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参拾漆


 それからの事は、よく覚えていない。

 私は黒川さんに服を着せられ、すぐさま保護された。

 私を襲った生徒達は、流石にこれはやり過ぎだという事もあったが、黒川さんが学園に一番多く寄付しているという事で、一ヶ月の謹慎処分となっていた。

 そりゃそうだ。流石に同情の余地はない。


 私は一週間休む事を許されーーというかほぼ強制だったがーー家に帰った。



 黒川さんが助けてきてくれたのに、まだ震えが止まらない。

 まだあの恐怖が拭えなかった。

 口では強い事を言っても、やはり怖いものは怖い。



 黒川さんは帰りの車で一言も言葉を発しない私の肩を優しく抱き、ただ無言でいてくれた。

 たったこれだけでも、私はどれほど心強かった事か。

 私はこの温かさをどうしても離したくなくて、黒川さんのスーツの裾をギュッと握りしめていた。


 彼は、私がイジメられていた事を黙っていた事について責めなかった。

 学校側からの説明が調査により、私が私物を捨てられたりしていた事は明らかになるはずだ。折角隠し通していた事も、結局は黒川さんにバレてしまうのか。



 何をしても上手くいかない。

 何をしても邪魔される。


 私は一体どうすれば、学校内で浮く事もイジメられる事もなく、楽しく過ごせるのだろうか。


 取り巻き曰く、今の所の原因は、成績と容姿と存在。

 成績を落とすのは個人的に我慢出来ないから無理。

 自分でも容姿が良いと自負しているけど、この顔を傷つけたら黒川さんが怒るから無理。

 存在を消すなんて論外。おい、私には手段がないじゃないか。


 一番確実でこちらとして都合が良いのが、ジャパニーズプリンスがもっと勉学に励み、和宏さんの興味関心を逸らし、麗華さんの体調管理を見直す程度。

 ...こっちの方が簡単じゃんか。


 でもジャパニーズプリンスはほぼ満点だからこれ以上頑張れないかもしれないし、和宏さん子供っぽいから諦めるという選択肢がないかもしれないし、麗華さんはもう言いがかりっぽいし...



 これでは、本当に私が学園を辞めるか、我慢し続けるしかない。

 でも、そんなのは嫌だ。逃げているようで、目を背けているようで。


 それならばどうすれば良い? 私は誰も傷つけたくない。誰も傷つけさせたくない。

 それならば、どうすれば良いのーー



 *



 家に着くと、私は着替えもせずに部屋のベッドに寝転んだ。

 体が小刻みに揺れ続け、まだ恐怖に苛まれている。

 黒川さんは部屋の明かりをつけると、ジャケットを脱いで私の近くに座り、頭を撫で始めた。


「ねぇサリン。苦しいですか? 悲しいですか? 怖いですか?」

「...」

「答えてくださいサリン。どんな感情でも良いから、私に教えてください」


 ふと頭を撫でる手が止まった。

 私は自分の中にあった気持ちを、一部だけ吐き出す。


「怖かったです。あの先輩が。黒川さんが来てくれなかったら私、どうなっていたか...」

「そうですよ。だから思う存分、私に感謝しなさい。私でもあそこまで脱がせた事はなかったのに...羨m...失礼。許せませんね」


 私は起き上がって、頭に置かれた手を取った。

 黒川さんは不快そうな表情をしたが、すぐに笑顔を取り繕った。


「どうしましたか?」

「...私って、何で人に嫌われるんでしょうか?」


 幼い頃からの疑問。


 何故私は人に嫌われるのか。


 特に年齢の近い人には、嫌われやすい。

 友達なんて碌に出来た事なんてなかった。


 黒川さんは少し考えたが、真っ直ぐな目を向けて答えた。


「嫌われてるんじゃない」

「そうですかね...?」

「えぇそうです。サリンは嫌われてなんていない。



...誰からも必要とされていないだけです」


 抑揚のない冷たい言葉が、私の心に突き刺さった。

 心臓がドクドクと鼓動を上げる。

 胸の真ん中が痛くて、私はつい手で押さえてしまった。


 黒川さんの感情のない言葉が、頭の中を回り続ける。


 「誰からも必要とされていない」?

