(14) 覚醒
少年の目に映っているのは、ある意味では普段通りの光景と言える。
目の前で助けを求めている女の子一人救えない。
悔しい気持ち
悲しい気持ち。
情けない気持ち。
腹立たしい気持ち。
それらが一つに混ざり合い、心の中で感情の波を打つ。
そこへ現れた『あきらめ』が全てを覆い尽くし、壁を作り、蓋をして、抑え込む。
どうすることも出来ない無力感に苛まれる。
日常と非日常の違いはあるが、いつもと同じ、繰り返されてきたことだ。
違う。
少年は反芻する。
違う。
出来ないんじゃない。
やろうとしていないだけだ。
今は、違う。
感情の波がその高さを増し、出口を求めて抗う。
そして、一粒の赤い雫が最後の壁を突き崩す。
運命が、動き出す。
「何なの?、どうしたっていうの!?」
自分の背後で起こったことがわからず、苛立ちを隠せない瑠美の言葉が飛ぶ。
そこには、一真を中心とした直径十数メートルの渦がうなりを上げていた。
まるで竜巻のように周りの全てを巻き込みながら、確実にその速度と大きさを増していく。
一真の咆吼が響き渡る。
焦点を失った視線が、明らかに正気ではないことを物語っている。
「見てのとおり、何だか目を覚ましたみたいでさ。そのまま『バックラッシュ』しちまった」
「それは見ればわかるわよ。なんでこうなったのか聞いてるの」
肩をすくめて黒津が答える。
「ちょっと、俺のおイタが過ぎたんだろうな。それで怒らせちまったんだと思う」
右手首の辺りをさすりながら、僅かに顔をしかめた。
「起きた途端に大暴れか、俺の甥っ子の機嫌が悪い時とそっくりだな。だけど、こいつは……」
改めて眼前の光景を見渡しながら言った。
「こいつは、とてもじゃないけど俺の手には負えないな。どうする?」
口を真一文字に引き締めたまま、同じように目の前の現状を見つめていた瑠美が、ようやくその口を開いた。
「確かに。2,3人が束になっても、どうこうできるレベルじゃなさそうね」
その言葉には、圧倒的な力の前に立たされた人間の無力感が滲んでいた。
「じゃあ、決まりだな」
「ちょっと、ちょっと!逃げるつもりじゃないでしょうね!?」
叫び声に近い少女の言葉に、振り返った瑠美が答える。
「私達、彼については手を引くわ。あとはそちらでご自由にどうぞ」
そう言った瑠美の体が次第に輪郭からぼやけていく。
「あ、待ちなさいよ!こうなったのもあんた達のせいでしょ!?」
少女の言葉を無視して、瑠美と黒津の姿が、既に辺りを支配していた闇と同化していく。
そして最後にはかき消すように見えなくなった。
「うん、もう!」
少女が呪いの言葉を吐いたとき時、ようやく倒れていたスーツの女が起きあがってきた。
「香寿美さん!大丈夫!?」
「どうなってるの、これは?」
「その男の子が『バックラッシュ』したみたいで。『ラボ』の二人は逃げちゃうし、私だけじゃ抑えきれないの」
香寿美と呼ばれた女と、その傍らに倒れている素子は、一真が作り出した渦の中に取り残されてしまっていた。
「どうしよう、香寿美さん。だんだん渦が大きくなっていってるみたいなの。このままじゃ……」
少女は広げた両手を重ねて前に突きだし、抑え込もうという体勢を取っていたが、その努力を嘲笑うかのように渦は成長を止めず徐々に大きくなっていく。
その一部は周囲の雑木林へと達していたが、外周部分に触れた木々は、あたかもグラインダーを当てられたバルサ材のように一瞬で削り取られて消し飛んだ。
「……応援を……いや、いまさら間に合わない…どうすれば……」
女は、咆吼を上げる一真、倒れたまま動かない素子、渦の向こう側にいる少女、と視線をめまぐるしく動かしていたが、一巡して一真に戻ってきたとき、フッと口元に笑みを浮かべる。
「……そうね……一か八か……」
そうつぶやくと、低い姿勢のまま地を蹴って疾駆した。
一気にトップスピードに達すると、そのまま右の拳を突き出す。
正気を取り戻した一真が最初に見たのは、自分のみぞおち辺りに手首までめり込んでいる腕の白さだった。
