佰壱 ーBad Ending 後日譚ー
読まなくても良いけど、読んだら大方の謎は分かる話になってます。
ーー西園寺 聡視点ーー
「おっと、お前は...西園寺のとこの」
バーで一人、サリンとの記憶を呼び起こしながら飲んでいると、とある男に話しかけられた。
強面で目付きが悪く、傷だらけの手を持つ見覚えのある男。
はて、一体誰だったか。
「悪いが、今は感傷に浸ってるんだ。話しかけないでくれ」
俺は、あの女をーーサリンを追いかける気にはなれなかった。
彼女を追い詰めたのは俺だし、忘れられて当然だ。無理矢理に思い出してもらおうなんて、思わない。
「俺の事覚えてるか? 後藤 謙次だ」
「さぁ? 知らないね」
話しかけるなと言ったにも関わらず、男は俺に喋り続ける。
おまけに隣に座ってきやがった。
「じゃあ、サリンちゃんの事は?」
「...」
「なるほど」
後藤 謙次ねぇ...そういえば、あの日、俺に銃とナイフとトランシーバーを渡してきた奴が、そんな名前だった気がする。
「それで、サリンの護衛は良いのか? 後藤さんとやら」
「お、やっぱ覚えてんじゃん。...今、俺の護衛は不要だよ。何てったって、お二人で部屋に戻ってしまったしな」
「...」
やはりあれは、サリンと黒川 真人だったか。
そして目の前の男は、事の全てを知っているのだろうか。
サリンが何故、俺の事を覚えていなかったのかーー単に成長して顔立ちが変わったからとか、そういう問題ではないはずだ。
ちゃんと名乗ったし、あれから声変わりもなかった。
「聞きたいか? サリンちゃんがあの後、どうなったか」
「...聞きたいが、聞きたくない」
「何方だ?」
「それよりアンタ、俺と喋って大丈夫なのか? 組長様にお叱りを受けるんじゃないか?」
「平気だ。あの人は今、サリンちゃん以外眼中にない。サリンちゃんもだ。まぁ、組長に至っては今までもそうだったけど」
一体どういう事だ?
サリンが、組長以外眼中にないって?
確かにランスとは連絡も取れず、俺には裏切られ、持っているものの全てを失ったサリンに残ったものは、黒川 真人だけだっただろう。
それでもーー納得がいかない。
「...やっぱり、聞かせてくれ。何があったのか」
「あぁ。言っておくが、これは俺の独断だ。うっかり組長なんかの前で口を滑らせてみろ、二度と口をきけないようにしてやるからな」
「分かってる」
黒川 真人の許可を得ず、俺に真実を伝えるなんて...この男は一体、何がしたいのだろう。
そんな事を考えているうちに、後藤さんは語り出した。
真実を。
*
そう、お前さんが部屋を出てからすぐ、俺はサリンちゃんを回収した。
嗚呼、酷い有様だったよ。
お前さんはよく覚えてないかもしれんが、部屋は血だらけ。おまけにサリンちゃんも傷だらけときた。
暴行を受けたと一目で分かる、嫌な場所だった。
あぁ、そんな顔するな。組長の命令だったんだろ? お前さんは何も悪くないさ。
サリンちゃんの傷の状態はと言うと、腹をナイフで一突き、それから打撲痕数カ所と左腕に銃傷。
組長もよくあそこまでやらせたよな。
少し遅れていたら命が危うかったぞ。
あー、だから、そんな顔すんなって。
お前は悪くない。悪いのは組長だ。
さて、続きを話すぞ?
俺は医学の心得があったから、すぐさま傷口を縫い、銃弾を摘出し、輸血もした。
あぁ、血は勿論組長のな?
