(13) 動き出す
三咲一真は後悔していた。
タクシーを使って自宅まで送っていけば、こんなことにはならなかったのに、と。
素子の様子は、徐々にではあるが普段どおりに戻りつつあったし、
「外の風に当たりたい」
と希望したことから、『雑踏の中を歩くよりは』と考えて帰路にある丸山公園の中を通って行くことにしたのだが、それが運のつきだった。
その人影に気がついたのは、上り坂になった遊歩道を二人並んで歩いているとき。
逆光で顔はよく見えなかったが、坂を下りてくるのが髪の長い女性であることは認識できた。
最初はそれほど気にも留めなかったが、近づいていくうちに二人の表情が険しくなる。
坂の途中で立ち止まっても、その人影は歩く速度を緩めることなく、見る見るうちに姿が大きくなる。
およそ10メートルの間合いを置いて立ち止まったときには、その相手が誰なのか、はっきりとわかっていた。
「こんなに早く再会とは思ってもみなかったかな?もう二度と見たくない顔かもしれないけど」
笑顔で話しかけてくる瑠美の言葉に、二人の表情はいっそう硬くなる。
背後からの気配を感じたのはその時だ。
ハッとして振り返ると、遊歩道のすぐ脇まで張り出した雑木林の木にもたれかかって立つ黒津の姿があった。
夕日を受けて髪の金色が輝いて見える。
(囲まれた)
相手は二人しかいないのに、そう感じてしまうくらい前後から受けるプレッシャーは尋常ではない。
「顔色がよくなってきたみたいだけど、気分はどう?もう大丈夫なの?」
一真の後ろに隠れるようにして立っている小柄な体が、ビクッと反応する。
「もう少し話がしたいんだけれど、いいかしら?」
二人を交互に見ながら言ったその言葉は、穏やかな口調で発せられたにもかかわらず、抗いがたい威圧感を持っていた。
「道の真ん中で話をするのも何だから」
そう言って、林の中へと入っていくのに呼応して、追い立てるように黒津がゆっくりと近づいてくる。
二人は瑠美の後についていくしかなかった。
立ち止まったのは、木々が途切れて広場になっている場所。
その真ん中で瑠美が振り返る。
「実はね、私の上司がどうしても君達二人と話がしたい、って言ってるの。これから一緒に来てもらえないかしら」
一真の背後では、最後尾を歩いていた黒津が広場の端に横たわる倒木に腰掛ける。
退路を断たれた格好だ。
「さっきも言ったように、悪いんですけどあなた達には協力できません」
「つまり、来てはもらえないってこと?」
一真は無言で頷く。
逃げ出したくなるような緊張感に耐えながら。
「そう、それじゃあ仕方がないわね」
「えっ?」
予想に反して瑠美があっさりと引き下がったので、思わず声を上げた一真は素子と顔を見合わせる。
「残念だけど、あきらめるわ」
その言葉を聞いて、二人はちょっと拍子抜けしたが、とりあえず胸をなで下ろす。
「じゃあ、俺達はこれで」
一真が一歩目を踏みだそうとした。
「待ちなさい。帰っていいなんて、ひと言も言ってないわよ」
広場に冷たい声が響く。
「えっ、でも俺達のことはあきらめるって……」
「私は君達を説得するのをあきらめた、と言っただけ」
そう言いながら右手をゆっくりと上げていく。
「これからは腕力に頼ることにするわ。こんな手段を使うことになるなんて、本当に残念」
口角をわずかに上げたその表情は、見る者の背筋を凍らせるような冷たさを持っていた。
「大丈夫、ほんの少し眠っててもらうだけだから」
はっ、と短く息を吐きながら、左の肩口まで上げた右手を水平に一閃する。
敵意が込められた、圧倒的な力の波が襲いかかってくるのを感じた。
一真は咄嗟に素子を抱きかかえ、力の源に背中を向ける。
背後からの衝撃を覚悟して全身を硬直させたが、一向にその瞬間は訪れない。
奇妙な静寂を破ったのは、聞き覚えのない少女の声だった。
