弐拾伍
「嘘...言わないでくださいよ」
最後の武器は、私の足元に転がっている。
でも、そんな些細な事は気に止まらない。
身体中が震える。
どんな痛みよりも、石井先生のその言葉の方が、私にとっては辛く苦しいものだ。ありえない、そんな事...ありえない。
「嘘じゃない」
「嘘つき...黒川さんは、私にちゃんと約束してくれました!」
我ながら、子供みたいな言葉だとは思う。
けれど、今の私にはこんな拙い言葉しかつむぎ出す事しか出来ない。
すると、当麻さんが顔を上げて反論をしてくる。
「いくら君の前では優しい紳士でも、実際の所は冷酷な悪党だ! 黒川は!! 何でまだあんな奴を信じているんだ...君の父親を、黒川が生かしておくわけないじゃないか」
「嘘だ! 嘘だ嘘だ! お父さんは、元気なんだよ。新しい人生で、幸せで、笑顔で、平和で...」
黒川さんの性格は、よく分かっているつもりだ。
当麻さんの言葉は、あながち嘘ではないのかもしれないと...私の中にある冷静さの欠片が教えてくれた。
黒川さんは、自分の欲しいものは絶対に手に入れる。そして、絶対に自分だけのものにする。自分のものが他者の手に渡る事を何よりも嫌がる。
私は、父を幸せにする、もうこれ以上黒川組は関わらないと、その条件で自分を売った。
私はそれ程までに、父が好きだ。
黒川さんならば...そんな私は嫌なはずだ。
関わりがなくなっても尚私の心を占め続ける父が、赤城 翔太が...憎たらしく感じるのだろう。
だから殺して...その事は私には話さないで、ただただ自分に溺れさせる。そうすればいずれ父の事なんて忘れるはずだから。新しい幸せを手に入れれば、自分だけを見させれば...父の事なんて忘れるはずだ。
ーー彼ならきっと、そう思う。
前から分かっていた事だ。
でも、確証がなかったし...黒川さんに直接聞くわけにもいかなかった。
...そう、当麻さんの言葉にも確証はない。
いくら真実であろうとも、私は、父の遺体を突きつけられない限り信じない。絶対に。
私は涙を飲み、未だしゃがみこんでいる当麻さんを思い切り蹴り飛ばした。
仰向けに倒れ、私に鋭い視線を向ける。
悪いけど...仕方ない。
「ッ!」
「死んでください」
私は落ちた銃を手にし、再び当麻さんに突きつけた。
当麻さんの傷口からは、絶え間なく血が溢れ出していた。このまま私が撃たずとも、いずれは多量出血で死ぬ事になるだろう。
途端、石井先生の取り出した銃が、私の右肩を撃ち抜いた。
今にも当麻さんを射殺しかねん勢いだったからだろう。
銃で撃たれたのは初めてで...でも、黒川さんに印を刻まれたあの時よりは痛くない。
ただ、自分が虚しく感じた。手に咲いた紅蓮を妙に美しく感じながら...私は意識を失った。
*
気がつくと、私は揺れる温かい場所で寝かされていた。肩は若干痛んだが、少し疼く程度だ。
どうやら、広い車の中のようで、私の上には毛布がかけられている。
小さな親切でも、私にとってとても大切なものを感じられた。どうやら、幅の広い普通の車のようで、黒川家のリムジンではない。運転席に座っているのは、一体誰だろうか。
「誰...?」
「お、起きたか。後藤だ」
「後藤、さん...いたっ...」
私が起き上がろうとすると、収まっていたはずの肩の痛みが湧き上がってきた。すると、バックミラーで私の様子が見えたらしく、後藤さんは慌てて呼びかける。
「おい動くなよ...俺が弾を取り出したんだ。もう麻酔切れてるけど、痛むだろ?」
「後藤さんが...手術したんですか?」
「あぁ。一応医師免許はある。大丈夫、手術痕は残らないようにしておいた。組長も気づかないさ」
「そうですか...」
窓からチラリと見えた景色は、夜の美しい東京。今から家に帰るのか。
「何があったんですか?」
「お前を助けに行ったら、倒れていた。それだけの事だ」
「...何で、早く止めてくれなかったんですか?」
「それは、ちょっとその時にいなかっただけだ」
「...、...私の父は、死んだんですか?」
沈黙が耳を引き裂いた。
騒がしいはずの東京が、一瞬で静まり返った気がした。それはまるで私の心を表しているかのようで、虚に感じる。
後藤さんは一切答えてくれなかった。私の問いは、ただ静かな世界で空回りをしただけだ。答えてくれないという事は、もしかして本当にーー
「それは、俺の口から答えを出す事は出来ない。知らないからな、どうなったかは。もし知りたいのなら、自分で組長に聞く事だ。何を言われるかは分からないが」
「...黒川さんにーー」
*
車はやがて家にたどり着いた。遅くなった事の黒川さんへの言い訳は、「部活」にしておけという事らしい。
かなり休んでいたし、黒川さんも自分の好きな事くらいは許してくれるだろう。
車が黒川家の領域に侵入した瞬間、私の背筋は凍った。
黒川さんの殺気だ。車の中まで伝わって来るこの気は、触れる事すら恐ろしい。
恐る恐る車から降りると、そこには腕を組んだ黒川さんが立っていた。
一見して端正な顔立ちの若者なのに、その目は無機物のように生気がない。
「おやおやサリン...こんなに遅れておいて、私をどれだけ心配させれば気が済むのですか?」
「すみません、部活が長引いて...久しぶりだったので...」
「知っていますか? 人というのは、嘘をついた時に気いてもいない事を話してしまうものなんですよ?」
静かに笑う黒川さんに、私は率直な問いを投げかける。
「お怒りの所申し訳ないですが、一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」
「...良いでしょう」
「...黒川さん、私の父は、生きているのですか?」




