参
「これって...」
中学校の靴箱前に、一人佇む少女。
少女の手には、何か手紙のようなものが握られている。...はい、私です。
私の人生が変わった日から、約一ヶ月が経った。そう、私が「黒川」になったから、一ヶ月。年月とは早いものだ。
本当、この一ヶ月間、常に何かが変動したような気がする。
ヤクザの組長のくせに、黒川さんはいつも私の事を考えてくれている。でも、中学校の参観日は来なくて良いんですよ...同級生やその親や先生方が凄く怖がってました。
そして今日、部活を終わらせたは良いものの、教室に忘れ物をしてしまった事に気がついた私は、急いで焼香グリに駆け込んだ。
だがその時、ある事に気がついた。
私の靴箱の上履きの上に、丁寧に手紙が置いてあったのだ。便箋に入れられ、ノリで封がされている。
悪戯かもしれないが、一応見てみよう。
『黒川 佐凜さんへ。
明日の夕方五時に、武道場で、剣道の試合を申し込みます。貴女は剣道がとても上手いと聞きました。是非そのお力を、僕も見てみたいものです。
楽しみにしています。 2ー3 犬飼 修』
剣道の試合を申し込んで来た、この犬飼 修という人。聞いた事がない名前だなぁ。
まぁ、私は人の名前をあまり覚えようとしないからこうなるのだけど。
そういえば、誰かが三組にイケメンが転入してきたとか言っていた。もしかしたらそれかもしれない。私は二組だから、隣のクラスだ。
そんな事を考えていると、雨が降って来た。
ーーマズい。今日は傘を持って来てないんだった。天気予報のお姉さんめ! 私に風邪を引かせたいのか?!
仕方無い。傘立てに数本置いてあるから、拝借しよう。
「サリン〜、寒くないですか〜?」
「...寒くないです」
結局、良心に負けてしまった私は、傘を拝借せずに雨に濡れながら走って帰った。土砂降りなんて聞いてない。
私は、髪も制服もカバンも竹刀入れもビショビショの状態で帰宅した。
部屋に真っ直ぐ戻ってすぐに着替えると、私は髪をドライヤーで乾かし始めた。髪が大分乾いて来た頃に、雨に濡れたバッグと竹刀を見て、私はため息をついた。
すると、
「フフ...」
耳元でやらしい声が聞こえたかと思うと、私は後ろから強く抱きしめられ、ついドライヤーを落としてしまった。
黒川さんだ。彼は腕を伸ばしてドライヤーのスイッチを切ると、再び強く抱きしめた。
「ず〜っと見てましたよ〜」
「...」
『ず〜っと見てた』という事は、着替えからため息までずっとという事だ。だが、今更キャーキャー言うわけにもいかない。部屋が一緒にされているわけだから、着替えを見られるというのは日常茶飯事だ。
黒川さんは恐らく...私の事を妹として、み、見ているわけだから! そこに別の気持ちはないと思う!! だから私は、始めから文句も言わずにやってきた。抱き枕だしね、扱いは。
「サリン、寒くない?」
「...寒くないです」
天気予報のお姉さんめ。お前の所為でこうなったんだぞ!!とも言えないよね。別にこうなったのはお姉さんが悪いわけじゃないよね。自信満々のドヤ顔で、「今日は晴れ」だと予報したお姉さんを無視して傘持って行けばよかっただけの話。うんその通りだよまったく。
私はその後、夕食もとらせてもらえずにベッドに押し倒されて朝まで抱き枕にされたわけだが、あの手紙を件は話さなかった。
嫌な予感しかしなかったし。
*
「もう少しで五時か...」
翌日。
私は学校の武道館で犬飼 修を待っていた。
一体どんなものだろうと、袴やら防具やらを着て竹刀を持って待っているわけだが、一向に彼は現れない。壁際に置いてある面と小手が何だか可哀想だ。
まぁ、ギリギリに来ても来なくても、正直私は良いのだが、剣道部や柔道部の連中がピリピリしているのを感じ取った。と同時に、何やらワクワクしてもいた。
彼らも知っているのかもしれない。と思った時、女子剣道部顧問の先生が入って来た。
「く、黒川さん...!! あ、そのーー」
「先生。結構です」
先生を押しのけて、入って来たのは、左手に竹刀を持つ、袴姿の少年だった。竹刀を振っていた女子は、その腕を止め、うっとりとしたような表情を見せて、ため息をつく。
まぁ、それなりに爽やかな少年だという事は分かるが、ため息をつくほどでもない。
「犬飼 修です。黒川さん」
少年は、胸に右手を当ててお辞儀をした。随分と礼儀正しい子のようだ。修と呼ぼう。
「黒川 佐凜です。貴方が手紙を...」
「その通りです。お会い出来て光栄です。一度、貴女に会おうとご自宅に訪問を試みたのですが、追い返されてしまいましてね...」
修は優しい笑みを浮かべた。
「一戦だけで構いません。竹刀を交えてもらえませんか?」
「えぇ、お受けします。でも、普通に誘ってくれたら練習試合程度したのに...」
そうして、防具をつけ始めた。