「え、あ、何?……」
だが、それも束の間、次の瞬間には再び意識がブラックアウトした。
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ボディーブローをくらった一真がダウンする少し前、逃げた二人の姿は直線距離にして3キロは離れた住宅街の中にある小さな公園にあった。
さっきまでいた小高い丘の頂上が、家々の屋根の間から僅かに見える。
腕組みをしながらそちらの方角を向いて立っている瑠美が独り言のようにつぶやく。
「バックラッシュは制御棒が無い原子炉で発電を続けるようなものだから。許容範囲を超えれば……」
「メルトダウン、か」
ブランコに腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた黒津が、背後から合いの手を入れる。
チラリと振り返った瑠美が言葉を続ける。
「しかも、あれだけの力を出し続けている訳だから、そうなったときには気を失う程度じゃ済まないでしょうね。最悪、命に関わることになるかも……」
「しかし、ありゃ何だい?あんな力見たことねえんだけど」
そう言いながら左手に持ったコーヒーを飲み干す。
「バックラッシュは自制が効かない分、普段より強い力が出るものだけれど、それを差し引いてもあの子の力は尋常じゃないわね。これだけ離れているのに、今でも力のうねりを感じる」
「確かに、尋常じゃないかもな。避けたつもりだったんだけど、このざまだ」
そう言って黒津は右手を上げて見せた。
赤く腫れ上がった手首が痛々しい。
「さっきのはただの竜巻じゃないわ」
「どういう意味だ、そりゃ?」
「竜巻っていうのは、つまり空気の流れでしょ?でも、あの子が作り出した渦はそうじゃなかった。あんたも薄々感じていたんじゃないの?」
「ああ、確かにな。何て言うか、その、空間自体が動いているっていうか……」
そこまで言って、ハッとした表情になる。
「まさか……」
「そう、その『まさか』の可能性があるわね」
「『空間操作』?あの坊主が?」
無言で頷く瑠美に黒津が話を続ける。
「しかし、そうなってくると話がややこしくなるな。課長どころか、もっと上に話がいくだろうし」
「それは仕方がないわね。何せ今までに……」
そこまで言ったところで、言葉を止めた。
二人の視線が同方向を向く。
無言のまま、何かを探るような表情をしていたが、やがて黒津が口を開いた。
「止まった、な」
「そうね」
黒津は座っていたブランコから勢いよく飛び降りた。
「あの女の子が抑え込んだのか、それとも……」
「そんな力は無いわ。多分、あの三咲って男の子が自滅したのね」
二人は、自分たちの予想が外れていることなど知る由もない。
「こっそり戻って事態を確認するべきなんだろうけど、今日はなんかもう疲れた。そこまでやる気にならねえな。」
「同感。」
瑠美は頷いた。
「いいわ、報告書では適当にごまかすから。」
そう言いながら、瑠美は横目で睨むように黒津の顔を見る。
「今日の件はあんたにも責任があるんだから、報告書、手伝いなさいよ。どうせ課長は明日の午前中にある定例の幹部会議に間に合うように提出しろって言うだろうし」
「えー?今日のことはとりあえず口頭報告でいいじゃん」
「そこが私達とキャリアっていう人種との差ね。あいつらは何でも報告書にして出せっていう考えだから」
「へえへえ、了解。あーあ、またデスクワークで徹夜か。これだから宮仕えはつらいよ」
黒津は手にした空き缶を、公園の隅に置かれているゴミ箱へ向かって放り投げる。
左手で投げたせいで、缶は狙いから大きく外れて飛んでいったが、急角度で進行方向を変えて無事にゴミ箱へと収まった。
ガランガランと金属同士がぶつかり合う音が、夜の公園に響く。
「それよりお腹空かない?どうせ朝までオールナイトなんだし、何かおいしいモノ買って帰るってのはどう?」
「おっ、いいね。じゃあ俺は……」
揃って公園を出た二人は、夜食を何にするか激論を戦わせながら夜の住宅街へと消えていった。