(17) デート
雑木林の中は、まだ日が暮れるには早い時間帯であるにもかかわらず、薄暗く、ひんやりとした湿り気を感じる。
所々で地面から顔を出している木の根につまずかないよう、一真は足下を確認しながら慎重に歩を進めていた。
視線が下を向くから、必然的に前を歩いている佳奈の後ろ姿は、腰から下だけが常に視界に入る。
盗み見るつもりはなかったのだが、引き締まった太ももの白さと、スカート越しでもはっきりとわかる、意外とボリュームのある臀部に、無意識のうちに目が奪われていた。
はっと我に返った一真は、一人で焦りながら意味もなく咳払いなどしてしまう。
「ん?何?」
「いや、別に……何でもないんだけど……」
首だけを後ろに巡らせて尋ねる佳奈に、曖昧な返事を返すと、さりげなく視線をあらぬ方向へと向けて誤魔化した。
と、急に目の前の木々が開け、林の中に広場が姿を現す。
6月にしては強い日差しが降り注ぎ、薄暗さに慣れかけていた目が眩む。
思わず右手を上げて日差しを遮りながら、一真はその広場へと足を踏み入れた。
そこは、昨日の『現場』だった。
広場の向こう側に、黒津が腰掛けていた大きな倒木が見える。
しかし、記憶と一致するのはそこだけだった。
1日しか経っていないのに、別の場所へ来たような、そんな錯覚すら憶えるほど様子が変わっていたのだ。
一真の記憶に残っているのは、足を取られそうな凹凸が至る所に隠れている、荒れ地という表現がぴったりとくるような風景。
広場全体が伸びかけた雑草に覆われ、所々に一抱えほどもある石や、折れた木の枝が転がっている、そんな場所だったはずだ。
だが今は、一箇所を除いて草木や石の類はきれいさっぱり姿を消している。
そのわずかに雑草が残っている地点を中心に、まるで巨大なコンパスを使ったかのように直径数十メートルの円が描かれていた。
円の内側は、ブルドーザーやロードローラーで丹念に整地されたかのように、地面の凹凸が平らにならされ、茶色の地表がむき出しになっていた。
整地された地面は広場の外縁を越えて雑木林の領域へと食い込んでいたが、林の木々は、円周に沿ってきれいに削り取られたかのような断面を晒している。
「すごーい!これ全部三咲センパイがやったの?」
もう一人、一真の後から広場へ足を踏み入れてきた少女が、素直に驚きの声を上げる。
平らにならされた地面を行ったり来たりしながら、周囲の様子を観察しているようだった。 一真が待ち合わせ場所である高校の正門前に到着したとき、待っていた佳奈の後ろからピョコリと顔をのぞかせたその少女は、『美波華』と名乗った。
「不肖の姉がお世話になります」
冗談めかしてそう言ったとおり、佳奈の妹であるという。
丁寧にお辞儀をすると、頭の左右で栗色のロングヘアーが揺れる。
長身の姉とは対照的な、小柄な体がより小さく見えた。
屈託のない笑顔を見せる少女は、当然のように二人の後からついて来た。
ここへ至る道中、彼女も姉と同じくウィッシュボーンだという話になったが、本人の口からそのことが語られる前に、一真はそれを感じ取っていた。
ウィッシュボーンという同類に対する仲間意識のようなものなのだろう。
おそらく、素子が自分と出会ったときに感じていたのも、同じような感覚だったに違いない。
姉妹の会話を聞きながら、一真はそう思っていた。
「そーねー、9割9分9厘は三咲君の仕業かな。私が暴れた分も1厘くらいは混じってるから、全部とはいわないけれど」
妹の質問に答えながら、不肖の姉は一真の方へ向き直る。
「憶えてない?昨日のこと」
この場所へ来てから、記憶の糸をたぐり寄せようと努力してはみた。
素子、瑠美、黒津、佳奈、香寿美。そして、自分。
ラボの二人のプレッシャー。
佳奈と香寿美の乱入。
そこまでは、憶えている。
問題は、そこから先だ。
「蓮見さんが怪我させられて、血が流れて……そこから先が真っ白なんだよなあ」
