弐拾睦
私の一言で、黒川さんの表情は一変した。
一瞬にして表情が死に、代わりに殺気立った目を私に向ける。
恐ろしかった。彼は濃い緑色のネクタイを緩め、私に迫る。明らかな嫌悪が見え、私は目の前の男性の恐怖におののいた。しかし、父の喪失以上の悲しみと恐ろしさは存在しない。
もう何をされても構わない。ただ、真実が欲しかった。父が死んでしまったのならば、私は黒川さんを心から憎むだけだ。そして、もう二度と何も感じる事などない。
私は黒川さんをジッと見つめた。尊厳だとか想いだとか、そんなものはもうとっくに捨てている。壊してくれるのなら、逸そこのまま壊してくれて構わない。
「...サリンは、反応が鈍くなりましたね」
「質問に答えてください」
「...良いでしょう。今日は機嫌が悪いので、部屋で飲みながらお話しましょうか...」
黒川さんは、笑みを浮かべる事などなかった。そして私もまたーー
*
部屋へ上がり、私はビンテージのワインの栓を抜き、大きなグラスに注いだ。血のような真っ赤な液体を口に運ぶ黒川さんは、吸血鬼のようだ。その心証を読み取ったかのように、黒川さんはスラスラと喋り出す。
「サリンの血は美味しそうですね。サリン自身も、甘い味がしそうです」
「カニバリズムですか? ...体壊しますよ」
「ありがとう。それでも、ちゃんと私の愛で調理すれば、依存した、サリンが出来上がるんですよ」
文字のギミックが隠れていそうだが、私は黙っていた。ただ、黒川さんに揺るがない強い視線を送るだけ。
まだ父が死んだとは決まっていない。当麻さんの嘘だ、という事を信じたかった。もう嫌だ。疲れた。あぁ、もう食べられても構わない。
「...黒川さん、質問に答えてください」
「...サリンの、父親ですか? あぁ、あれはもう父親ではありませんね。赤城...何でしたっけ?」
「翔太です。お願いします、答えてください。私の父は生きているのですか?」
黒川さんはただワインを口に運ぶだけで、私の問いには答えてくれない。止めて...もう貴方を信じられなくなる。
彼は、目を瞑ってグラスの中身を堪能しているだけだ。私は何度も訴えかけたが、聞き入ってはもらえない。楽しくも、悲しくも、怒ってもいない黒川さんの姿は、憎たらしかった。自分の真剣な言葉に耳を傾けてくれない黒川さんの冷淡さが、辛かった。すると、彼はため息混じりにつぶやいた。
「...答えてあげても良いですよ」
「えっ...!」
「ただし、それがどんな内容であっても...」
黒川さんは優しい笑みを浮かべる。
「サリンは私と一緒にいてくれますか?」
「...はい。何と答えられようとも、私は黒川さんと一緒にいます。もし仮に逃げようとしても捕らえられますしね...」
「正直ですね」
本当にその通りだ。しかし、私が黒川さんを心から憎いと思っても、私は彼と一緒にいる。黒川さんが父を殺したとしても、私は彼と一緒にいる。
父が生きているのならそのままだ。もし、もし仮に死んでいたとしたらーー私を壊してくれるのは黒川さんだけだ。私を傷つけてくれるのは黒川さんだけだ。決して快感を覚えているわけではない。父を殺すのなら、絶対に黒川さんが自分で手を下すはずだ。それならば、私も同じ手で全てを終わらせてほしい。ただそれだけだ。
「...赤城 翔太、でしたね。彼は...はぁ、まだ生きていますよ」
黒川さんの言葉ーー息ができなかった。残酷な程無視して、それでも私の望む答えを彼は出してくれた。心が一気に軽くなった。涙が溢れてきそうだったが、私は必死にこらえる。黒川さんは、私が自分以外の事で涙を流す事を嫌う。
嗚呼、当たり前のはずなのに、とても嬉しかった。安心した。当麻の言っていた事が嘘だと分かって、私は安堵のため息を漏らした。
高鳴る胸はまだ鼓動を鎮めてくれない。黒川さんはそんな私を見て楽しそうに笑った。何かを隠しているかのような笑みだったが、そんな事私は気にならなかった。
「サリン、そんなにあの男が大事なのですか? 私以上に?」
「...何でそんな事聞くんですか?」
「だって、もの凄く嬉しそうですし...もう何の接点もない男を気にされたら、私は耐え切れませんよ。そいつが憎くて憎くて仕方がなくなる。だって、私のサリンの心を占領し続けるだなんて、許せませんからね」
「...」
黒川さんが最初、私の問いに答えてくれなかったように、私は黒川さんの問いには答えなかった。もし父が大事だと言ったら、彼は確実に父を殺す。もし黒川さんが大事と言ったら、監禁されかねない。濁しておく方が一番安全なのだ。
「良いですよ、答えなくても。そんな事聞かなくても、サリンが一番大事なのは私だという事...知っていますから」