剣道歴はそれほど長いというわけではないが、それなりに続けている。
自分が強いという意識はあれど、その中で勝負を挑まれたのはこれが初めてだ。トントン拍子に話が進んで行く事に不安を覚えつつある私は、立ち上がってため息をつけた。剣道は、面をつけた瞬間に勝負が始まる。
準備が整った二人は剣道場の真ん中まで行くと、定位置に着いた。そして、竹刀を構える。
「あ、ちょーー本当に...やる...つもり、です...か...」
この殺気の中で言葉を発した先生は、実は凄い人なんだと思う。
私は修を見る。
「...いえ。大丈夫です。時間はかけたくないので。あまり時間は取らせませんよ」
その威勢の良さ、嫌いじゃないよ修。
「もちろんです」
「一本勝負でいきましょう。黒川さん」
試合が始まって、修は最初こそは余裕の表情をしていたが、だんだん焦りが見えて来た。
私は段々と攻めを強くしていた。得意の騙し討ちと胴打ちのコラボを、隙をついて何度も繰り返す。それを防ぐ彼も、相当強いのだろう。
だが、勝敗はすぐに決まった。
「面!」
「っ!!」
引き面は清々しい音をたてる。私の勝ちだ。だが、少々強く打ちすぎたようだった。彼は頭の中に音が反響しているのか、少し頭を抑えている。
「だ、大丈夫ですか?」
「はい...」
修は座り込んだ。私は女子でも筋力がある方らしく、左手にしか力を入れずとも、その強さは健在している。
私は彼に駆け寄った。
「強く叩きすぎてしまいましたね...」
「いえ。大丈夫」
「ご、ごめんなさい...」
周りの人達は唖然とした。私の此処まで心配そうな顔を見たのは、どうやら初めてだったようだ。口を魚のようにポカンと開けている人もいる。
戸籍上はあの人の妹だけど、根は普通の人間なんだから。そこまで吃驚しなくても...。
「...ふぅ、組長が欲しくなるわけだね」
「え?」
修は立ち上がった。
「ありがとうございました。とても良い経験でした。またお願い出来ますか? 今度は...三本勝負で」
「あ、はい...」
*
「と、いう事があったんです」
「あーなるほど。サリンは私に黙ってそんな事してたんですねー。ふーん。へー」
怖い。
何が怖いかって? いや、想像つくでしょ、黒川さんだよ。
家に帰ってからというもの、私は恐怖に包まれていた。
まず、微笑みながらも目が全く笑っていない黒川さんに出迎えられ、客間に連行され、何故かそこには修と知らない穏やかそうな若い男の人が居て、何故か銃つきつけられて、何故か脅されて、何故か武道場であった事を強制的に話させられた。
こんな事されてもポーカーフェイスの私は、もうこの世界に慣れて来ているのかもしれない。
でも止めてください。ソファに押し倒して私の上に股がって、眉間に銃を押し付けるのはやめてください怖いです。
「黒川さん。妹さんが可愛くて仕方無いのは分かりますが、好い加減銃を下ろしたらどうですか? 私も、話したい事がありますので」
妹が可愛くて銃をつきつける馬鹿が何処にいるんだよ。
「ハァ...仕方がない」
黒川さんはそう言うと、銃を懐にしまって私の上から退いた。私は起き上がってソファに座った。修は、何とも言えない気まずそうな顔をしている。
「それで...本題に入っても良いですかね?」
「えぇ。どうぞ」
「では、自己紹介しましょう」
穏やかそうな男性は私を見た。修は、彼を心配そうな顔で見つめる。
「私の名前は、犬飼 颯太です。佐凜さん」
「どうも...黒川 佐凜です」
「弟はご存知ですよね?」
「...あ、ども」
修は、私を見ると微笑した。どう答えれば良いのか分からないのだろう。私もだ。
「サリン、彼は、仕事仲間なんです」
「仕事、仲間...」
って事は、この人もヤクザか。
如何にもいい人!!って感じの方なんですが...やっぱり人は見た目によらないんだね。
「柔道部」のいかつい怖い先生だって、家では可愛い子猫飼っててヒヨコが大好きらしいから。いや関係ないか。
「その通り。私は『犬飼組』の組長をしています。今日は、弟がご迷惑をおかけしました」
「う、うるさい...!」
修は、犬飼さんをキッと睨んだ。
ハハ...迷惑だよ本当もう。修くんが説明してくれれば良いのに。何で私が銃つきつけられながら説明しなくちゃいけないんだよ...。
「すみません。弟は『剣道馬鹿』なもので。元はと言うと、我が組と『黒川組』が取引するために、そちらの組長さんとも仲良くするため、弟に頼んで貴女に近づけさせたのですが、あんなやり方で...」
しょ、正直なんですね...犬飼さん。
なるほど。黒川さんと仲良くするために、まずは私から引き込もうとしたわけだ。
というか、修くんも修くんだよー。何で普通に話しかけてくれなかったのさ。そしたら喜んで友達になったのに。まぁ「剣道馬鹿」らしいから仕方ないけど。
でも...