「まあ、憶えてないのは無理もないことなのかな。あの時はバックラッシュ状態だったし」
バックラッシュ。
一言で説明するならば、暴走。
思力を制御するのは、本人の精神力であり、そこには自ずから限界点がある。
当然、個人間で差があるのだが、キャパシティを超えた思力の放出による負荷は、その者の精神力を著しく消耗させる。
消耗の末、限界点を超えてしまった時、制御しきれなくなった思力が際限なく放出され、さらに消耗が進むという悪循環に陥ることになる。
そして、暴走が始まる。
バックラッシュとは、思力の過放出による一種の意識障害と言ってもいい。
その結果、気を失う程度ならまだマシな方だ。
バックラッシュ状態が長時間続けば、もっと深刻な事態が待ち受けている。
思力喪失症。
『マインドアウト』とも呼ばれているその疾患の症状は、文字通り思力を完全に失ってしまうこと。
心臓は動いており呼吸もしているが、意識が戻らずいわゆる植物状態に陥ってしまう。
「君の場合、マインドアウトどころか、もしかしたら命に関わるようなことになってたかもしれない」
それだけ一真の発する思力が、規格外に強大なものだったということを、佳奈は伝えようとしていた。
百戦錬磨のラボの二人が、敵わないとみて遁走したことが、なによりそれを証明している。
「あ、一つだけ憶えてることがあった」
そう言って、一真はみぞおち辺りへ手を当てた。
その動作で、言わんとするところが佳奈にも伝わったようだ。
「あれは私も思いつかなかったけどね。でもちょっと痛い思いをしたかもしれないけど、正気に戻れたわけだし、後遺症もないみたいだし。結果的には良かったんじゃない?」
「ちょっと、どころの痛さじゃなかったけどな」
さすがに痛みはもう感じないが、いまだに拳がめり込んだ箇所はアザがくっきりと残っている。
それにしても、あの香寿美という女性、一体何者なんだろう?
慣れた手つきで銃を扱ったり、一発で一真をノックアウトしたり。
昨日は時間もなかったので、詳しく聞くことができなかった。
(この二人に聞いても教えてくれないだろうな)
彼女たちの仲間になるかどうか、まだ正式な『返事』はしていない。
態度未確定の相手に個人情報をほいほい教えるほど、この姉妹はお人好しには見えなかった。
やはり本人に聞くしかないだろう。
情報を全部開示して、その上で判断してもらうのが総研のやり方だと、香寿美は言った。
まだまだ、知るべきことは多くありそうだった。
「……で、ウィッシュボーンとしての能力には慣れた?」
そう問われて、意識を目の前の少女へと戻した。
質問の前の話を半ば聞き流してしまっていたが、佳奈は気がついていないようだった。
「いろいろ、やってみたりしてる。まあ、他愛もないことばっかりだけど……」
授業中に落ちた消しゴムを引き寄せたりとか、手を使わずにトイレのドアを開けたりとか、本当に他愛もないことばっかりだな、と自嘲気味に僅かに肩をすくめる。
「あと、バスケットのスリーポイントシュートは百発百中で入ったな」
「あ、それって初めての頃、私もやったなー。連続して入るとすごく気持ちいいんだよね」
そこだけ切り取って聞くと、違う意味にとられかねないセリフだが、当の本人は気にする様子もなく、両手でシュートする仕草をして見せた。
一見すると、無邪気にはしゃぐ少女の姿だが、そう思えたのは、ここまでだった。
「じゃあさ、三咲君がどれだけ力が使えるようになったか、試してみよっかー」
その最後の言葉が終わる瞬間、一真が大きく後ろへと跳んだのは、あらかじめ相手の行動を予想していたからではない。
自分に対して行使される力、それを一瞬でそれを感じ取り、反射的に回避行動をとったのだ。
口元に笑みを残したままの少女が、両手で把持した2メートルはあろうかという長物を大上段から叩きつけるように振り下ろす。
その先端の刃は、紙一重で対象を捉えることが出来ずに、一瞬前まで一真が存在していた空間を空しく切り裂いた。
