(15) もう一つの組織
水が沸騰する音と共に、室内にはコーヒーのいい香りが満ちてくる。
頭痛と腹痛のダブルパンチで目が覚めた一真の鼻に、その香りが入り込んできた。
「あ痛ててて……」
ソファから体を起こした一真の額から、冷やしたタオルが床に落ちた。
頭とみぞおちをそれぞれ押さえながら、霞む目で辺りを見回す。
どうやらビルの中の一室らしい。
応接セットに上等なデスクと椅子。
昨日、連れて行かれたオフィスの部屋と同じような造りだが、決定的に違うのは、実際に人が使っているように思える点だ。
デスクと正対せずにやや斜めになった椅子、半分開いた状態のブラインド、デスクの隅に置かれた写真立て……
そういったものが、部屋の主の姿を想像させる。
「気がついた?」
振り返ると、淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぐ女の姿が目に映った。
一真をノックアウトした、あの女だった。
改めて見ると、黒いスーツに包まれたしなやかな長身は、身長172センチの一真と同じくらいはあり、女性としては際立っている。
背中の中ほどまである艶めいた黒髪や、色白の肌、やや細めで切れ長の目などから、和風美人という言葉がぴったり似合う。
そんな外見からは、とても強烈なボディーブローを繰り出してくるようには思えないが、実際、一発でダウンさせられた相手だ。
無意識のうちに一真は身構えていた。
素性がわからない以上、警戒するしかない。
「今、飲み物を用意してるから。ちょっと待っててね」
そう言って冷蔵庫から取り出したボトル入りのアイスティーをグラスに注ぐ。
「さっきはごめんね。まだ痛む?」
一真の前まで来たその女は、マグカップとグラスを乗せたトレイをテーブルに置いた。
「まあ、少し」
床に落ちたタオルを拾い上げながら一真はみぞおちの辺りをさすった。
頭痛は収まりつつあったが、軽い吐き気のような感覚がまだ残っていた。
「でもね、あのまま放っておいたら、君、とんでもないことになっていたかもしれなかったのよ。まあ、ちょっと力を入れすぎたかもしれないけど、そのへんは勘弁してね」
一真の前にグラスを置くと、自分はソファに腰を下ろし、トレイから直接マグカップを手に取り、口をつける。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私の名前は喜多香寿美。性別、女。年は……まあ見てのとおり、想像にお任せするわ」
口を開きかけた一真を、手を上げて制する。
「あなたのことはよく知ってるから、自己紹介は結構よ。三咲一真君、15歳、私立一条学園高等学校1年5組在籍。西都市内在住、家族は両親のみ、兄弟はなし。そんなところかな?……先月の遅刻回数は9回、それから……」
香寿美と名乗った女は席を立って、コーヒーメーカーが置いてある棚から何かを持ってきた。
「紅茶は甘目が好き」
そう言いながらグラスの横にガムシロップを3個、置いた。
「そのアイスティー、無糖のストレートだから。お好きなだけどうぞ」
絶句する一真を見ながら、香寿美は笑みを浮かべた。
「なんで知ってるかというとね、2~3日前からあなたのことをストーカーしてたのよ。気づかなかったかな?」
警戒する顔色を濃くしたのを敏感に感じ取ったのか、香寿美は表情を元に戻した。
「ひとつ、信じてほしいのは、私はあなたに危害を加えるつもりはないということ。例えばそのドア、鍵はかかっていないから、その気になれば君はいつでも部屋から出て行ける」
一真の背後にある、木製のドアを指差しながら言った。
「君が出て行こうとも、私は止めはしない。でも、それは私の話を聞いてからにしてほしいの」
確かに、一真は拘束されているわけでもなく、また冷やしたタオルは手当てをした証拠でもある。
どうする?
