睦拾参
気がつくと私は、真っ白な部屋の中で一人。近くには心電図モニターがあり、埃一つない清潔な部屋の窓からは朝日らしき何かが差し込んでいる。どうやら病院の一室のようだ。
少し目を開ければ、私の手を優しく握るあの人の姿が目に入る。眩しくて目が眩むが、その姿はハッキリと瞳の画面に映った。恐ろしくも優しい、彼の姿が。
体はもう熱を持っておらず、気怠さもない。
手を握り、ベッドに顔を伏せて眠る黒川さんの姿は泡沫の光のようにも思える。なんて綺麗で整った顔をしているんだろう。
今までイケメンは碌な奴じゃないと言ってきたが、黒川さんはそんな低俗な言葉では言い表せないなと今更ながら思う。ジッと人の顔を見るのは初めてかもしれない。目を合わせず、俯く事で人を避けてきた故に、少し変な気分だ。人の顔を、品定めするかのように見つめると、いつもとは違う何かを感じる事が出来る。麗しさに包まれた端正な顔立ち。ヤクザの組長なんて勿体ない。どうせなら、全ての事業を合法的なものにして、社長にでもなってしまえば良いのに。
何故こんなにも成功しているのに、組を解散しないのだろうか。黒川さんなりの愛着でも?
それにしても、無防備な姿だ。間の抜けた寝顔をしているわけではないものの、何だか微笑ましく感じる。いつもとはまた違った礼服のまま、深い眠りに落ちている。
その姿を見ているだけで、自然と笑みが零れ落ちる。面白いわけではない。なんだろう...微笑ましい、のかな。
普段は冷酷で、少しも隙を見せない凛々しきカリスマ組長だというのに、今はただの美麗な男の人だ。卑近なわけではないが、異様な空気が一切感じられない。
「これじゃあ...ただの真人さんじゃないですか」
「黒川」という呪いのような苗字で呼ぶべき人には到底見えない。全く別人のような空気に狼狽えたい気分を抑えるも、何故だか悲しい気持ちになった。
今目の前にいるのは私の兄なのに、何故?
「誰ーーですか、貴方」
「...貴女の大好きな、黒川 真人ですよ」
手元の男から、小さな低い声が漏れる。白い部屋に纏われた幻想が打ち砕かれ、全ての空気が戻ってきた。落ち着くーー嗚呼、これこそが黒川さんの声だ。
「起きてたんですね...!」
「えぇ。つい先ほど、目が覚めましたよ。『ただの真人さんじゃないですか』辺りから」
「す、すみません...」
「いえいえ」
ムクリと起き上がり、そのまま握っていた私の手に唇を落とす。
「これからは...『真人さん』でも良いんですよ?」
「私が好きなのは『黒川さん』なので」
「おや、嬉しいですね」
何かを企むような優しい微笑み。目は細まり、薄い唇が少しだけ吊り上がる。分からない。分からないけれど、何だかとても落ち着いてきた。
そう言えば、あの後何があったのだろうか。
「黒川さん、昨日は...」
「あぁ、私も驚きましたよ。まさか風邪を引いていただなんて。朝から気がついておけば良かった...本当に申し訳ないです」
「そんな事は...」
もしかして、殺されかけた事を知らない? ...そもそも、何で私は生きてるんだよ。てっきり死ぬとばかり思っていたんだけど。
話を聞いてみると、暗殺者が去った後にやってきた聡が只事ではないと察したらしく、すぐさま救急車を呼び、此処に運ばれたそうだ。黒川さんも聡も、きっと真実は知らない。
それにしても、私は自分が生きている事に驚きだ。あの暗殺者は「試作段階故に運が良ければ死なない」と言っていた。...どうやら、昨夜は神様が微笑みかけてくれていたようだ。悪魔かもしれないが。
「サリン、医者は一先ず後一日は入院しろと言っていました。あぁ、勿論ある程度信頼のおける女医なので、ご安心を」
「...はい、すみません」
「何故サリンが謝るんですか。疲れていたんですね、ゆっくりして良いですよ」
目が笑っている。どうやら、このまま何も言わなければ暗殺者の事はバレずに済みそうだ。本来ならば黒川さんに真実を話した方が良いのかもしれないが、神楽坂先輩にも何かしら事情があったのかもしれないし、必ずしも暗殺者が本当の事を言っていたとも限らない。
確証が得られるまではまだーー先輩と後輩の関係を崩したくない。やっと平和を取り戻したのに、血を流したくない。
「ありがとうございます」
「本当なら入院なんかじゃなくて家でゆっくりと休ませてあげたいんですが...それで悪化しても困りますし、何と言っても何もない空間でサリンを占領出来ますからね」
「はは...」
どうせなら私は家が良いでーす。病院は夜が怖いから嫌でーす。
「仕事は大丈夫ですか?」
「一日だけですし、私が抜けた所で困る人間がいても別段構わないでしょう」
相変わらずの性格の人だ。企業のトップとしても、裏組織のドンとしても、なくてはならない存在。基本的には多忙ではないだろうが、仕事も少なからずあるはずだ。
まだ海外マフィアとの取引も進んでいるようだし、麻薬売買なんて今度は自分達で新しいクスリを開発し出す始末。もう薬品会社に乗り換えませんか、黒川組。
「ゆっくりと、休んでくださいね」