一真から見て左下方へと流れた切っ先は、すぐに体勢を整えて今度は足下を薙ぎ払うように横へと走る。
間をおくことなく打ち込まれてくる二の太刀を、バックステップでかわす。
三の太刀を際どい差でやり過ごしたとき、靴のかかとが何かに触れる感触があった。
それが広場の端に転がっている倒木だとわかると、背後にあったスペースを使い果たしてしまったことに気がつく。
一真は後退するのを、そこでやめた。
両足を踏ん張り、両手を真正面に突き出して、次の攻撃を迎え撃つ格好だ。
そこへ繰り出されてきた四の太刀。
斬りつけると見せかけて一旦引いた得物を、一気に突き出す。
一真は、自分の眉間に向かってくる切っ先に全神経を集中する。
空気の震えが見えたような気がした。
「昨日の今日でそれだけできるなんて、上出来じゃない?」
佳奈が感嘆の声を上げたのは、淡い光を放つ刃の先端が、突き出された両手の平の先、数センチの位置で完全に動きを封じ込められたからだ。
拮抗した力が、わずかな空間でせめぎ合っていた。
二人は、しばし探るような目でお互いを見ていたが、やがて示し合わせたように阿吽の呼吸で力を解除した。
自分へ向けられていた切っ先が下ろされると、ふうー、とそれまで溜め込んでいた息を、一真は大きく吐き出す。
「上出来かどうかはわかんないけど……でも、本気でかかってこられたら、今みたいに巧くできるかどうか……」
「そんなに謙遜しなくていいよ。今の、結構本気出してたんだよ?それを完璧に防ぎきったんだから」
本気と言うことは、逆に言えば一真が防ぎきれなかったら、刃に頭を貫かれていた、ということなのか。
「謙遜なんてするつもり無いけどさ。まあ、そんなもの振り回されたら避けるだけで一杯一杯で、こっちから反撃とか、そんな余裕無かったし……っていうか、それって一体、何なんだ?」
そう言って、佳奈が両手で下段に構えている得物を指さした。
「これ?薙刀よ。見たこと無い?私、一番得意なのはこれなのよね。学校には薙刀部がないから、一応弓道部に入ってるけど」
一旦構えを解くと、頭上で2、3回、グルグルと回してから片手に持ち替えて、石突きを地面に突き立てる。
空いてる手を腰に当て、得意顔で仁王立ちになっているその姿は、勇ましいと言うよりも、ややもすれば滑稽ですらある。
「薙刀も弓も、あと合気道もおばあちゃんに無理矢理習わされたんだけど、その中だと私には薙刀が一番合ってる。飛び道具はなんだか卑怯な気がしてあまり性に合わないし、接近戦で殴る蹴るっていうのも、ね。やっぱりこれでも女の子だから抵抗があるわけで……。そう考えると薙刀の微妙な間合いというか、相手との距離感がしっくりくるのよね」
(いや、そういうことじゃなくて……)
それが薙刀であることくらいは、見ればわかる。
その程度の常識は持っているつもりだ。
聞きたいのはそういうことじゃなかった。
いきなりその手に現れた薙刀は、確かに視覚では捉えられるのだが、実体として認識しようとすると、何故だかあやふやで掴み所がない。
まるで立体映像でも見ているような、そんな感覚に陥る。
その正体を聞きたかったのだが、蕩々と続けられている説明に、口を挟むことができなかった。
「ちっちゃい頃から容赦なくしごかれて、それはもう厳しかったんだから。誰かさんは要領よく逃げてたけどね」
そう言って嫌味の混じった視線を妹へと注いだが、華はそれを受けても怯むことなく言い返す。
「お姉ちゃん、三咲センパイが聞きたいことって、きっとそういうことじゃなくて、『フェイク』のことだと思うんだけど?」
「えっ?ああ、そっか。そっちの方ね」
「そっちがどっちかわかんないけど。さっきまで手ぶらだったのに、いきなり武器が現れたりとか。何でそんなことになるのか、そういったことをきちんと教えてあげないと。香寿美さんに頼まれてるんでしょ?」
「もー、わかってるって。ちゃんと順番に説明しようと思ってたんだから」