真剣な表情の香寿美を前に、一真は考えをめぐらせていたが、ふと重大なことに気がついた。
「そういえば、蓮見さんは?」
「彼女なら病院よ」
「病院?」
「でも、心配しなくていいわ」
香寿美は壁にかかったテレビを指差した。
「ちょうど、ニュースでやってるかもしれない。悪いけど、テレビつけてくれる?」
言われるがままに、一真はテレビのコントロールパネルにアクセスし、番組表からニュースを選択する。
60インチはありそうな画面に、見慣れた風景が映し出された。
「グッドタイミングね」
女性アナウンサーの声が聞こえてくる。
『今日午後7時ころ、西都市内にある丸山公園内で竜巻によるものと見られる被害が発生しました。現場では、林の木々がなぎ倒され、近くを通りかかっていた市内在住の高校生、蓮見素子さんが巻き込まれて負傷し、近くの病院へ搬送されました。全身打撲の重症ですが、幸い命に別状はないとのことです。警察と消防では現場を……』
そこまでで香寿美は電源を切る。
「ということで彼女は今、病院で治療を受けているわ。意識もはっきりしてるみたいだし、大丈夫よ」
あのときの様子から、大怪我をしているんじゃないかと心配になったが、無事とわかりひとまず胸をなでおろす。
「そういえば、もう一人いたような……」
「ああ、佳奈はね、警察に行ってるわ。第一発見者ってことで事情聴取を受けてるはずよ。今日はここへは戻ってこないから、明日以降、また改めて紹介することになると思う」
記憶を手繰ってみたが、自分と同い年くらいの少女の後姿しか思い浮かばない。
ついさっきのことなのに、所々の記憶が欠落している。
その原因は香寿美のパンチだけではないような気がしていた。
「それで、話を聞いてくれる気になった?」
一真は正直、迷っていたが、ひとまず身の危険はなさそうだし、聞くだけ聞いてみようという気持ちで答えた。
「とりあえず、話だけなら」
香寿美は「ありがとう」と言って、改めて話を始めた。
「どこから話をしたらいいかな……そうそう、なんで君を追い回していたかというとね、目的は『ラボ』と一緒。君のようなウィッシュボーンを探して、私達の仲間になってもらうため」
「ウィッシュ……ボーン?」
「ああ、ごめんなさい。私達はね、あなたのような『力』を持った人の事をそう呼んでいるの」
ウィッシュボーン。
香寿美の話を聞きながら、ネットワークから辞書サイトにアクセスして調べてみる。
「何て出てる?」
「えっ?」
「今、こっそり調べてるんでしょ。何て出てるの?」
「あ、ええと……」
指摘されてしどろもどろになりながら、表示を読み上げた。
「wishbone: 鳥類暢思骨、叉骨、胸骨の前の二またの骨………骨?」
「そう、英単語として調べるとそうなるの。でも、私が言っているのは違う。
綴りは『wishborn』。辞書には載っていない、『願いを叶える力を生み出す者』という意味でつけられた造語なの」
「ウィッシュボーン……」
もう一度、一真はつぶやいた。
「私達も、あの『ラボ』って組織も、ウィッシュボーンを探し出してスカウトしようとしているところは同じね」
香寿美は1枚の名刺を差し出した。
ペーパーレス社会といえども、こういった慣習的なものはなかなか無くならない。
高宮記念財団総合研究所
調査部調査第3課長
喜多 香寿美
名刺には、そう書いてあった。
「私達は、いわゆるシンクタンクと呼ばれる種類の組織でね、『高宮総研』とか単に『総研』とも呼ばれてる。その一部門として、私の課がウィッシュボーンに関する調査・研究を行っているの」
『ラボ』の二人とのやり取りを思い返すと、二つの組織が対立関係にあることは一真にも想像がついた。
「彼らは、ウィッシュボーンを集めている目的とか教えてくれた?」
「いえ、何も。仲間になったら教えるとだけ」
「そう、彼らのやりかたはそうね。私たちは逆。全ての情報を開示して、それで判断してもらう。だからあなたにもわかる範囲のことは伝えるつもり。差し当たって、知りたいことの第一位は、自分がどうしてこんな力を使えるのかってことじゃないかな?」
確かに、一真にとっての一番の疑問はそこだった。
「その前に、高校生ってことは、思力技術について一通りの教育は受けてきてるはずよね?」
「はあ、中学のときに。高校でも月イチで授業があるから」
「でも、学校で習うことは表の話」
「表?」
「そう。表があるからには、当然裏の話もあるの」
一口、コーヒーを飲むと話を続けた。
「人間の発することの出来る思力波は極めて小さい出力だから、アンプの助けを借りて、やっと信号としての役割を果たせるだけの出力に増幅しているわけよね。」
香寿美は壁の方へ視線を向ける。
「そして、人から発せられた思力波は、単なる信号としての役割しかない。例えば、こんな感じ……」
テレビのスイッチを入れると、次々にチャンネルを変えた。
「学校では技術論としてそういったことを教えてもらったはず。でもね、稀に、そうごくごく稀に強い思力波を出すことができる人がいるの。アンプなんか無しでも充分すぎるくらいの出力。いいえ、それどころか通常の計測機器では振り切ってしまうくらい強力な思力波を発することが出来る人々」
電源が落とされたテレビの画面が暗転する。
「そういった人々の発する思力は、単なる信号では無くなる。自らの思念を乗せた思力波を発して、この世に存在するあらゆるモノに干渉して、自分の考えているとおり、現実のものとすることができる」
正面に向き直った香寿美は、一真の目を見ながら言った。
「そう、つまりそれがウィッシュボーンの力の正体、『思力による思考の現実化』ということ。そのメカニズムは完全には解明されていないけれど、実験結果から因果関係にあることはほぼ間違いないといわれている」
