玖拾肆
今日は雨だ。
今、関東の真上に大きな雨雲が広がっており、週末まで雨が続くとの事。
大粒の雨水が教室のガラス窓を打ち付け、何かが早足で迫ってくるような音に聞こえる。この時期にこんな大雨は珍しい。
何故か私の席に座っていた聡の表情は、何処か浮かない。
何かあったのだろうか。
「おはよう聡」
「あぁ、おはようサリン。どうだ? 組長にオーケー貰えたか?」
「不思議な程にすんなりと。ねぇ、何か仕掛けた? もしかしてドッキリ?」
「そんな面倒な事するかよ」
そう言って笑顔を浮かべる。だがその表情が、どうにも作っているようにも見えた。
黒川さんと一緒にいるせいか、どうも人の顔色から感情を察する能力がついてきたようだ。
今の聡は、疲れているような、思いつめているような、そんな表情。
「ねぇ、何かあったの?」
「え、どういう事だよ」
「雰囲気が暗いよ。そしてそこ、私の席だから退いてください」
「あぁ、悪い悪い...別に、特に何もないけど」
嘘をつけ。
目が泳いでいる。そして、謝っておきながら私の席から動く様子もない。
「はい、退いてねー」
「あぁ、そうだったな...」
会話の歯切れも悪い。
何かしらあったのだろうが...彼が話さないという事は、あまり私には言いたくない事なのかもしれない。プライベートな事になるだろうし、無理に話させたくない。
「ランスから連絡入った?」
「いや。全然。連絡をするような余裕がないか...連絡を忘れるくらいの事があったか」
「ちょっと、あんまりマイナスな事考えないでよ」
「別に俺はマイナスな事なんて言ってないぞ。例えばそう...ランスなら、母親が元気を取り戻したら確実に忘れるって」
「そうかな?」
連絡はマメに入れてくる方だと思うんだけど。
ハァ...私の携帯は黒川さんと後藤さんしか登録されてないんだよ。だから、ランスの現状を知るには聡を通さなければいけないわけで。あぁ...無事だと良いな。
「何も、なければ良いんだがな」
「...そういうの、フラグって言うらしいよ」
「やっぱさっきの発言はなしの方向で」
*
私は目を閉じて、過去の記憶を呼び起こす。
父の顔、父の名前、父との思い出ーー色濃く残っていたはずの記憶が、所々抜けて落ちている事に気がついた。
数年の時を経て、父の記憶がボロボロになっている。
何も、思い出せない。
どんな顔だったけ、どんな名前だったっけ、どんな事をしたっけ...?
今の家の部屋には、昔の思い出の品は一切残っていない。
あっても竹刀と防具程度だが、それも新しく買い換えて、昔使っていたものが何処にあるのかは分からない。
新しい記憶ばかりが上乗せされて、過去の記憶が薄れている。
これは...果たして良い事なのだろうか。
過去を忘れる事は、未来へと繋がる。
だが、父との思い出は、決して忘れて良いものではない。
でも、何で?
たった数年で忘れるようなものじゃない。
「どうかしましたか? サリン」
途端に現実に引き戻される。
少し心配そうな黒川さんが、私の顔を覗き込んでいた。
「いえ...この頃忘れっぽくて。若年性アルツハイマーかな」
「それは困りますね。いや...寧ろ、記憶喪失になったら新しい記憶を...」
今のは聞かなかった事にしておこう。
病気、とかではないはずだ。
今の生活が衝撃的過ぎて、脳が容量オーバーでもしているのかな。
それとも、傷や血みたいなショッキングな光景を見て、記憶が曖昧になっているとか?
分からない。何も思い出せない。
私の一番古い鮮明な記憶は、初めて黒川さんと会った事。
それ以外の父に関する事は、黒川さんと出会う前までずっと一緒にいた事、大好きだった事、借金があった事ーーでも、細かい記憶が思い出せない。
ただ忘れているだけとも思えないし...。
黒川さんに何か聞くわけにもいかないし、後藤さんにもこの間、断られてしまったからな。
「ですが、構いませんよ、全て忘れてしまって」
「いやぁ、私は良くないんですよね」
「私は嬉しいですけどね。私は、今この瞬間を、サリンと一緒にいられるだけで幸せですから。過去はどうだって良いです」
「私も、まぁ...黒川さんと一緒にいられたら、過去がなくても幸せかもしれない、です」
「”かも”ですか?」
何故だろう、不思議とそう思う。
過去は過去。未来は未来。
そう割り切ってしまうのも良いかもしれない。
いくら父の事を思い出そうとしても、昔の生活は戻ってこない。それに、昔の事を思い出していたら、今を充実させてくれている黒川さんに失礼だ。
もう...良いかな。
昔の事は。




