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睦拾漆

 



「こんにちは、昨日は部活休んでしまってすみません」

「い、いや...大丈夫。あぁ、今誰もいないから...入って」


 神楽坂先輩が殺しの依頼をしたという事はなるべく伏せておきたかったが、今武道館にいるのが私と彼だけだった場合、話は別だ。どんな状況でも、二人きりになれば殺されるだろう。まさか他に誰もいないとは...迂闊だった。

 プロの殺し屋を雇った以上は自分で手を下したくない事は確かだし、必ずしも手を出されるとは限らない。ただ、光無い目をしている事は確かだーーあの時の私のように。


「サリンちゃん、どーかした?」

「あー、教室に忘れ物をしたのを思い出して。取りに行ってきまs「ちょっと待て」


 踵を返すも二の腕を、先輩にガッシリと捕まれる。いつもの明るい、陽気な雰囲気はもう消え失せた。ただ今を懸命に生きるしか出来ない人の目だ。

 不味い、早く逃げなきゃ。


「離してください!」


 どうにか振り解こうともがくが、高校男子の腕力に敵うはずもなく、ただ睨むしか出来ない。


「頼む! 僕の話を聞いてくれ! お願いだ!!」

「...え?」


 ”僕”?

 口調も表情も一気に変わる。あのオタク先輩がただのイケメンにしか見えなくなってきた。こちらが素か? あぁ、危ない危ない。しかし先輩も必死に私を引きとめようとしているし、涙目で訴えかけてくる。どうせ逃げられないんだ、話くらいなら聞いても良いかもしれない。


「悪かった、まさか生きているとは思わなくて...」

「な、何なんですか!」

「落ち着いてくれ。もう、君を殺そうとなんてしないから」


 その証拠かどうかは知らないが、先輩の手の力が徐々に抜けていく。今にも泣き出しそうな先輩を信じたいが、果たして信じても大丈夫なのだろうか。


「でも、あの殺し屋を送りつけたのは先輩でしょ?!」

「そうだ。そうだけど...仕方がなかったんだ。君が奴等・・に酷い目に遭う前に...せめて、楽に殺してあげたかった」

「何を言っているの...?」

「君は、このままだと殺される。それも目を覆うような残酷な方法で」


 先輩は殺気付いた様子でそう言った。この言葉は、まだ信用するに値しない。まだ分からない事が多すぎる。


「何故? 何故私は殺されるの?」

「黒川 真人への牽制だ。君の兄は既に、世界中に巨大な根を張りつつある。それを好ましく思わない連中がいるんだ。彼の一番の弱点は、君だからね」

「何故、そんな事を知ってるの?」

「それは...」


 私の質問に、先輩は口を閉ざす。

 もし黒川さんへの牽制にしても、神楽坂先輩が手を出す必要はない。一後輩である私を守る必要もない。私が苦しもうが死のうが、神楽坂先輩には全く関係ないはずだ。彼にとって私がどんな存在かは知らないがーー言葉は悪いがーー成金はなるべく保身に走る方が良い。


「言えない。ただ、君を守ろうとしている人がいる事も確かだ。もしかしたら、会った事があるかもしれない」

「そんな...知らない。でも、狙われているのなら私...一体どうすれば良いんですか?」

「...僕と一緒に来てくれ。そうすれば、彼等がきっと君を守ってくれるはずだ。全てを捨ててでも、生きて欲しい」


 唐突に突き出された言葉。

 ”全てを捨てて”という事は、きっともう元の生活には戻れまい。過去も地位も名も友人も黒川さんも捨てて、生きる事を選んで欲しいと...先輩はそう言う。しかし今まで守り、一緒にいたものを容易く捨てる事なんて出来ない。

 そもそも先輩の真偽も分からない。一体、何を信じれば良いのかも分からない。


「ごめん...なさい、私はもう...何を信じれば良いのか...」

「僕を信じてくれ、お願いだ」

「...無理です。私を殺そうとした人を、そう簡単に信じられるわけがない」

「このままだったら死ぬぞ」


 分からない。彼の瞳に宿る感情が、偽物のような気がしてならない。悲しい目をした、私と同じ目をした先輩を、完全に信じきられない。


「お気持ちはありがたいですが...まだ、信じられないんです。私、死ぬのは嫌です。痛いのも嫌です。でも、大切なものを捨てるのは...もっと嫌なんです!」

「サリンちゃん...」

「全てを捨てて逃げても私は幸せにはなれない。だったら私は、この命を懸けてでも大切なものを守ります」

「...」


 先輩は何も言わない。私の言葉を聞き入れてくれたのか、はたまた怒ってでもいるのか。無表情に、その場で固まったまま。

 いくら先輩が涙を流そうと、本当に私の味方であろうと、私は誰かを捨てるなんて出来ない。黒川さんに、初めての友達。大したものじゃないと言われるかもしれないけど、私にとっては掛け替えのない宝物。こんな私を受け入れてくれた、助けてくれた、恩人なんだから。


「サリンちゃん、俺ッチは、部活を通して色ぉんな君を見てきた」


 すると、彼はいつもの神楽坂先輩に戻る。先ほどの話なんて無かったかのような清々しい笑みを浮かべ、彼はこう言った。


「試合に勝って喜ぶ君、練習が終わった後の解放されたような君、試合に負けて悔しがる君...何だか、守りたい可愛い妹が出来た気分だったんだよ。俺ッチは...嬉しかった。守りたかったんだ。今度こそ・・・・

今度こそ・・・・?」


この話も分岐点です。

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