諭すような口調の妹に、姉の返事はまるで子供の言い訳のようだ。
佳奈は一真の方へ向き直って言った。
「三咲君ってさ、妄想するの、得意?」
「えっ、妄想?」
「……お姉ちゃん、それを言うなら空想でしょ」
あきれ顔の妹から、もっともな指摘が飛んできた。
「ど、どっちでもいいじゃない。私的には妄想の方がしっくりくるんだから」
言い間違えたんじゃないんだから、とでも言いたげに口を尖らせて反論するが、ほんの少しだけ赤らめた頬や、不自然に早口になるその口調から、本当のところは明らかだった。
妹から容赦なくツッコミを入れられている様子を目の当たりにすると、『才色兼備、完全無欠の優等生』と聞かされていた学校のアイドルも、意外と天然キャラじゃないのかと思えてくる。
当の本人は、うまく誤魔化せたと思っている様子で話を続ける。
「まあ、空想でもいいけど。要するにウィッシュボーンの力を発揮するには、実現したいことをいかに頭の中で具体的にイメージできるかが大事なの。でも人間の想像力なんてたかがしれているわけで、いくら空想するのが得意でも、やっぱり限界があるのはしょうがないこと。それで、イメージと現実とのギャップを埋めるための手段としてコレを使うわけ」
そう言って手にした薙刀、のようなものへ視線を移す。
「もちろん、本物じゃないよ。ウィッシュボーンっていっても、魔法使いでも神様でもないから、無から有を作り出すことなんて出来ない。これは思力によって作り出された幻、『フェイク』。人間ってなんだかんだ言っても目に見えるものに頼っているから、こうやって視覚に訴えるものがあれば、よりイメージし易くなるでしょ?それに、きっかけとなる動作をプラスしてやれば、イメージングがもっと簡単になるのよね」
きっかけとなる動作、『キュー』は、一真も無意識のうちに使っていた。
相手の攻撃を止めようと、思わず両手を前へ突き出していたことが、そうだ。
ラボの黒津も、一真や素子を捕まえるとき、手を伸ばして何かを掴むような動作をしていた。
「戦いの時なんかは特にそうだけど『フェイク』と『キュー』の両方を使って自分の思う攻撃を具現化するの。例えば……」
そこで言葉を切ると、佳奈は薙刀の柄を両手で握り直して、素早い動作で水平に薙ぎ払った。
「うわったったったっ!」
両足の踵辺りに不意打ちを食らった一真の体は、その場で一瞬宙に浮く。
石突きの先端は、二人の間の地面すれすれを舐めるように移動しただけ。
一真の体には届いていない。
にもかかわらず、きれいに足元をすくわれて、受け身をとることも出来ず尻から地面へと落下した。
臀部から脳天へ突き抜ける激痛と、口から得体の知れないものが出そうになる不愉快さに襲われたが、それを紛らわせる暇はなかった。
頭上から真っ直ぐに落ちてくる刃の辿る軌跡が、自分の体の中心線を両断するコースと一致していることに気づいていたからだ。
それは、視覚によってもたらされたものではない。
大上段から振り下ろされてくる刃が地面に到達するのは、それこそ瞬きの間。
武道の心得がない一真に、それを見切れというのも酷な話である。
だが、一真にはわかっていた。
相手の発する思力を感じ、そこから現実化する事象を認識する。
曖昧でありながら具体的であるという、矛盾をはらんだ感覚によって、一真は自分に向けられた力を頭の中で正確にイメージすることができた。
そして、そのイメージから導き出された結論、つまり急迫する身の危険を回避するべく、自らの力を発動する。
「!!」
声にならない気合いと共に、いや、声を発する間もなく、その結果はあっけないほど簡単に出た。
それは、頭上から振り下ろされた武器の消滅という形で具現化した。
残されたのは、刃を失った、ただの柄だけ。
まるで一真の周囲だけ、別の次元が存在しているかのようだ。
境界を侵すものを消し去る、そんな力の発現を目の当たりにして、一番驚いているのは、当の本人である一真だった。
(俺が、これを?)