組長はO型だからさ、誰にでも輸血出来るわけよ。それが、自分以外の血を入れたくないなんて言い出して...組長の我儘っぷりには、今でも頭を抱えるよ。
その後、組長はあの屋敷を取り壊し、まだ意識のないサリンちゃんを連れてアメリカに飛んだ。
日本とはもう接点を持ちたくなかったんだろうな。
そして、アメリカに移って一ヶ月が経ったある日、サリンちゃんが目を覚ました。
『後藤、サリンが起きた! 起きたぞ!!』
あの時の組長の喜びようと言ったら。
さながら、今まで植物状態だった奴が目を覚ました時のような喜びっぷりだ。いや、まぁそうだったんだけどさ。
でも、あんな組長見た事がなかった。
だが一つ、問題があった。
『何方...ですか?』
サリンちゃんには、記憶がなかったんだ。
そう、記憶喪失だ。
傷を負った時のショックとストレスで、記憶障害を起こしたんだと思う。
自分の名前から生い立ち、組長や俺の事すら全部忘れていた。勿論、お前さんの事もな。ただ知性は丸っきりそのまま残っていたから、変わらず頭は良かったな。
あぁそうだ。
組長が何で、お前にサリンちゃんを傷つけさせたのか言ってなかったな。
それは、
「放し飼いに飽きたから」
さ。
え、知ってるって?
あぁ、これは話されたのか。
じゃあ、あれがかなり計画的なものだったというのは知ってるか?
お、知らないっぽいな。じゃあ教えてやるよ。
組長は、サリンちゃんの体はもう手に入れていた。
だが、心はまだ、完全に組長だけのものじゃなかったんだ。
邪魔者がいた。
そう、サリンちゃんの実の父親と、お前さんとあの金髪王子だ。
この三人だけが、サリンちゃんの心の支え、依存出来るものだった。
「サリンちゃんが一人になれば、その心も自分のものになる」
組長はそう考えたんだ。
まずはサリンちゃんの実の父親、赤城 翔太から。
あの男の存在をサリンちゃんの中から消すのは、案外簡単だったらしい。
何か...薬を盛ったんだとか。
記憶を曖昧にさせたり、脳を混乱させたりする薬らしいけど、俺は詳しい話は聞いてない。
でも、確実にそれは効いていた。
七年前のあの日には、顔も声も、思い出さえも、もう覚えていなかったのだから。
次に金髪王子。
あれも簡単だった。
単に国に帰して、連絡を取らせないようにすれば良いだけ。そうすればもう繋がりは切れる。
最後は、お前さんだ。
お前は難しい。
常に近くにいるから、薬で存在を忘れさせる事も、何処かに送る事も出来ない。
だから組長は、
お前にサリンちゃんを裏切らせた。
まぁ、ある程度察しはついてただろ?
全てを失ったサリンちゃんは、もう組長に縋るしかなくなる。そうして、サリンちゃんの心も自分のものにしようという算段だったんだが...。
『記憶喪失か。これはこれで好都合だな』
組長はそう言って、嬉しそうに笑っていた。
何て言ったって、サリンちゃんは何もかも全て忘れてんだ。
つまり、自分の好き勝手に描いた設定を、真実として刷り込める。そう、組長はサリンちゃんに、新しい記憶を刷り込んだ。
今もサリンちゃんの記憶は戻っていない。
だからサリンちゃんは、今、組長の事を「父親からDVを受けていた所を救ってくれた救世主」と思って、心から感謝している。
皮肉だよな。
自分を此処まで貶めた相手を、自分を救ってくれたと思って慕うってのは。
おまけに体の傷は、「交通事故によるもの」で、記憶喪失もそれが原因だと思っている。
だからサリンちゃんはお前さんの事を覚えてないし、思い出させようとしても無駄ってわけさ。
サリンちゃん、多分組長の事好きだからな。異性として。
今は相思相愛の二人で、世界を旅して回ってるんだ。
*
「ーーと、これが事の真相。何か質問は?」
「後藤さんは...」
「ん?」
後藤さんは、組長を止めようと思わなかったのかよ。サリンを傷つけさせたり、記憶を書き換えようとしたりする組長を。
俺がそう質問すると、後藤さんは嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「止めた所で、俺にメリットはねーよ。俺は組長の命令のままに動く。過程が過程だが、今サリンちゃんは、幸せの絶頂の中にいる。きっと七年前に組長が事を起こさなかったら、サリンちゃんはずっと不幸なままだった。俺は、それを壊したくない」
ーー何だよ。
だが、自然と怒りは湧いてこなかった。
何故だろう。
サリンが今幸せだと聞いたからか?
