捌拾玖
後藤さんが慌てて私の前に出るが、レオは引かない。
憂わしげな表情を浮かべたレオは、周りの目も気にせずに私に呼びかける。
「何をされたんだ、その男に! その包帯は何だ?!」
左腕に目をやれば、服の袖口から解けた包帯の先端が顔を覗かせている。
パタリと何日も姿をくらませて、突然ホテルの外に出たかと思えば、いつの間にか腕に傷を負っている...そりゃあ心配にもなるだろう。
腕の傷は、レオは直接は見ていないだろうけど、包帯と服の膨らみ具合で、ある程度察しがついたのかもしれない。
『レオ・フライアーノ、この子は今、観光を終えたばかりで疲れている。お引き取り願おうか。取引相手とは、良好な関係を築きたい』
『良好な関係...? ミスター・クロカワ、家族に手を出すような人間とは、そんな関係築けませんよ。この人間のクズが』
両者が、冷たい視線を互いに向ける。
何でこうなるんだか...頭から冷水を浴びせられ、夢から一気に覚めたような感覚だ。
見慣れているはずの睨み合い。なのに何故だろう。胸が苦しい。
無意識に左腕の傷に手が触れる。そのまま強く握りしめ、爪を立てた。
「組長...もう止めてください。フライアーノの坊ちゃんも。人の目もありますし...」
一応ホテルのロビー。
大勢の宿泊客がいる。こんな場所で立ち往生して睨み合っていれば、そりゃあ視線も集まる。
「サリンちゃんを部屋に戻しておきます。続きはどうぞ、各々の部屋で。行こう、サリンちゃん」
黒川さんも、レオも何も言わない。
私は後藤さんに手を引かれ、急ぎ足でロビーを去った。
*
後藤さんは優しい。
いつも私に気を使ってくれて、唯一の常識人で、黒川さんのリミッター。医師免許や各武道の段も持っている超人。
強面で、最初は怖かったけれど...今では一番信用出来る人の一人だ。
ホテルの部屋まで戻ると、後藤さんに無理矢理ソファに座らされた。
「ちょっと待ってろ、救急箱取ってくるから」
救急箱...?
左腕に目をやってみれば、赤い血が滲み出ていた。あれ、何で血が...。
「ごめんなサリンちゃん、怖かったよな?」
「これ、は...」
「ストレス性の、無意識な自傷行為...痛みを感じる事で、脳が無意識に、精神を安定させようとするんだ。爪、切ろうな。後、包帯ももう少し多く巻かないと...」
ストレス...黒川さんとレオのあの対峙に、私はストレスを感じていたのか。
胸が苦しくなったのも、ストレス?
後藤さんは私の左腕の袖を捲り、止血を始めた。それ程出血をしているわけではないが、放置していれば確実に倒れるだろう。
私の爪、そんなに伸びていただろうか...。
「ずーっと我慢してきたんだよな? 良い子だなサリンちゃんは。でも、怖かったら、迷わずに俺に泣きついて良いんだからな?」
そう言って彼は私の頭を撫でてくる。
黒川さんが睨まないのなら、私はいくらでも泣き付きますよ。でもそんな事をして後藤さんにまで危害が及んだら...私はもう、何も出来ない。
「俺の事、心配してくれてるのか? 大丈夫だ。俺、これでも幹部だし、組長の親友だし、軽口叩いても拳銃突きつけられないくらいの立場だから」
「でも...」
「へーきへーき。じゃなきゃサリンちゃんの警護なんて任せないって」
まぁ結構、後藤さん、黒川さんに対して毒舌だからね。
綺麗に新しく巻き終わった包帯を撫で、私はため息をつく。
ストレスか...主な原因の黒川さんに直接言うわけにもいかないし、聡やランスに心配はかけたくないし、物に当たるなんて以ての外だし。
「後藤さんは...何でそんなに、私に優しくしてくれるんですか?」
「...まぁ何だ、罪滅ぼしでもしたいのかもしれねーな、俺は」
「罪滅ぼし...?」
私、後藤さんに何かをされた覚えは何もないのだけれど。
「俺は、サリンちゃんを、組長の狂気から助けてやれない。この傷だって、俺にもっと力があれば...なかったはずだ」
「そんな、後藤さんのせいじゃないです」
「サリンちゃんは優しいからな。俺も、サリンちゃんを妹みたいに思ってる。いつでも頼ってくれよ。ただし、組長の目の届かないくらいの範囲で」
「はい...そうします」
本当に後藤さんのせいじゃない。
後藤さんには...どうしようもない事なんだから。
全部私が悪いから...この傷も、私がレオをちゃんと拒絶しなかったからだし、上腕の家紋の傷も、黒川さんとの約束を破って、私が水羽君を庇ったから...。ほら、全部私が悪いじゃない。
でも、そう言っても後藤さんは、自分のせいだと言う。
何でこの人は、こんなにも優しいのだろう。罪
滅ぼしなんて...罪なんて、存在しないのに。