確かに条件反射という要素を多分に含んではいるものの、少なくともそのきっかけは、自らの能動的な決断によるものであった。
昨日のような、完全な無意識下における不随意的な動作ではない。
「今日はバックラッシュもしなかったし、たった1日ですごい進歩じゃないの?」
佳奈は賞賛の声を上げた。
「それに、昨日と同じ力……」
棒きれと化した薙刀のフェイクを見つめながら、佳奈はつぶやくように言った。
「空間が歪むような、あの感覚。私たちとは違う系統の力だとは思うけど」
握っていた両手をパッと開けると、1メートルに満たない棒と化した薙刀の残骸は、かき消すように見えなくなった。
「でも、ピンチに追い込まれないと、本領発揮とまではいかないみたいね。それに自分の力を制御し切れているのか、ちょっと疑問」
佳奈の指摘が当を得ていることは、一真自身、よくわかっている。
正直なところ、落ちてくる刃をどうにかしようと考えたことは間違いないが、具体的にどんなイメージを描いたのか。
消滅という結果が発生している以上、そうイメージしたことになるのだろうが、一真の中の時系列は、その部分が抜け落ちてしまっている。
それは、やはり力を使いこなせていないということなのだろう。
痛みが残る尻の辺りをさすりながら、一真は立ち上がった。
「まだまだだな、俺って。自分に振り回されて、これじゃ昨日の二の舞になる感じがする」
はあー、っとため息をついた一真を気遣うように、華が話しかけた。
「でも、訓練なしでここまで出来るんだから、すごいと思うな」
それは、率直な感想に聞こえた。
「お姉ちゃんも私も、最初から思力を思い通りに操ることが出来た訳じゃないんです。ウィッシュボーンとして自分の能力に適応していくには、どうしても相応の訓練が必要だし、それも一日二日じゃマスターできないですよ。今くらいのレベルに達するまで、私の場合だと3ヶ月以上はかかっちゃったから、それに比べると三咲センパイの場合は、驚異的といってもいいスピードですよね」
「そうかなあ……」
「そうですよ」
半信半疑の一真に、ニコリと微笑みながら華が言った。
「もっと自信持ってくださいよ、センパイ」
妹の言葉に、姉も頷く。
「そうよ、三咲君。初心者で私と互角にやりあうなんて、考えられないことなんだから。自惚れでも何でもなく、私、総研のウィッシュボーンの中では1番だと思ってる。そんな私を相手に一太刀も許さなかったんだから、自信持っていいわよ。あとは三咲君が私たちの仲間になってくれたら、マンツーマンで鍛えてあげるから!」
あくまでも佳奈は楽観的だ。
「三咲君だったら、ちょちょいのちょいでマスターしちゃうわよ。なんなら華もおまけにつけて、二人がかりでみっちり教えてあげるから、ねっ?」
そう言いながら、同意を求めるために妹の方へ顔を向ける。
だが、すぐに異変を感じとった佳奈の顔から、笑みが消えた。
「華、どうしたの?」
姉の問いに答えず、辺りを窺う、何かを探るような真剣な顔つきは、ほんの一瞬前までとは別人のようだ。
無言の時間は長く感じられたが、実際には1分もかからないうちに華の様子は元に戻った。
フッと力を抜いた顔に、若干困惑の色が見える。
「華、どうしたの?」
再度の問いかけに、華は答えた。
「うん、私たちとは違う、何か、別の思力を感じたんだけど……」
「えっ、本当?」
「でも、すぐに消えちゃった」
ちょっと肩をすくめるような仕草をした。
「昨日の『残り香』じゃないの?昨日はみんなでだいぶ暴れたから」
佳奈の言葉に、妹は首を横に振った。
「残っていたとしてもせいぜい2~3時間、昨日の分が残っていることは無いと思うんだけど……」
「あ、ちょっと待って、電話……香寿美さんか」
華の言葉を遮って、佳奈は香寿美からかかってきた電話にでる。