「怒鳴っても良いんだぞ? 俺は、それだけの事をしたんだから」
「いや...もう良い」
今更、どうしようもない事だ。
例え今無理矢理に記憶を戻しても、きっとサリンは幸せになれない。
「お前は今まで、ずっと罪の意識の中で生きてきたんだよな...サリンちゃんにもだが、お前さんにも謝りたい。すまなかった」
「だから、もう良いって」
その悪人面で、そんな悲しそうな表情をしないでほしい。
俺はもう、怒ってはいない。誰に対しても。
ただ一つだけーー
「頼みがある」
「何だ?」
後藤さんの視線が上がった。
「サリンと、もう一度会わせてくれ。ちゃんと話がしたいんだ」
俺の言葉に彼は、暗い顔をしてため息をついた。
「言っただろ? 今俺等が話しているのも、俺の独断だって。バレたら仲良く地獄行きだぞ」
「分かってる。アンタの事は言わない。だから、サリンが何処にいるのかだけでもーーせめて、最後にその姿を目に焼き付けたい」
「...ハァ。死んでもしらねーからな」
そう言って後藤さんは、渋々ながらもサリンの部屋の番号を教えてくれた。
そして、いつも夜の十二時頃になると、満点の星空を見るために、ラウンジに上がってくる事も。
*
真夜中の豪華客船は、まだ眠らない。
この時間帯に人が少ないのは、十二時頃になるとカジノで皆賑わうからだ。
サリンと黒川 真人はそういうわけではないようで、いつも早くに部屋に戻る。そしてサリンは、組長の寝た隙をついて抜け出しているというのだ。
「あら、西園寺さん」
静かなラウンジに、あいつはいた。
艶やかな黒髪を風に靡かせ、俺に微笑みかけてくる。ラウンジの一番外側に行けば、満点の星空が輝くのが見えた。
満月も美しい。
「貴方も涼みに?」
「えぇ。まぁ」
やはり左腕には、包帯が巻かれている。
「そうだ、私の名前、教えてませんでしたね。黒川 佐凜といいます」
「サリン...か」
「そうです。変な名前でしょう?」
でも、私はこの名前がとっても好きなんです。
七年前と変わらない笑顔で、サリンはそう言った。
ーー嗚呼、俺にその笑みを向けないでくれ。
「ごめんなさい、さっきは。兄が迎えに来てくれて...あの、私の兄は、私が他の人と喋るととても機嫌が悪くなるんです。だから、すぐに行かなくちゃならなくて...」
「大丈夫。別に気にしてませんから。でも、俺と喋ってたって...」
「あぁ、あの人に嘘は通じませんから」
七年前と、何ら変わらない。
出来る事ならば、このまま抱きしめて、俺の心からの詫び言を叫びたい。
サリンと共に何処か遠くへ行きたい。
でもこいつは七年前のあの日の事も、俺の事も覚えていない。
ーークソが。
「どうかされました? 西園寺さん。何処か具合でも...?」
心配そうな顔を浮かべるサリン。
それがどうも、七年前のあの日の表情と重なってーー
「さ、西園寺...さん?」
俺は気がつけば、サリンを強く抱きしめていた。
自分でも、何でこんな事をしたのか分からない。
七年前よりもさらに華奢になったように感じるサリンを、この腕に強く抱くと、昔の楽しかった思い出が頭の中から溢れ出す。
苦しい。
恐い。
辛い。
嗚呼、なのに何故ーー俺はサリンを離そうとしない。
「さ、西園寺さん! 困ります! そういうの...」
「サリン...」
「え?」
「サリン...何で俺の事、忘れちまってんだよ...」
俺の事を恨んでくれて良い。
だって、俺はそれだけの事をしたから。
今此処で同じ目に遭っても良い。
だって、俺はそれだけの事をしたから。
嫌いになってくれて良い。
だって、俺はそれだけの事をしたから。
でも、それでも、俺の事を忘れないで欲しかった。
我儘だってのは自分で分かってる。
あんな事をしておいて、忘れないで欲しいだなんて、横暴にも程がある。