「取引、というのは?」
「麻薬です」
「...」
ワー、「まぁ焼く」ダッテー、ナニヲヤクノカナー。ナンダロウナー。
「フフ、犯罪臭が凄いでしょう?」
「私は、もうそんな犯罪に自らの手を染める気はありませんよ? 巻き込むつもりなら、私...お、怒りますよ!」
「...あぁ、可愛い」
あぁ! 狼狽えながら「怒りますよ」って言っちゃった! 怒れないのに...修くんも呆れた目で見ないでよ...。
「怒った所でどうにもならないんだけどね...」
「悪足掻きだよね...」
犬飼さんと修くんは顔を見合わせる。夢くらい見させてください。
「もー可愛いなーサリンは!」
「きゃっ...」
「あぁもう、可愛い〜!」
あ、ちょーー突然抱きつかないでください! やめて! ヘルプミー!! ちょっと! そこの傍観者! 助けやがれ!ってーー。
結局、私は「麻薬取引」に加担する事になってしまったぐす。
黒川さん曰く、絶対に咎められない役割らしいが、これで犯罪者の仲間入りと考えるとゾッとする。いや、犯罪ではないけれど、ギリギリな事はした事がある。でも、あれは仕方が無かったし...悔やんでたから...許される事ではないけれども...。
修くんも参加するらしい。
ちなみに、取引内容は「黒川組」から「犬飼組」への麻薬の売買らしい。
「サリンの役割は、取引場所周囲に設置した、防犯カメラのチェックです。怪しい人影を見つけたら、すぐさまこのボタンを押してください」
部屋に設置された二台のバソコンと赤いボタン。取引現場はとある廃墟。抜け道や隠し場所が大量にある、取引にはうってつけの場所だ。
「あぁ、怪しい人間がいても、わざとボタンを押さなかった場合は、後藤が私に通報します。彼が後ろで銃を持っている事を忘れないでくださいね?」
この仕事を他の誰かではなく、私にやらせる理由は分かってる。犯罪に加担させる事で、私をこの檻から出られないようするためだ。もし仮に警察に駆け込んだとしても、私にも罪がある。例え捕まらなくても、咎を背負うようなものだ。自分で自分の首を絞める事になる。
この取引は、「麻薬」の売買だけでなく、私が逃げられないようにするためのものでもあるのだろう。
そして、取引当日。二台のパソコンは、中で四つに分かれ、映像が映し出される。そして、黒川さんの持つトランクケースの中には、およそ百グラムにもなる麻薬。犬飼さんは、それ相応のお金を用意し、取引は成立。
のはずだった。
「ねーサリンー」
取引の夜、取引場所に行っているはずの黒川さんは、微笑んではいるが、全く笑っていない目で私に迫った。素直に怖かった。
「な、何ですか...?」
「最後の下見に行かせた部下。一時間くらい前に帰って来たんだけど、何て言ってたと思いますか?」
「...」
「サツが張り込みしていやした!」的な? いや予想。
「『サツが張り込みしていやした!』だって。一体誰が情報を垂れ流したのでしょうか? フフ...」
冷たいナイフが、私の首元に押し当てられた。後も少し力を入れたら血が出るくらいだ。
「ねぇ、誰だと思いますか〜?」
黒川さんはきっと、私を疑ってる。ーー殺される。
そんな事を考えていたら、私の顔を何か液体のようなものが滑り落ちた。
「ん?」
黒川さんは少し驚いた様子を見せた。この液体は涙だ。私は静かに泣いていた。
怖かった。殺されるって思うと怖かった。お父さんまで殺されると思うと、本当に怖かった。私は唇を噛んで、泣きじゃくりたいのを堪えた。日々のストレスと恐怖が、バッと押し寄せる。泣きわめきたかった。
唇を噛む力が一層強くなる。それと同時に、黒川さんのナイフを押さえつける力も弱まる。
「フフ...可愛い」
遂にはナイフを下ろして私をギュッと抱きしめた。
「疑ったりしてすみません。貴女は裏切らない事を、私が一番よく知っているというのに」
いいえ黒川さん。私は裏切らないんじゃない。
裏切られないんですよ。