「もしもし、佳奈です。はい、そうですけど……えっ、そんな……」
何やらややこしい話になっているようだ。
佳奈が電話に没頭し始めると、残された二人に微妙な間が出来てしまった。
何かしゃべらないと。
そうは思ってみても、ただでさえ女の子との会話に免疫がないところへ持ってきて、出会ったばかりの年下女子をどう呼べばいいのか、まずそこでつまづいてしまった。
「えーっと……」
「華、でいいですよ」
迷っている様子の一真を察して、華は自分の方から敬称略の適用を提案した。
「でも初対面の子を呼び捨てで呼ぶのもなあ……」
「細やかなお気遣い、ありがとうございます。でも、私は何て呼ばれようと気にしませんから。それに、初対面じゃないんですけど」
「えっ、ウソ、本当に?」
「もう、思い出して下さいよう」
わざと甘えたような口調と上目遣いの視線でアピールすると、左足のつま先を軸にしてクルッとターンした。
「あ、そういえば」
しなやかに廻る体に一瞬遅れて追随するツインテールを目の当たりにして、ようやく校内でニアミスした時の情景が蘇ってくる。
眼前の少女と、記憶の中の姿とが一致した。
「そうだよな。同じ学校に通ってるようなもんだし、1回や2回、顔を合わせていても……」
不思議ではない。
そう言葉をつなげようとして言い淀んだのは、自分に向けられた華の不穏な視線に気が付いたからだ。
ニヤニヤ、という形容がピッタリの、声を出して笑いたいところを我慢しているような、そんな表情から注がれる視線を受けて、一真の頭にはおぼろげながら華という少女が担っている役割というものが浮かんできた。
「もしかして、あれって偶然じゃなかったとか?」
華はコクリと頷くと、相変わらず上目遣いで一真の目を見ながら言った。
「あれが最初じゃないし最後でもないと言ったら、やっぱり驚きますか?」
その言葉だけで、おおよその事態が飲み込めた。
今度は、昨日、香寿美から聞いた言葉と華の姿が重なりあう。
「たぶん、三咲センパイが考えている事で正解です」
つまりは、目の前にいる一見小柄であどけない少女が、香寿美の言うストーカーだったというわけだ。
「全然、気がつかなった……」
香寿美が、一真の家族構成から遅刻の回数から紅茶の好みまで知っていたということは、それなりの期間を調査にあてていたことになる。
それに全く気が付かないまま生活していた自分は、そんなに鈍感だったのかと、少し落ち込む。
そんな一真を慰めるように、華が言う。
「覚醒前だったから、ストーキングに気が付かなくても仕方がないですよ。私の能力『辿跡』は、そういうことに特化したものですから」
「センセキ?」
それは文字通り、跡を辿るということ。
人から発っせられた思力は、すぐに消え去るものではなく、ある程度の時間、その場所に残留する。
「正確には『残有思力』って言うんですけど、私はその残有思力を感じ取ることが出来るんです。警察犬が犯人の臭いを辿るみたいなものですね。人が残した思力から、そこに誰がいて、何をしていたか、読み取るんです。でも限界もあって、残有思力は時間が経つと弱くなっていくから、読み取れるのはせいぜい3時間後まで」
「思力を感じ取る、か。華……ちゃんは、蓮見さんと似てるな」
さすがに呼び捨ては抵抗があるし、『美波さん』では姉の佳奈と区別がつかないし、それに年下に『さん』を付けるというのも違和感がある。で、結局のところ無難な線で『華ちゃん』と呼ぶことに落ち着いた。
「でも、微妙に違うんですよ。蓮見さんみたいな能力は『心讀』って呼ばれてるんですけど、人が発する思力波を直接感じて、その人の思考や感情を読み取っているはずです」
「ウィッシュボーンの力って一口で言っても、色々あるんだな」
