玖拾
「明日、イタリアに戻ります」
深夜、部屋に戻ってきた黒川さんに、そう告げられた。
予定ではまだ一週間程留まって、イタリアを巡り巡る予定だったが...レオと、色々あったのだろう。
あの後後藤さんは、包帯を替えたらすぐに部屋から出て行ってしまった。彼は何も悪くないのに、自分を責めてしまって...本当に申し訳なく思う。
それにしても、イタリアの空は、こんなにも曇っていたかな。
明朝の窓から見える景色は、私の心の鏡のよう。
昨日までは清々しい晴天だったのに、今日はすっかり曇り空。聡やランスは元気にしているかな。
「サリン、出ますよ」
「あ...はい」
外を見つめてボーッとしていたら、黒川さんに肩を叩かれた。
昨日のような、恐ろしい剣幕はない。優しく微笑んでくれている。正直、あの時の黒川さんは恐かった...黒川さんもレオも、私を守ってくれようとしたのは分かる。けど、あまり喧嘩はしないで欲しい。
元々争い事は好きじゃないんだ。だから...。
「どうかしました? 傷、痛みます?」
「いえ、そういうわけでは」
傷はもう痛まない。
けれど、あまり良くない事を考えてしまうと、つい腕に手が行く。そこはまぁ、グッと自分を抑えるが、感情が高ぶれば爪を立ててしまう。
「何かあったら、言ってくださいね」
「...はい」
何か、っていうか...色々ありますけどね。
*
「おーうサリンちゃん、調子はどうだ?」
後藤さんは相変わらずの調子だ。
まぁ、変わらずに接してくれた方が私も嬉しい。妙に距離を置かれたり、ぶっきら棒に返事をされるよりかはまだ良い。
「後藤、準備は出来ているな?」
「そりゃもう、バッチリでっせ」
ホテルを出る道すがら、レオの姿は見かけなかった。
堂々とロビーから出て行ったのに、いつもの光景が広がっているだけ。殺気立った赤毛の青年も、冷たい空気も存在しない。
一体あの後何があったのか...黒川さんが堂々とこのホテルから出られるという事は、レオが死んだ、もしくは怪我を負ったというのは考えにくい。
これでも黒川さんは利を重んじる性格のようなので、余程の事がなければ、取引相手の息子に手を出すような事はしないだろうし。
平和的に、解決してくれていれば良いんだけど...。
ホテルを出て、そのまま空港へ向かう。
正直、入国する時は眠らされていたので実質ローマの空港は初めてだ。外国の空港って、日本のものとあんまり変わらないのかな...?
「わぁ、やっぱり人が多い...」
安定のVIPロードでプライベートジェット用の場所へと向かうが、その途中で見かける人の数は、やはり日本と同様多い。
夏休み時期の真っ只中で、日本人の姿も少し見かける。
日本に戻ったら、すぐに聡とランスに連絡を取らなきゃ...でも、ランスは祖国に戻ってるかもな。
飛行機に乗り込み、豪奢な部屋の中で、ソファに座って考える。
この傷を見たら、きっと二人は何と言うだろう。
ただでさえ優しい二人だ。
事情を話したら、無理矢理にでも私を黒川さんから引き離すかもしれない。でもそんな事をすれば、黒川さんは容赦なく殺しにかかってくるだろう。
この傷は、私のせい、だけど...私のせいで、二人が傷つく事になるのは嫌だ。
「サリンちゃん、腕」
ジュースを持ってきてくれた後藤さんが、ボソッと私の耳元で呟いた。
あぁ...この癖、治さないとな。
「組長、ちょっと電話がかかってきたみたいで、出発までにはもう少し時間がかかりそうだ」
「そうですか...」
「災難だったな...イタリア観光、もうちょっとしたかっただろうに」
「本当に観光したかったのは、後藤さんでしょう?」
私がクスクス笑うと、後藤さんは照れ笑いをして頭を掻いた。
「あれ、バレた? 俺、結構海外好きだからさ。貸切旅行も中々...やっぱ、金持ちゃ違うからな」
「まぁ...。後藤さん、あの後、レオさんは...」
「あぁ、フライアーノの坊ちゃんなら平気さ。怪我もしてねーよ。フライアーノの旦那と協力して一応説き伏せたが、納得はしてないだろうな。日本にまで追いかけてくる事はないから安心しな」
後藤さんはそう言って、私の頭を撫でる。
この人の大きくて傷だらけの手は、黒川さんとは違った温かさと優しさがある。大好きな父親みたいな、そんな感覚だ。
「後藤さん、黒川さんの前では言えない事なんですけど...」
「お、何だ? 俺に話してみ?」
「はい...実は私、お父さんの顔が、思い出せないんです。何年も過ぎてしまったけれど、けれど...絶対に忘れまいって、そう思っていたのに...」
「...」
私の頭を撫でていた、後藤さんの手が止まった。
父親の事は、口に出さない方が良かったか...。
「ごめんなさい、今の、忘れてください」
「...分かったが、その話、絶対に組長の前ではするなよ?」
「分かってます。すみません...」
「サリンちゃんが謝る事じゃない。俺こそごめんな、本当は、会わせてやりたいんだが...」
立場上、それも出来ない、と。
仕方がない。
だって、五億の借金の帳消しと引き換えに、私は「赤城」の姓を捨てたのだから。
「黒川」の子として、黒川さんの妹として生きているのだから。
それに、元々それも覚悟していた事だし。
「仕方ない、ですから...」
父親の顔も、昔の事も。
薄れていく記憶もまた、今の自分が前に進んでいる事を意味しているのかもしれない。
...進んでいる事を、信じたい。
このままのペースだと全てのエンドを終わらせるまでに後何年かかるか分からないので、これからはマメに平日も投稿していきます。
さて、サリンちゃんが帰国します。
そろそろ、物語が終盤へと近づいていきます。