「ふぅー、何とか間に合った。間一髪、ってとこかな。何か私、格好いいんじゃない?」
振り返った一真の目に、少女の後ろ姿が映った。
霧がまとわりついているように体の輪郭がわずかにぼやけて見える。
風もないのに長い黒髪が舞い、スカートの裾が翻っていた。
「大丈夫?」
そう言った横顔は、思わず見とれてしまうくらい均整のとれたラインで構成されていた。
一真の目には、頭のカチューシャがアンバランスに映る。
「また邪魔しに来たの?いいかげんにしてもらいたいわね」
苛立ちを含んだ瑠美の言葉に、少女は場違いなほど楽しそうな口調で答える。
「いいじゃない?たまには一緒に運動するのも。デスクワークだけじゃ体が鈍っちゃうでしょ?」
「だったら、お望みどおり相手してあげるから」
一瞬、その姿を見失うほど瑠美の動きは俊敏なものだった。
人間の限界を遙かに超えたスピードで、瑠美の攻撃が繰り出される。
しかし、少女の楽しそうな表情は変わらない。
的確に隙をついてくる力を、すべて受け流しているように見える。
「チッ」
小さく舌打ちすると、瑠美は一旦大きく後方へと跳んで間合いを開けた。
「相変わらず、のらりくらりとかわすのだけは上手ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
そう言いながら少女は大袈裟にお辞儀をして見せた。
「さあ、今の内に逃げるわよ」
突然の声に、一真は一瞬、混乱した。
いつの間にか一真の隣に女が立っている。
長身の体に黒いスーツを纏ったその女の姿を見て、黒津が腰掛けていた倒木から飛び降りる。
「ちょっと、ちょっと、そんなことされたら困るんだよなー。万難を排してでもその子達を連れて来いって命令受けてるんだからさあ」
いつもの軽い口調で言葉を続ける。
「姐さんも組織人なんだからわかるだろ?上司の命令には逆らえないことぐらいは、さ」
女が答える。
「そうね、よーくわかるわ。私も同じ指示を受けてるからね、私の上司から。あなた達のように、『実力行使を伴う同行』じゃないけど。レベル3だったかしら?その命令って」
一真は状況を理解しようと頭をフル回転させた。
どうやら対立する二つの組織があるらしい。それは間違いない。
俺たちはその間で取り合いになっているらしい。それも間違いない。
『どちらにも与せずに立ち去る』という第三の選択肢は無さそうだ。
どちらかを選ばなければ、この場から無事に離脱できそうにない。
その結論までは何とかたどり着いたが、今までの人生の中で下してきたどの決断よりも重大な選択を迫られていた。
そこへスーツの女が、頭の混乱に拍車を掛けるような行動に出る。
女はジャケットの裾を跳ね上げると、腰の後ろに隠したホルスターから拳銃を抜き、真っ直ぐ黒津に構えた。
そして、ためらいもなく引き金を引き絞る。
間をおかず2回。
強化樹脂を使用した銃の外観は、一見するとエアガンのようにも見えるが、銃声と共に銃口から飛び出したのは紛れもなく殺傷能力を有する実弾だ。
それまでの薄笑いが引っ込み、黒津の表情が驚きへと変わる。
しかし、正確に頭を捉えたはずの弾丸は、標的に命中することはなかった。
目標に到達する数十センチ手前で全ての運動エネルギーを使い果たしたかのように、2発の鉛玉は力無く地面に落ちる。
「この野郎!」
おそらく普段は使わないであろう言葉を、思わず、といった風に口走った黒津は、右腕を水平に鋭く振り抜く。
うなりを上げて衝撃波が女へと殺到する。
「だめぇー!!」
今度は素子が予想外の行動に出た。
女の前に体を投げ出してかばったのだ。
強烈な力を全身に受けた小柄な体は、人形のようにはじき飛ばされ、音をたてて乾いた地面に叩きつけられた。
「あっ」
黒津が思わず声を上げる。
地面に横たわった体は、ぴくりとも動かない。
「何やってんの!殺しちゃったら意味がないでしょ」