「大きく分けるとお姉ちゃんが得意にしてるような、外へと働きかける能力と、私や蓮見さんみたいに感じ取る能力の二つがあるんです。前者は能動特性、アクティヴ・インディビデュアル。後者は受動特性、パッシブ・インディビデュアル」
舌をかみそうな単語を、よどみなくサラッと言ってのけたちょうどその時、佳奈の電話が終わった。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
曇った表情の姉に問いかける。
「ちょっと困ったことになってね」
「何が?」
「うん、『今夜の件』なんだけど、結局、行けるのは私と華と、あと一人だけみたい」
「ええー!?ちょっと、それ困るんですけど。私は当てにしないでよ」
「みんな都合が悪いみたいでさ、玲未しか来られないって。せめてもう一人くらいは欲しいところだけど……」
一真の存在を忘れてしまったかのように二人で話をしていた姉妹は、そろって腕組みをしながら「うーん」と唸りだした。
何が困ったのかはわからなかったが、その様子を見ていると、何だか手伝わないと悪いようなそんな気にさせられる。
「あの、さ」
おずおずと話しかける一真に、二人の視線が向く。
「何か俺で手伝えることがあったら手伝うよ」
蚊帳の外にされたことへの軽い反発心もあって、自ら助っ人としての参加を申し出た一真であったが、自分を見る姉妹の表情が徐々に変わっていくことに気が付いた。
「そっか、こんなところに一人いたんだ」
「そーだね、お姉ちゃん」
この姉妹、外見は似ているとは言い難い。
背格好も、顔立ちも、髪の色も、そして性格も。
長身で大人びて見えるが、どうやら天然系らしい姉と、小柄で幼く見えるものの、姉よりもしっかり者の妹。
対照的な二人だが、しかし、一真を見つめる、よからぬことを考えていそうな目はそっくりだった。
そんな二組の瞳に見つめられて、一真は安請け合いした事を後悔し始めていた。
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福利厚生の充実というのは、公務員に与えられた特典ではあるが、割引とか補助といった費用負担という面での恩恵が主であり、施設面では民間に大きく後れを取っている。
例えば、職員用の食堂。
レストラン並みのメニューを提供したり、24時間営業を実現したり、工夫を凝らした企業の社員食堂に比べ、旧態依然とした運営を続ける公の機関のそれは、なんとも貧弱な限り。
国立科学技術開発機構情報通信技術開発センター、通称『ラボ』もその例に漏れず、昼時でも席の心配をする必要がないくらい食堂内は閑散としている。
職員雇用の確保という側面もあることから、厨房のスタッフは皿洗いに至るまで正規職員であり、その人件費が運営を圧迫して、食材費へとそのしわ寄せが来ている。
結果、提供されるのは、不味くはないが、さりとて美味くもなく、値段はそこそこ安いが驚くほどでもない、そんな中途半端なメニューばかり。
人生の楽しみの何割かを占めるであろう夕食の前だというのに、1階にある食堂へと向かう進藤瑠美が浮かぬ顔でいるのは、そういった現状であるからだ。
同じ国立と名が付く組織でも、いち早く独立行政法人へと移行した国立病院の連合体である国立医療機構では、福利厚生事業を完全にアウトソーシング化した。
各病院には大手ファミリーレストランやカフェがテナントとして入り、割引の効果もあって、ラボとは比べものにならないくらい多くの職員が利用し、満足度も高いという。
「ウチも全部外注にしちゃえば、みんな食堂使うようになると思うんだけどな。瑠美もそう思わない?」
並んで歩いている、飾り気のない濃紺の制服を着た女性事務職員の言葉に、瑠美は気のない様子で答えた。
「私たち、昼間はほとんど外回りだから、あまり関係ないかな。今日みたいな事情がなければ食堂で晩ご飯を食べることもないしね……あ、お疲れ様」
