取り戻すチャンス。
黒川さんは珍しく機嫌が良いし、何も要求されずに人の家に遊びに行けるなんて、これまでもこれからもない事だから、非常に貴重な休みだ。
「サリン、嬉しそうですね」
「えぇもう!」
巴ちゃんの誕生日パーティを出来る事ならばもう一度やり直したい。
ロリコンも殺し屋もヤクザもいない、普通のパーティで良い。まぁ、これはただのワガママだから良いんだけどさ。
巴ちゃんには本当、申し訳ないな。
私が倒れたせいで、十分にパーティを楽しめなかったかもしれないし、結局黒川さんも来なかったし。
「あんまり嬉しそうだと、嫉妬しちゃいます。私」
「黒川さんが一番ですよ」
「ですよね〜」
単純だ。
大好きですよ、一番ですよ、と言って少しくっついたり笑いかけたりすれば、すぐに笑みが湛える。
そこ、悪女と言うな。
扱いに長けたと言ってくれ。
「まぁ...一応、気をつけてくださいね」
「何でですか?」
「西園寺家とは、確かに関係は長いし、ある程度の信頼もしています。ですが、あそこの当主は金にがめつい。ちょっとした事で裏切られるかも」
「大丈夫ですよ、そんな」
聡は大事な友人だし、巴ちゃんや雅さんとも仲良く出来ていたつもりだ。
そういえば、後藤さんに頼まれて、聡のお父さんに渡した”あの袋”って...一体何だったんだろうな。まぁ、聞くつもりはないけど。
すると、黒川さんが私を抱きしめてきた。
「愛してますよ」
「何ですか急に。...私も、愛してます」
今日の黒川さんは、いつも以上にスキンシップというか、愛情表現が多い気がする。
まぁ、いつもの事ではあるけれど。
「ずーっと一緒ですよ」
「分かってますって」
*
翌朝。
私は後藤さんの運転する車に乗って、西園寺邸に行く事になった。黒川さんは遠出の仕事が入ったらしく、朝早くから何処かに出かけてしまった。
ありがたい。
黒川さんを気にしないで西園寺家で楽しめる。
さて、車に乗り込むと、運転席に座っている後藤さんがこんな事を言い始めた。
「いやぁ、組長、何処行ってんだろうな」
「あれ? 後藤さん、何処に行くかとか聞かされてないんですか?」
「一日出張する...くらいだな。サリンちゃんも聞いてないか?」
「えぇ」
後藤さんにも何処かに行くか告げずに仕事に行くなんて...黒川さんのうっかりミスか、それとも...。
「さーて、西園寺の屋敷にレッツゴー」
「レッツゴー」
走り出した車の窓からは、騒がしい、いつもの町が見える。
車に乗ると、通り過ぎていく建物や人が止まっているように感じてしまうんだよね。
こんなに高級なリムジンに乗っているのに、全く心が踊らない。
初めてリムジンに乗った時は、興奮というより、恐怖の方が強かったような気がする。...あれ、初めてリムジンに乗ったのって、いつの事だっけ?
確か、一緒に後藤さんも乗っていたような気がする。
「後藤さん、私と後藤さんが初めて会ったのって、車の中でした?」
「あぁ。このリムジンだったぞ。宜しくな、って自己紹介したのは。今サリンが座っているその席だ」
「そうでしたっけ?」
やっぱ私、若年性アルツハイマーだわ。
何十分か窓の外を通り過ぎる景色を眺めていると、西園寺邸についた。
相変わらず、黒川の屋敷に負け劣らずの大きな家だ。こんな建物を見ると、いつも「金持ちめ」と思ってしまう。
言ってしまえば、私も金持ちなんだけどさ。
「お、サリン」
車から降りると、聡が出迎えてくれた。
流石に使用人総出のお出迎えというわけではないようで、数名の執事とメイドだけがいる。
「後藤さん、運転ありがとうございました」
「ん。じゃあ、楽しんでこいよ」
「はい」
私は、聡に腕を引かれ、屋敷の中に入った。
*
「そうそう、今日、巴も親も都合がつかなくて...今屋敷には俺と使用人しかいないんだ」
「え、私巴ちゃん目当てに来たのに」
「巴かよ...俺で我慢しろ」
あの可愛い妹ちゃんを愛でにきたというのに、聡は両親共々留守だと言うのだ。
何故こういう時に限っていない?!
ちゃんと謝りたかったんだけどなぁ...。
聡の部屋までやってきた。
この部屋に入るのは三度目。
一度目は二人で駄弁った時。二度目は...殺されかけた時だ。
あまり良い思い出のある場所ではないが、聡は私が此処で死にかけていた事を知らない。まだ、誰にも言ってないもの。
「そういえば、今日、人が少ないね」
「まぁ...休日だしな。それに、いっつも人が多いわけじゃない。前は巴の誕生日だったから、臨時で結構雇ったんだ」
「へぇ...」
屋敷に入ってからというもの、メイドの一人も見かけなかった。
まぁそりゃそうだ、今日は何ら特別な日ではないのだから。
「さーて、折角だから色々と喋りましょうよ聡君」
「あぁ。そうだな。色々と...喋るか」
すると、聡は部屋に鍵をかけた。
「ど、どうしたの?」
先ほどまで笑顔だったのに、今彼はーー冷たい目をしている。
機嫌の悪い黒川さんと同じ表情だ。
目の前の少年に恐怖を感じ、私はたじろいで一歩下がった。
だが彼はそんな私を見下すかのように、小さく何かを呟きながらゆっくりと近づいてきた。気味が悪い。何をするつもりだ。
「なぁ、サリン...」
「何?」
「サリンは、人を殺した事、あるか?」
「な、ないけど...何で?」
「そうか。お前はないか...そうか...まぁ、良いや」
すぐ側に来たかと思えば、腹部に鋭い痛みが走った。
驚いて痛みの在り処を探れば、お腹に刃渡十五センチ程のナイフが刺さっていた。咄嗟の痛みに頭がついていかず、バランスを崩して私はその場に倒れこんだ。
「いっ...さ、聡...何を...」
傷口からは、とめどなく赤い液体が溢れ出してくる。
早く止血をしないとーーだが、ナイフを抜けば、より多量に出血してしまうだろう。
聡は私の言葉に答えない。
ただ俯いたまま。
私を見つめて、黙ったままだ。
視界が歪んできた。
目からは涙が零れだす。
「嗚呼...なん、で...?」
すると、ようやく聡は口を開いた。
「なぁ、サリン」
「さ、聡...」
「死んでくれよ」
私は、目の前の親友の豹変した姿に驚愕する。
「やっと、お前を殺せる」
私に銃を向けた聡の表情は、心なしか、歪んでいた。




