(16) 約束
昼食後の休み時間は、一真にとって貴重な就寝時間である。
しかし、いつもなら睡魔との戦いに無条件降伏している時間帯だが、今日は白旗を掲げる気配は全くない。
それなのに、あくびの回数だけが増えていく。
今も意に反して開こうとする口を無理矢理押さえ込みながら、昨日の自分の身に起こった出来事を頭の中で繰り返していた。
表通りに面した5階建てのテナントビル、一真達がいたのはその2階部分にあるオフィス内の一室。
『高宮記念財団総合研究所』という組織がどの程度の規模なのか全く知らなかったが、それでもこんな場所に本拠を構えるほど小さい組織では無いだろうと、狭い階段を下りながら考えていた。
ビルの1階は店舗になっていたが、シャッターが閉められていたので、何の店なのかはわからない。
その店の前に止められていたブルーのシトロエンに乗り込むとき、香寿美が教えてくれた。
「ここは分室みたいなものでね、『総研』自体は別の場所にあるの。いずれ、そっちも案内するかも知れないけどね」
結局、どっちの組織も同じような事をしているんだな、と妙に納得しながら助手席に乗り込み、自宅に帰り着いたのは午後10時30分。
自宅から遠くない場所だったこともあり、なんとか両親の堪忍袋の緒が切れる直前に辿り着くことができた。
実際、車に乗っていたのは実質10分ほど、そんな近い場所だったのかと驚いたくらいだ。
それから夕食もそこそこに、両親の追求からのらりくらりと逃れてベッドへと倒れ込んだのだが、体は疲れているのに神経が高ぶって寝られない、そんな状態が昨夜から続いていた。
多くの出来事が起こりすぎた。
オーバーフロー寸前の脳を整理してみるが、詰まるところ二つのオファーのどちらかを受け入れざるを得ない状況に立たされている。
『どちらにも与せず』という第三の選択肢は失われている。
自覚はないのだが、どうやら自分は『ありえないほどの力の持ち主』らしい。
そうなると、一度拒絶したとしても相手が放ってはおかないだろう。
逃げ切ることは至難の業、というより昨日の両組織の争いを目の当たりにして、それは不可能に思える。
実は一真の中で二者択一の答えはほぼ決まっていた。
昨日の体験から、どちらを選択するかは自明の理。
あとは『踏ん切り』がつくかどうか、それだけだ。
「うーん」
決断の賽を手に、気持ちは同じ場所を行ったり来たりしている。
(そう言えば……)
自宅へ送ってもらう車中で香寿美は『また連絡をする』と言っていたが、よく考えると一真は自分の電話番号も何も教えていない。
(どうやって連絡してくるんだろう?)
ふとそんなことを思い出したのは、現実逃避に他ならない。
『踏ん切り』をつけなければならない、その瞬間を先延ばしして、体よく逃げようとしているだけだ。
ずっとそんな調子で考え事に没頭していたから、教室の扉が勢いよく開いたことにも気が付かなかった。
一真以外の男子生徒の目が一斉に釘付けとなる。
遠慮無く入ってきた少女は、ひとしきり教室内を見渡すと、すぐに目標を発見した。
羨望の眼差しを一身に受けながら、少女は大股で部屋を横断してまっすぐ一真の前に進む。 一真はスカートに正面の視界をふさがれて初めて少女の存在に気が付いた。
「三咲……一真君ね」
顔を上げると、端整な顔立ちの少女が見下ろしている。
吸い込まれそうな大きな瞳に、ちょっとだけドキッとした。
「香寿美さんが昨日、連絡するからって言ってたでしょ?早速来たわよ」
「あっ、昨日の……」
記憶と目の前の現実が一致した。
(ああ、そうか。ウチの制服だったんだ)
昨日はそんなことにすら気が付かないほど余裕がなかったが、改めて記憶を辿ると確かにあの時、少女は一条学園のブレザーを着ていた。
「今日の放課後、ヒマ?」
唐突な質問に一瞬、言葉が詰まる。
「えっ?ああ、うん。特に用事はないけど…」
少女の口元が緩む。
「そう、よかった。じゃあ放課後、正門で待ち合わせね」
「え?ちょっと、待ち合わせってなんだよ?」
「香寿美さんから、君にいろいろ教えといてって頼まれてるの。学校じゃ人目があるし、どこか別の場所で話しをしましょ」
現在の状況も十分に人目を引いているというか、注目の的になっていることには気付いていないようだった。
「それじゃ」
右手を挙げて敬礼のような仕草をすると、くるりとターンを決める。
唖然として声も出ない一真を置いて、来たときと同じルートを逆に辿って教室を後にした。
入ってきたときと一つ違うのは、教室内の生徒の視線が羨望から疑問へと変わったことだ。
少女が廊下へと消えると、早速、忠典が小走りに一真の所へやってきた。
「おいおいおいおい!三咲、どうなってんだよ!?お前、美波さんと知り合いなのかよ?」
「え?ああ、まあなんとなく」
さすがに昨日の出来事を話すわけにはいかないので、適当に生返事を返す。
「それよりさあ、生野、お前もあの子のこと知ってるのか?」
忠典は信じられないといった表情になった。
「お前なー、当たり前じゃねーか。上半期ミス一条の投票で、4期連続一位を守ってる3年生の江本香織さんにあと3票まで迫ったニューアイドル、美波佳奈を知らないやつはいないぜ」