それでも俺は...記憶としては残しておいて欲しかった。
「お前の事...ずっと好きだったのに」
やっと絞り出したこの言葉。
そうーー俺はこいつが、好きだった。
でもサリンは、俺の心情を知りもせず、淡々とお決まりのセリフを吐く。
「あ...ごめんなさい。私...」
分かってる。
分かってるんだよ。
別に今更好かれようんなんざ思っちゃいない。
分かってる。
「私、七年前、事故に遭ったんです。それから、何もかも全部忘れちゃって...昔の、ご友人、なんですよね? 良ければ、昔の話、聞かせていただけませんか?」
突然現れて、突然抱きしめて、突然告白した奴なんて、平手打ちして逃げても当然なのに...事もあろうにこいつはーー
「相変わらず、お前はお人好しだ。昔っからこんな性格だったよ」
「フフッ...そうなんですか?」
あぁ、相変わらずお前は、お人好しだ。
そのお人好しが、いつも俺の心を苦しめる。
殴ってくれれば良かったのに。
もっと傷つけて、振ってくれれば良かったのに。
七年前のあの日だって、礼なんて言わず、罵ってくれれば良かったのに。
最後まで恨んでくれれば良かったのに。
お前が優しすぎなかったら俺はーーこんなにも苦しまずに済んだかもしれないのに。
「さ、西園寺さん? どうしたんですか...? え、泣かれて...わ、私...あぁっ、すみません!」
俺は膝からその場に崩れ落ちた。
もう腕に力が入らない。
ただ、情けない事に、ただ目から涙が溢れてくる。
今まで、色んな優しさに触れてきた。
俺を心配してくれたり、慰めてくれたり、時には怒ったり、助け合ったりーー
その中でも俺は、サリンの優しさが一番嬉しかった。
一番、苦しかった。
「ごめんなさい、私、酷い事を言ってしまったかもしれない...」
「...いや、サリンは悪くない。俺が、俺が我儘なだけなんだ」
「ちょっと落ち着きましょうね。お水持ってきます」
そう言ってサリンは、一杯の冷水を持ってきてくれた。
水はこんなに冷たいのに、何故だか物凄く温かくて...俺は、すぐに泣く事を止めた。
「西園寺さん、お話してください。私と、西園寺さんの思い出」
「あぁ。...いや、その前に」
「何ですか?」
前の関係に戻ろうとは望まない。
だが、今だけでもーー
「敬語止めろ。後、西園寺さんもなしで。...『聡』って呼んでくれ」
「...。分かった。聡」
「ありがとう」
『聡』
それだけ。たった三音の言葉だというのに、俺の心は締め付けられた。
「じゃあ、話してやるよ。俺とサリンの思い出」
「お願い。二百パーセントくらいまでなら美化しても良いからね!」
「何だよそれ。...俺とサリンが出会ったのは、五十年前の晴天日和の冬のイギリスでの事だった」
「それは盛りすぎ。私でも嘘だって分かるよ。私、まだ二十三歳なんだから。まだ生まれてない」
「おっと間違えた。二百年前だったかな」
「江戸時代だよ...」
嗚呼、こんな軽い会話が、懐かしい。
今こんな風にまた話せるなんて、思いもしなかった。
「聡...西園寺 聡、か」
「何か思い出したか?」
「いーや。全然。でも...凄く、懐かしい名前。聡は昔、私の大切な人だった気がする」
「そりゃあまぁな。親友だったから」
「思い出せたら良いなぁ...昔の事」
切実にそう呟くサリン。
彼女はそう望んでいても、俺は同意しがたくて。
何もなかった事に出来るこの状態が、嬉しく感じてしまう。
「そうだな」と。
その言葉が言えない。
「じゃあ、早速話してよ、聡。私達の事」
ーーそうだな。
だが今は、この瞬間を大切にしよう。
俺だけは、真実を忘れないようにしよう。
俺だけは、サリンを記憶の中に永遠に残しておこう。
いつか、本当の事を話せる日が来るまで。