捌拾睦
「マズイ、腹括れないよ...無理でしょ、絶対殺されるでしょ...」
殺されるつもりでシャワーを浴びた。だが、やはり怖い。
このままバスルームで粘っていても、潔く出たとしても、待ち受けるものは同じだろう。折角のイタリア旅行なのに...何故こんな事になってしまうのだろう。
レオのせいとも、自分のせいとも言えない。怒られるなぁと最初は軽く考えていたけれど、時間が経つにつれて、黒川さんの殺気が強くなっているのを感じる。怖い。
「もう良いや...着替えよう」
死んだらそれまでだ。ごめん聡、ランス。私、死体になって日本に帰る羽目になるかもしれない。
シャワーのお湯を止め、体をタオルで拭き、近くにあったバスローブを着る。いつも寝間着だからか、高級感のあるタオルを体にまとっているようで、少し気持ち悪い。
外に出ると、お湯のせいで、体が火照っているのを感じた。
「来ましたねサリン。おや、バスローブですか。そそりますねぇ」
「そそらないでください...」
「ほら、こっちに来なさい」
既にベッドの上で胡座をかいてスタンバッていた黒川さんが、私を手招く。笑みは浮かべているが、目は笑っていない。
「はい、何か言う事はありませんか?」
「すみませんでした」
「いや...サリンは謝る必要がないんです。あのフライアーノの息子に、何をされたかを聞きたいんです」
「特には...。少し肩を組まれたり、頭を撫でられたり、顔が近かったりって、それだけ...」
「へぇ、”それだけ”ね...それが、私にとって余程の事だと、サリンは知らないようです」
いや、知ってます。凄く知ってます。
ほんの些細な事でもすぐに逆鱗に触れるって、身を持って理解してます。
私がベッドに座ると、彼はすぐに抱き寄せてきた。
「ごめんなさい。お兄ちゃん、あの...」
往生際が悪いのは分かっているけれど、出来るだけレオへの被害を少なくしたい。
もし此処で完全にレオが悪いと思えるような言い方をすれば、黒川さんはきっとレオに報復する。私には何もなくても、レオに危害が及んでしまう。それだけは絶対に嫌だ。
私のせいで誰かが傷つくならば、私は恥を忍んで黒川さんを「お兄ちゃん」と呼ぶし、辛い痛みも耐えよう。そちらの方がまだ、マシだ。
「いや、ちょっとーーダメですよサリン、そんな格好で顔を赤らめて『お兄ちゃん』なんて呼ばれたら、抑制が出来なくなりますって...」
「お兄ちゃん、私、ポーカーに夢中で...あの人が全然気にならなかったの...ごめんね」
「押し倒されたいですか?」
これは効く。
黒川さんの口元が、だらしない程に緩くなっている。
押し倒されるのは勘弁だが、これで機嫌を良くしてくれたら万々歳だ。
「あぁもう...本当はコレを、自分の手首に突き刺してもらう予定だったんですけど」
そう言って彼が差し出すのは、お馴染みのナイフ。
黒い柄の部分に蛇の彫刻が施してあり、鋭い刃は丁寧に手入れされている。私の左腕の傷を作ったナイフだ。時折チラリと見せて脅してくるが、いざ目の前にすると恐ろしいものがある。
「そんな必要もなさそうですね」
「そ、そうですね...」
「ほら、全部突き刺したら、確実に貫通するじゃないですか。おまけに自分の手で自分を傷つけるのって、結構抵抗ありますし...やりたいですか?」
「いえ、止めておきます」
「そうですか、では...」
ザッと、肉を切るような音がした。
「え...?」
「刺さないとは一言も言ってませんよ」
そう言って彼は、血のついたナイフを舐める。
視線を下に落としてみると、自分の左腕の前腕に、赤く広い傷が見えた。途端、鋭い痛みが左腕に走る。想像だにしない出血量のせいで、視界が真っ白になり、その場に倒れこんでしまった。
「どうですか? 自分でやるよりかは、ずっと楽だと思うんですけど」
薄ら意識の中で、黒川さんの声が聞こえた。
「ほら、ナイフが......して.......大動脈は......血が......」
途切れ途切れで、よく聞き取れない。...私も、よく、意識がーー
*
ーー黒川 真人視点ーー
「...少しやりすぎたな」
シーツに咲く赤い牡丹の花。サリンの白い腕を、またもや紅色に染めてしまった。
サリンが悪くないのは知っている。この子はある程度、抵抗はしていたようだし、フライアーノもそれほどスキンシップをとっていたわけではなかったらしい。俺が怒るというのを分かってか、あまりベタベタはしていなかったと後藤が言っていた。
ならばサリンを傷つける理由もない。だが何故か、フライアーノと長い間一緒にいた事が、非常に腹が立ったのだ。
まぁ、「嫉妬」だろう。だが、あの程度で嫉妬してしまう程、俺は嫉妬深かっただろうか。
「止血をしないとな」
位置的には、骨や筋肉、神経には当たれど腕に流れる大動脈には当たっていない。
死ぬ事はないだろうが、血が少し足りないかもしれないな。明日までは目覚めまい。
新しいハンカチを取り出し、傷口に押さえつけた。貫通するまで深く突き刺してしまったから、すぐには血は止まらないだろう。
風呂から上がったばかりで、バスローブの下には下着一枚しかつけていないサリン。
死人のように顔の青いサリンを見ていても唆られてしまう。あぁ、何て可愛らしいのだろう。今すぐにでも襲ってしまいたい。
「これでまた一つ、俺の印が残った...あぁ、綺麗だ」
魂の抜けた抜け殻になってしまっても、きっとこの子は綺麗なままだ。
血が止まった所で包帯を強く巻き、しばらくしてみると、サリンの顔色も良くなってきた。簡単な応急処置だが、それでも随分と血を止めてくれる。
「だが、何故庇った? あいつを...」
最終的に「お兄ちゃん」と呼ばれたのは収穫だが、確実に話を逸らされた。
口を紡げば、自分が怪我をすると、何かしら傷つくと、分かっていたはずだ。それなのにフライアーノを売らなかった。
この数年で、サリンの事が色々と分かった。
この子は何処かおかしい。ある種の狂気を持っている。自分を犠牲にしてまで、人を救おうとする狂気。自分のせいで誰かが傷つく事を恐れる優しさ、それさえも異常に思える。
人として当然の事だと、そういう奴もいるかもしれない。だがその”当然の事”が、人には出来ない。
もし俺が誰かに殺されそうになった時、サリンは自分の命を投げ打ってでも、俺の助けを請うだろうか。
父親を奪い、自由を奪い、体に二度と消えない傷までつけた俺を、助けてくれるだろうか。傷ついてほしくないと、思ってくれるだろうか。
こんな事をしておいてよく言えたものだと言われそうだ。感情に任せて、サリンを傷つけて...後悔はない。
だが、相変わらず虚無感しか残らない。
今年初の投稿。
ハッピーニューイヤーです。今年も今作を宜しくお願いします。