「そういえばそんな投票があったかな」
よくある校内人気投票の類だが、誰に投票したのか記憶がない。
白票だったかもしれなかった。
その程度の関心しかないので、結果など知る由もない。
「でも、やっぱりいいよな、美波さんは。秀才揃いの1組の中でも成績はトップクラスだし、才色兼備ってのは、ああいう人のことをいうんだろうな。おまけに弓道部だろ?あの袴姿がたまらないんだよなあ」
弓道場をのぞき見した時のことでも思い出しているのか、忠典はうっとりとした顔で遠い目をしていたが、ふと現実に戻ったかのように真顔になった。
「でも、美波さんがお前なんかに何の用があったんだ?」
勢い込んで訊いてくる質問に、淡々とした表情で答える。
「デートのお誘い」
「な、な、何ぃー!?」
それから何かまくしたてていたが、一真の耳には全く届いていなかった。
佳奈の姿には、香寿美が重なって見える。
一真は決断を促される焦燥感に襲われていた。
休み時間の終わりを告げるチャイムが、そんな気持ちに拍車をかけた。
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西都市の東部に広がるなだらかな丘陵地帯には、市と県が『アカデミック・エリア・プラン』という名の共同事業の下、積極的に誘致を推進した結果として大学や企業の研究機関などが数多く所在しており、学研都市として発展しつつあった。
その東の外れに位置する広大な科学開発省保有地の一角、そこに『国立科学技術開発機構』がある。
事務部門が入る管理棟、研究開発棟や実験設備、倉庫その他主なものだけで大小50を超える施設を擁する一大拠点となっている
『ラボ』こと『情報通信技術開発センター』は、その敷地の一番奥まった場所にひっそりと佇んでいた。
建物のすぐ裏に山裾が迫っていることからもわかるように、敷地の中では最も標高が高い場所にあることから、屋上に上がれば眼下に市内の街並みを望むことが出来る。
屋上にはベンチやテーブルが置かれ、勤務する職員の休憩場所となっているが、昼休みがとっくに過ぎ去った午後2時過ぎという時間帯には、一人を除いて人影は見当たらなかった。
その一人、黒津圭次は屋上でも最も高い場所、貯水タンクの上で景色を独占しながら寝転がっていた。
時折通り抜ける風が心地よい眠りを演出してくれる。
「やっぱり、ここにいたのね」
足元から聞こえてくる声に午睡のひとときを中断させられた黒津が目をこすりながら体を起こすと、見上げる瑠美と視線が合う。
「課長がヒステリー起こしてたわよ。『黒津はどこ行った』って」
「小学生みたいに『先生、おしっこ』とでも言ってから出てくればよかったのかよ?」
うーん、と大きく伸びをした。
「くだらねえ話に我慢して付き合うほど心は広くないんでね」
「大人じゃないわね」
「何とでも言ってくれ」
午前中に行われた幹部会議では昨日の一件が議題となり、結果としてウィッシュ・ボーンの『取り込み』に失敗したことに対する批判が相次いだという。
彼らの上司である課長の機嫌はすこぶる悪かった。
「そういえばあの話、結局誰がやることになったんだ?」
「気になるの?くだらない話なのに?」
「くだらないからこそ気になるんじゃないか。不幸な子羊は誰なのか」
さっきまで行われていたミーティングは、ミーティングとは名ばかり、課長からの命令伝達の場でしかなかった。
誰に命令が下ったのか。
「はづきとタケル君。ついさっき二人で出て行ったわ、現場実査だと思うけど」
大きなため息は、下にいる瑠美の耳にも聞こえてくるほどだった。
「恥の上塗りにならなきゃいいがな」
「そんなに心配なら課長に言ってみたら?『恐れながら中止された方が賢明と判断されますが』ってね」
「本気で言ってんのか?俺は心が狭い上に面倒くさいのと怒鳴られるのと嫌み言われるのが大嫌いだからな。わざわざ自分からその真っ直中へ飛び込んでいくような酔狂なマネはご免だね」
ゆるゆると立ち上がると尻の辺りをパンパンと両手ではたく。
「全部が全部、成功するわけがないんだからな。それを1回の失敗であれだけテンパッて、おまけに必要性に疑問符が残るようなアクションを起こそうってんだから……」
二人の間に、しばし、沈黙の時間が流れる。
「そういえばさ、昨日の『取り込み』を手伝ったらデートに付き合うって約束だったな」
大事なことを忘れてた、といった表情だ。
確認を求めて投げかけてくる視線を、瑠美はフッと外した。
「でも失敗したからその話は無しね」
「そりゃおかしい。あの時は『ケリがついたら』って条件だったろ?成功失敗は関係なく」
食い下がってくる言葉に、半ば呆れ顔で瑠美は肩をすくめた。
「そういうところだけは良く憶えてるのね……まあ、いいわ、約束だから。行きたいときはいつでも言って」
「あ、でも、今日はだめだな」
「なんで?」
黒津は貯水タンクの上から飛び降りる。
「ちょっと野暮用ができちまったから、さ」
下手なウィンクは、相手を苦笑いさせるだけの効果しかなかった。