「しょうがないだろ。こんな所でいきなり銃をぶっ放すとは思わなかったからよ。思わず手がでちまったんだよ!」
非難の声を上げた瑠美に言い訳する。
「蓮見さん!」
駆け寄った一真が抱え起こすと、
「う、うう…」
と小さな声を漏らして体を震わせた。
「なんとか生きてるみたいだな」
黒津の顔に、いつもの飄々とした表情が戻る。
その顔めがけて、女は銃を構え直すと、弾倉が空になるまで連射する。
放たれた弾丸は正確に黒津の顔面へと集中していたが、またもや狙いまで到達することは出来なかった。
黒津の足元にボトボトと鉛玉が落ちる。
女は空になった弾倉を素早く銃から引き抜くと、ホルスターと一緒に吊っているホルダーから新しい弾倉を取り出して銃にセットしようとした。
「姐さん、こんなところでやりすぎだ。銃声聞いた一般人に通報されちまうよ」
そう言って黒津は右手の人差し指と親指を立てて拳銃のような形を作ると、女に狙いを定める。
「バン!」
その声と共に、女の手から拳銃がはじけ飛んだ。
空中でクルクルと回転すると、数メートル先に落ちる。
「バン、バン!」
落下地点へ駆け寄る女に向かって、黒津の声が追い打ちをかけた。
その表情は、まるで戦争ごっこをする無邪気な子供のように見える。
うめき声を上げて女が倒れると、
「俺は元々、素人さんは相手にしない主義だからさ。そこで大人しくしててよ」
そう言いながら、視線を一真の方へと向ける。
「玄人のお二人さんには一緒に来てもらおうかな」
身構える一真に向かって、すっと右手を伸ばす。
突然、のど元を大きな手で掴まれたような、そんな感覚に陥る。
「ぐ、うぐぐ……」
徐々に上がっていく手と連動して、一真の足は地面を離れ、その体は宙吊りになる。
「じゃあ、お嬢ちゃんも」
同じように素子へ向けた左手を上げていく。
気を失いかけている少女の体が、無理矢理地面から引き剥がされた。
苦悶の表情から漏れ出る微かな声が、一真の耳に聞こえてきた。
「助けて…」
一真は無力感に襲われていた。
息をするのがやっと、声も出せない。
目の前の一人の少女も助けられない。
こんなになっても、まだ力が使えないのか。
近づいてくる金色の髪が、ぼやけて見える。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
黒津が瑠美に声をかける。
「待ちなさいよ!」
少女が黒津の方を向いた、その隙を逃すはずがなかった。
「あんたは自分のことを心配しなさい!」
渾身の力を込めて放たれた左足を何とか受け流しはしたが、おかげで少女は一真達から引き離されてしまった。
素早く黒津の背後を守る位置に入った瑠美が、少女の動きを牽制する。
「じゃあな、お嬢ちゃん達。今回は俺達の勝ち、ってことで」
背後の少女と、数メートル先に倒れている女へ交互に視線を向けると、捕まえた二人に向き直る。
その時、微かに開いた素子の目に、僅かだが力がこもる。
「くっ!」
黒津の右目の下に横一線の傷が浮かぶ。
「くっくっくっ、いいねえ、いい根性してるじゃない。だが、お遊びはここまでだ」
くぐもった笑い声を上げながら、黒津は傷口から口元まで流れてきた血を舌で舐め取ると、素子へ突き出した左手に力を込めた。
「う、ぐぐ…」
最後の力を振り絞った抵抗も抑え込まれ、もう為す術はなかった。
小さなうめき声と共に素子の口から流れ出た一本の赤い筋は、やがて一つの球となって地面へと落ちる。
スローモーションのようにゆっくりと見える鮮やかな赤色の軌跡が、一真の心の奥底にあるもの刺激した。
何かが動き出す、そんな気がした。
「おおおおおお!」
声など出ないはずだった。
しかし、一真は吼えていた。
「おおおおおお!」
その場にいた全員が感じていた
ゆっくりと、しかし力強く、確実に何かが動き出していることを。