弐拾肆
「離して!」
一瞬の迷いはすぐに断ち切れた。
目の前の男を振り払う事さえ、助けを拒む事さえ、私はもう迷わなかった。
私は当麻さんを突き飛ばし、その場で立ち上がった。
身体の奥底から熱がこみ上げるような感覚と同時に、片目からは何かが流れ出す。
新しい銃を抜いて、私はしゃがみこむ当麻さんの頭に突きつける。
今此処で引き金を引けば...彼は死ぬ。でも、そんな事...出来ない。人を殺めるなんて事、私には出来ない。私はもう...これ以上手を汚したくはない。
黒川さんの喜ぶような事はしたくない。早く立ち去りたい。家に帰りたい。消えてしまいたい。
当麻さんはそれでも動かない。ただ、ピクリとも動かず、小さく呟いた。
「君は...それほどまでにあの男に侵されてしまっているのか」
「一体何の事?」
「愛しているのか? 黒川を...黒川 真人を」
ーー黒川さんを、愛しているか?
それは...私には分からない。
私はあの人が嫌いだ。でもそれと同じくらい...愛しているとまではいかないが、好きだ。
嫌いで、好きで...何方なのかいつも分からない。
黒川さんに対して抱く感情が一体何なのか、私には分からない。
だから私は、何も言わなかった。
「そうか、答えないのか。では教えてくれ。何故そんなに黒川 真人に執着するのかを」
この男の一言一言に腹が立つ。
すぐにでも殴りたい衝動が自分の中で波打つ。でも、出来ない。
人を傷つけるという事は、自分の心さえも同時に傷つけるという事を、今日私は知ったから。人を痛みは、自分の痛みだ。
まだ私は人の心を持っていたい。黒川さんのようにはなりたくない。
この男の言葉は、全て正しい。
だって私は、黒川さんに侵されているんだもの。そう、黒川さんの思想に、侵されている。
日々を重ねる毎に、私は黒川さんに依存し、いつしか自らその背中さえも追うようになった。全てが疎ましくて、全てがどうでも良くて、笑う事さえも忘れていた。でもあの人はそんな私を見て、今まで以上の笑みを浮かべるのだ。
廃人と呼ばれても仕方がない、それが今の私。
少し人間味のある機械、それが今の私。
それでも私の中には、まだ幾つか感情が残っている。
「私の父...私のお父さん...」
震える唇から、小さな声が漏れた。
耳を澄ましてやっと聞き取れるような、蚊の鳴くような声だった。
自分の口にした言葉で、黒川さんによって塗りつぶされた懐かしい思い出が、色鮮やかに蘇る。
父と歩んだ人生は、何よりも楽しかった。何よりも平和だった。お金がなくても、誰かに暴力を振るわれても、美しい日々だった。互いを重んじ、大切にする家族だったんだよ、私達はーー
感情が今にも爆発しそうで、いざよっていた。
「私が逆らったら、父は殺されるんです...だから早く家に帰してください。此処は何処?!」
全身が波打ち、狂気が空気を切った。
今まで私を守ってくれた、愛してくれた父を、今度は私が守るんだよ。助けるんだよ。愛するんだよ。
だから早く家に帰してよ。私はどうなっても構わない。どんな苦悶の表情を浮かべる事になろうが、どんなに酷い行為をされようが、折檻されようが、ナイフで刺されようが、火あぶりにされようが売られようがバラバラにされようが殺されようが...私は父が笑顔ならそれで良い。
父が平和な日々を送れるのならそれで良い。
すると、そんな私を先生は嘲笑った。
「本当、純粋でバカだなぁ黒川は」
「...死にたいですか?」
「いんや、俺はまだ死にたくない。でも、一つ良い事を教えといてやる」
私は当麻に銃を突きつけながらも、石井の方に目を向けた。両者の鋭い目が重なり合ったと思えば、彼はとんでもない事を口にした。
「ハハッ...殺されたよ、赤城 翔太は。黒川 真人にね」
途端、全身の力が抜け、私は銃を取り落とした。




