睦拾肆
奇跡というか、悪運が強いというか。死を覚悟して瞳を閉じたというのに、目の前に広がるのは白い部屋と黒川さんだけで。
聡やランスが見舞いに来てくれる事を少しだけ期待したが、黒川さんがずっと病室にいる時点で入る事が出来ない事に気がついて、かなり絶望した記憶がある。まぁ黒川さんとずっとお喋りをしていたから暇な時間などなかったのだけれど...外で後藤さんと誰かがもめている声が幾度なく聞こえた。
結局その後、私の熱が上がる事はなく、無駄な一日を過ごしたと言っても過言ではない。どうせなら家に戻って勉強をしていたい。入院日が日曜日で本当に良かった。学校はなるだけ休みたくない。高校は中学と違って独学では得られない専門的な知識も手に入れられるし、今年は友達がいるし。
月曜日に再び登校してみれば、真っ先に廊下で出会った化学科の高坂先生が声をかけてきた。
「おーや、黒川ん嬢ちゃんじゃねぇか。校長から入院したって聞いたけど...元気そうで何より」
顔だけは無駄に良い癖に、シャツはズボンから出ているし、ネクタイも碌に結べていない、ダラシない先生だ。今思ったんだけど、玲海堂は美形勢が多すぎる。全ての人が悪魔に見えてしまう。
「そうだ、明後日期末テストだけど、黒川勉強してる?」
「えッ?! 何それ聞いてないです」
「マジ? ...セリエっち、絶対伝え忘れてるな」
正直、リリアーヌ先生はとても不憫に思える。ただでさえ新任だというのに、「怪物」と称されるA組に配属されるなんて、狼の群れに放り込まれた羊に等しい。優しい先生なのでA組の人も彼女を事を好いているが、一歩引いた状態での関係だ。っていうか、明後日って...。
「とりま、期待してっぞ。学年主席の黒川ちゃん? 前回は...化学も見事に満点だったよな」
「理系は固いです」
「すっげームカつくなぁ。でも、あんまし無理しすぎないようにな。また倒れっぞ。それにしても、お前の考察は興味深い! 同じ理系の人間として、オレ様、是非とも一緒に仕事をしてみたいもんだ」
「私も、高坂先生と一緒に実験をしてみたいです」
出来る事ならば、だけど。
「おい黒川、絶望しきった未来が瞳に映ってんぞー。オレ様が折角誘ってやってんだから、少しくらい希望持て。そんなに悲観しなくても、オレ様の実家もヤクザだぞ」
「え、そうなんですか?」
「とは言っても分家だがな。ヤクザって一括りで言っても、黒川んトコみたいな奴等は稀だ。前にお兄さんきたっしょ? オレ様もう怖くて怖くて...」
「そうなんですか?」
ヤクザというと、黒川組のように裏であくどい事をしたり、時には人を殺したりして生計を立てているように思えるのだが、高坂先生は否定している。事実、ヤクザは警察に追われる身だし、黒川組のような事をやっていないのならば、如何にして組を守っているのだろうか。
「...黒川、常識バグってんな」
「ば、バグ...」
「現代日本舐めんな。もう普通のヤクザは、黒川組や犬飼組のような証拠隠滅能力やコネはほとんど持ってないんだよ。だから、地道に稼ぐしかないの」
「そんなにヤクザ界が廃退していたなんて...」
「あーあ、あのイケメン野郎とずっと一緒だから、ついに黒川まで常識が吹っ飛んだ。あーあ、あーあ」
目の前の男に殺意が湧いてくる。言い方が一つ一つねちっこく、上から目線。はっきり言うと「ウザい」。ウザさの極み。略してウザキワ。
授業は好きだけど、せめて服装は直さなければ。いつも生活主任の先生にグチグチと文句を言われているのに、口調も着装も直そうとしない。
「俺は基本テキトーな没落人生を歩んでるが...黒川は色々頑張れよ。応援してっからな」
それでも、テキトーな没落人生を歩んでる先生の後ろ姿は、とても楽しそうだった。
*
「ねぇ二人共、明後日は期末らしいね」
私は教室の自分の席につくや否や、すぐ近くでボーッとしているお二人に話しかける。二人は顔を高揚させ、私の言葉に答える事なく手を握ってきた。
「無事だったか!」
「心配したんだよ!!」
そうだった、私入院してたんだった。
「見舞いに行けなくて済まなかった。後藤って奴に病室に入れてもらえなくて...」
「ごめんねサリンちゃん」
「いや...黒川さんのワガママだから、あんまり気にしないで。二人が心配してくれるだけで、十分お腹一杯だから」
手紙や花束やバスケットよりも、この二人の温かみの方がずっと嬉しい。物なんかよりも、言葉だったり表情だったりの方が嬉しい。心配してくれる人がいるというのは、とても良い事だ。
それなのに二人はしきりに謝ってくる。「悪くないよ、謝らないで」と言っているのに、まるで自分のせいで私が倒れたみたいに真剣だ。まぁ、聡に関しては、間接的に原因となっているかもしれないが、彼はメイドが暗殺者だった事なんて微塵も知らない。
あの暗殺者、私が死んでいないと知ったらまた暗殺しにくるだろうか。...しばらくは、一人でいないようにしよう。
すると、近くの女子グループの人に声をかけられた。
「あぁら黒川さん、もうご病気は大丈夫なのかしら?」
よくよく見れば、その女子グループのリーダーは鳳翔 麗子さんだった。