すれ違う一団に声をかけると、相手も会釈を返してくる。
時刻は、まもなく午後6時。
定時の退庁時間は午後5時45分だから、そろそろ帰宅の途につく者が増えてくる時間帯にさしかかる。
残業が美徳とされたのは過去の話。
自分の仕事を、いかに執務時間内で終わらせることが出来るかで評価される時代だ。
「ん?」
今、正に食堂出入り口のガラス扉を開けようとした瑠美の視界の端に、見慣れた姿が入ってくる。
右手にバイクのヘルメットを提げ、左手はポケットに突っ込んだまま、いつもの猫背を丸めた黒津が、廊下の反対側からうつむき加減に歩いてくる。
公務で私有のバイクを使うことはまずあり得ない。
とすると、黒津の格好は帰り支度ということになる。
食堂に入りかけた体を引き戻し、近づいてくる同僚を待ち受ける瑠美の2メートル前方で、黒津はやっと気が付いたようだ。
顔を上げて瑠美と目が合うと、ちょっとバツが悪そうな表情を浮かべて僅かに視線を逸らした。
「早いじゃない。もうお帰り?」
「ん?んん、まあちょっと、な」
黒津は言葉を濁す。
「そういや、昨日の現場に行ってきたんだって?」
話を逸らす魂胆は見え見えだったが、瑠美は敢えて突っ込むことはしなかった。
「ええ、あやうく鉢合わせするところだったけど」
「総研の連中と?」
「そう。あの姉妹と、あと昨日のルーキー君」
「へえー、あいつら何やってたんだ?」
「新人さんへのレクチャー、ってところかな。やっぱりあの子、ただ者じゃないわね。昨日と同じ力を、今日はバックラッシュしないで使っていたから」
「そうか。となると、いよいよ上の方から、やいのやいのと言われるな」
黒津は心底うんざりした様子で細い肩を揺すった。
「で、これから野暮用ってやつかしら?」
弛緩した空気を衝くように、瑠美は話を切り替えた。
「ああ、まあ、そんなとこ、かな?」
不意を打たれた黒津は、ほんの少しだけ慌てた様子で口ごもる。
瑠美は、更に突っ込みを入れる。
「それにしても私とのデートよりも優先順位が上の用事って、何かしらね?ちょっと妬けるんだけど」
「そんなに心配しなくても、お前が嫉妬するような、そんなにいいもんじゃねえってば。進藤瑠美との甘いひとときよりもそそるイベントなんて、そうそうないから安心しなって」
軽口を叩く黒津は、いつもの飄々とした態度に戻っていた。
右手のヘルメットをひょいと肩にかけると、再び視線を下へと向ける。
「じゃあ」
短くそう言って、歩き出した黒津に、
「ええ」
瑠美も短く答えた。
遠ざかる細い後ろ姿が、正面玄関から吸い出されるようにして外へ消える。
そのとき、隣にいる女性事務員が不思議そうな顔をしながら自分の顔をしげしげと見つめていることに、瑠美は気づいた。
「菜々美、どうしたの?」
「うーん、なんだかしっくりこないというか、収まりが悪いというか……」
「だから、何がよ?」
菜々美と呼ばれた事務員は、人差し指の先をおでこに当てながらしばらく考え込んでいたが、急に手を打って、頓狂な声を上げた。
「あっ!わかった。『お疲れ様』って言わなかったからだ」
「何よ、それ」
「ほら、瑠美ってさあ、いっつも、誰にでも帰り際に絶対『お疲れ様』って言うでしょ?相手が上司でも、同僚でも、部下でも、後輩でも。それなのに、さっきは黒津君に言わなかったから、だから、しっくりこなかったんだ」
自己完結して納得する菜々美だったが、もう一度不思議そうな表情に戻った。
「でも、なんで?」
その質問に瑠美は、
「なんでって、それはね……」
黒津が消えていった玄関の方へチラリと視線を向けると、
「彼がお疲れになるのは、これからだから」
そう答えると、全く意味がわかっていない菜々美を置き去りにして、食堂の中へと消えていった。