「つまり、俺もそうだ、ってこと?」
香寿美はゆっくりと頷いた。
「ウイッシュボーンの研究は思力技術の発見と時を同じくして密かに始められた。そして現在まで、それは続けられているの」
俄かには信じ難い話に、一真は首を捻る。
いきなり理解しろというのも酷な話ではある。
その様子を見た香寿美が口にした言葉は唐突なものだった。
「君、さっきテレビを操作したわよね?それからネットに接続してウィッシュボーンの意味を調べたりした。違う?」
一真には、話の意図ががわからない。
「思力制御の機器を普通に扱っていた。そうよね?」
香寿美は立ち上がってデスクまで行くと、引出の中から見慣れた物を取り出す。
それを一真にも見えるように持ち上げて言った。
「あなたのよ」
反射的に首の後ろへ手をやるが、そこにあるはずのアンプは無かった。
「これで少しは信じてもらえたかな?私が説明してきたのが本当のことだって」
アンプを手渡しながら言った言葉に、同意せざるを得なかった。
現実に、アンプを装着しなくても香寿実の言ったとおり、機器の操作に何ら支障はなかったのだから。
答えが見つかったことで、ある意味、ホッとしていた。
当然、理解するところまではいってないが、一番の疑問点がひとまず解消されたことで、少し気が楽になっていた。
「で、俺達のような…ええと…ウィッシュボーンを集める目的っていうのは、何なんですか?」
「それを説明するには、まず『ラボ』について話をしないとね」
一真は瑠美の言葉を思い出していた。
「そういえば、あの人たち『公の機関だ』って言ってたけど、本当なんですか?」
「そうね。正式には『国立科学技術開発機構情報通信技術開発センター』っていうんだけれど、科学開発省が所管する、れっきとした国の機関ね。あの進藤って子も、黒津って子も、正真正銘公務員。まあ君の想像するいわゆる国家公務員とは違って、特別枠での採用になってるみたいだけど、公務員であることにかわりはないわ」
「あの人たちの目的って、いったい何なんですか?」
「うーん、そこなんだけどね」
香寿美はちょっと難しい顔になる。
「実を言うと、私達にもはっきりとしたことはわかっていないの。彼らが何を目的としてウィッシュボーンを集め、研究をしているのか。実を言うとね、私達は彼らの行動を監視するために作られた組織なの。表向きは普通のシンクタンクとして活動しているんだけど、それはカモフラージュで、真の目的は国家による思力技術の独占と悪用の防止、そのための監視が私たちの仕事。まあ、大げさに言うとそういうことね」
一真は素朴な疑問を口にした。
「でも、なんでウィッシュボーンの存在が表に出てこないんだろう?っていうか何で公にしないんですか?監視するなら沢山の目で見たほうがいいんじゃないかと思うんだけど……」
逆に香寿美が質問を返す。
「君、自分の力のことを親とか、友達に話したことある?」
「いや、話したことはないです。よくわからないけど、言ってはいけないような気がして……」
「君たち、ウィシュボーンはね、何故だか同じような行動をとるの。同じ力を持つ仲間以外には、自分のことを打ち明けたりしない。みんな、そういう遺伝子が組み込まれているんじゃないかと思うくらい、例外なく。これは推測でしかないんだけれど、特殊な力を持つ者特有の自己防衛本能じゃないかって言われてる。社会っていうのはね、異端の者に対してそれを排除する方向へと動くものなの。自分達の能力をひたすら隠すっていうのは、それから逃れるための手段なのかもしれない。表に出てこない、まず、それがひとつの理由」
香寿美は、そこで一旦言葉を切ると、微妙に異なる口調で話を続けた。
「もうひとつは、もっと生々しい理由。考えてもみて。ウィッシュボーンの存在を世界中の権力者たちが知ったとしたらどうなるか?当然、争奪戦が巻き起こるでしょうね、そんな便利な力を放ってはおくはずがないもの。新たな対立の火種となることは必至。だから、国としても拡散しないように細心の注意を払って情報を秘匿しているの。奇跡に近いわね、今まで諸外国に知られていないのは。権力の中枢でも、この件について知っているのはごく一握りの者だけだといわれてるわ」
急にスケールが大きくなって、実感が涌いてこない。
一真は話のレベルを身近なところへと戻そうとした。
「もうひとつ、質問してもいいですか?」
「聞きたいことはひとつどころじゃないでしょ?」
「まあ、そうなんですけど…」
「いいわよ。いくらでも訊いて」
「さっき拳銃を使ってましたよね?ということは、軍とか警察と関係があるんですか?」
猟銃などと違い、基本的に一般人には拳銃の所持許可は下りない。
この国で合法的に拳銃を所持しているのは軍人か、警察その他の法執行機関に属するものだけだ。
「これのことね?」
香寿美の手に握られているのは、やはり紛れも無い拳銃だった。
本物の銃を見たことがないのに、何故だか確信をもって言える。
これもウィッシュボーンの能力なのだろうか……。
「非合法に決まってるじゃない。うちは完全に民間組織だし、軍とか警察とは全くの無関係。見つかったら現行犯逮捕ね」
おどけた口調で言いながら、腰のホルスターに銃を戻す。
「いくらでも訊いて、って言ったけど、もうこんな時間だから今日のところはここまでにしましょう」
気がつくと時計は10時を回っていた。
「返事は今すぐに、とは言わないけどそんなに時間はないの」
その言葉に、一真はデジャヴを感じた。
「彼らが君をこのまま放っておくとは思えないしね。なんせ、佳奈に言わせると『ありえないほどの力の持ち主』らしいから、君は」
立ち上がった香寿美は軽くウィンクをして見せた。
「このままだと君の争奪戦ってことになりかねないわね、期待のルーキー君?」