 ...それだけは考えたくなかったのに。考えたくなかったのにーー


「サリンの存在は、誰からも望まれていない。逆に疎ましいくらいなんですよ。いるだけで周りに悪影響を及ぼす。分かりますか? 誰もサリンの事は嫌っていない。ただ必要ないから、無視しているだけ。さっさといなくなってほしいから、傷つけているだけ」

「そんな事...」

「いいえ。そんな事あるんです」


 嫌われているのではなく、必要とされていない? 

 まぁ、それならそれで良いかもしれない。意識されないだけマシだ。

 それなら私は一人になれる。


 私を唯一必要としてくれた父はもういないけど、私は一人だけど、誰かに嫌われるよりかは良いかもしれない。

 存在を意識されないだけ、まだ...。


 それでも、やはり悲しかった。

 目の前の現実を無理矢理突きつけられ、おまけに昼の事件だ。もう私の心は、これ以上の負荷には耐えられない気がする。

 言葉が何よりも重くのし掛かり、刃物を突き付け続けた。


「誰からも愛されない。誰からも意識されない。まるで空気のような可哀想な子ですね。好かれようとどんなに勉強しても、強くなっても、結局は誰も振り向かない。笑みを向けてくれない。声さえもかけてくれない。貴女にはそんな価値もない」


「カーストは心地よかった? それとも嫌だった? 何れにしろ、最底辺まで落ちた優等生サリンは、結局は薄汚れた奴隷同然だ。だってそうでしょう? 貴女の純潔でさえも、あのような扱いなのだから」


「『早く消えれば良いのに。死ねば良いのに』、皆そればかり思っていますよ。存在価値のない人間を誰が大切にしますか。いくら優秀でも、貴女にはその価値がない」


「後藤も桜桃サクラも犬飼修も、サリンを大切になんて思ってませんよ。私に近づくための口実。信用を深めるための手段の一つ。ただの道具。あってないような存在。必要のないモノ」


 何でそんな事を言うの?


 正論が正論なだけに、何も言い返せない。

 ただ鋭い言葉が、何度も何度も私に刃を向け、何度も何度も私にその鉄を振り下ろす。

 心が抉り出されたように痛かった。信用していた黒川さんがこんな事を言うなんて、信じられなかった。誰の言葉よりも辛かった。


 目尻には熱い液体が溜まり、私は顔を上げる事が出来なかった。

 顔を俯かせ、黒川さんの顔を一切見ない。途端、黒川さんがその大きな腕で、私を強く抱きしめてきた。


「でも、それでも...私は...サリン、貴女が欲しい」


 ーー今彼は、何と言った?


「全てを投げ打ってでも、サリンが欲しい。私だけは・・・・、サリンを必要とする。心の底からサリンを愛する。貴女を傷つける人間なんて、この世界には必要ない。私とサリンだけで十分。でしょ?」


 ーー今彼は、何と言った?


「私だけはサリンを求める。下心もなければ妬みもない。ただ一心にサリンが欲しい。大切な私の家族。大切な私の妹」


「私だけを頼れば良い。サリンが傷つくような事は、私はもうしない」


「私はサリンだけを見る。だからサリンも、私だけを見てください。私だけを必要としてください。私だけを、愛してください」


 黒川さんの言葉は、温かかった。

 先ほどとは打って変わった彼の気持ち。

 それが何よりも欲しかった。


 彼の言葉は傷ついた私の心を、優しく熱を帯びて癒し続ける。

 

 もっと言って。

 もっと強く抱きしめて。


 もっと私を必要としてください、黒川さん。


「愛していますよサリン。この世の中のーー何よりも」



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