(12) 妥協点
「ホントに大丈夫?」
「ごめんなさい。もう平気です」
全身の震えは止まっているし、顔色も元に戻りつつあった。
一真の支えが無くても、なんとか一人で歩くことはできている。
「そうか、ならいいんだけど。でもちょっとビックリしたな、いきなり震えだしたから」
「私も、あんな事になるとは予想してなかったから……でも、もう大丈夫です」
店が見えなくなるところまで来ると、一真は待ちきれない様子で尋ねた。
「それで、どうだった?あの人、やっぱり嘘をついてたり悪いことを考えてたのかな?」
「それが……」
言っていいのかどうか迷っているような、ちょっと複雑な表情を浮かべていたが、やがて心を決めて話し出した。
「犯罪者とか、そう言った意味での悪い人じゃないことは確かです。嘘をついているような感じも受けなかった。私達をだまそうとか、そういった悪意みたいなものも感じられませんでした。悪人か、そうじゃないか、と訊かれたら、私は『違う』と答えると思います」
「えっ、それじゃあ、何故……」
思わず立ち止まった一真の顔を見ながら素子は答えた。
「あの人とは、ものの考え方、価値観、判断基準、そういった根本的なところが全く違っていたんです」
「だけど、考え方の違う人なんて、いくらでもいる訳じゃない?俺と蓮見さんでも違うわけだし。あの人の場合は、何が違ってたんだろ?」
それはもっともな疑問だ。
素子は自分の考えを説明した。
「確かに、全く同じ価値観の人なんてあり得ないかもしれない。他人同士、違うところの方が多いでしょう。でも、あの人の場合は『違う』だけじゃなかったんです。私にとってどうしても受け入れられない考えの持ち主だったんです。そう、心の中を覗いている間、違和感で吐きそうになるくらいでした。交わるところが無い、って言えばいいのかな。自分とは全く異質な思考の中に無防備で放り込まれたような感じがして……気が付いたら相手の中から逃げ出していました。本能的に自己というものを守ろうとしたのかもしれません」
そこまで話すと、申し訳なさそうに小さな声で謝る。
「私の主観でどうするか決めてしまったみたいで、ごめんなさい」
「いや、謝る事じゃないよ。そう感じたんなら、俺も蓮見さんの判断を信じるよ。でも悪かったな、苦しかったんじゃない?あんなに顔色が真っ白になって震えてたし」
「三咲君の時とは全く違ってたから、正直、苦しかったのは事実です。でも、隣に三咲君がいてくれたから、一人じゃないんだって、そう思えたから。だから、何とか耐えられたんだと思います」
「いや、俺は何にもしてないし……そんな風に言われると、何だか照れるな」
はにかみながら頭を掻いている一真を見て、素子にもようやく笑顔が戻ってきた。
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「……はい、結果的には失敗です。申し訳ありません。……え?いや、しかしそれは……」
一人残った瑠美は、ひとしきり電話で状況を説明していたが、途中から雲行きが怪しくなっていった。
相手はどうやら目上の様子。
反論する瑠美の言葉など聞く耳を持たないようだった。
やがて、根負けしたかのように相手の主張に同意する。
「……はい、わかりました。終わればすぐに一報入れます。では……」
電話を切ると、うんざりした表情で深いため息を漏らし、背もたれに体を預ける。
「なかなかやるじゃん、あの二人」
いつの間にか現れた黒津は、さっきまで一真が座っていた席に腰掛けた。
「いつも冷静沈着、クールビューティー進藤さんを動揺させて本心を暴き立てるなんざ、素人にしちゃあ上出来、上出来」
「私、動揺なんかしてないわよ」
憮然とした表情で答える。
「そうだな、動揺、じゃないな。不意をついた攻撃に本能的に反応した。その時、一瞬だけ優しいお姉さんの仮面が剥がれた、ってことだな。敵意に対して同じように敵意で返してしまったから、そこに隙ができたんだろうな」
「すぐにリカバリしたつもりだったけど。私にも油断があったことは否定しない。早くしなきゃ、と考えていたところへ、向こうから返事があったから。つい、喜びすぎてしまったのね」
「でもよ、一瞬だけ開いた隙を突破口にして深層心理にまでねじ込んでいったわけだよな。やることがえげつないねえ。あのお嬢ちゃん、おとなしそうに見えて案外やり手だな」
テーブルの上には一真と素子が手をつけずに残していったグラスが二つ、置き去りにされていた。
頬杖をつきながら、黒津がストローでグラスの中の氷をくるくる回すと、カランと涼しげな音色が響く。
「で、どうするんだ、これから。このまま放置するのか?」
「私としては、そうしたかったんだけどね。でも『処置』しろって、うるさく言うのよ」
「さっきの電話、課長か?」
あからさまに渋い表情を作る。
「そう。散々文句と嫌みを言われたわ」
「『処置』って、どのレベル?」
「一番下。レベル3」
それを聞いて、黒津の表情は更に渋さを増した。
「でもなー、あの二人、特にお嬢ちゃんの方がそれで納得するとは思えないんだけどな」
「それは私も同感。おそらく徒労に終わる可能性の方が高いでしょうね。そう思ってだいぶ粘って抵抗してみたけど、無駄だった。まあ元々、まず結論ありき、の人だから。所詮、私達の意見なんて求めていないからね」
「ということは、説得できると本気で思ってるのかね?それとも取り込みの実績数だけ上がればいいと思ってるのか……それだったら本末転倒もいいとこだな」
「私も昨日までは同じ考えだったから、人のことを非難する資格はないけどね」
自嘲気味に瑠美はつぶやいた。
渋面を和らげながら、黒津が質問する。
「で?こんな状況でもやるのか?」
「そうね。私は自分の仕事は自分の力で最後まで成し遂げたいの。たとえ意に染まないことでも、自分に課せられた以上は」
「ふーん、いい心がけじゃないですか。組織人の鑑だね。じゃ、まあ、あとは頑張ってくださいよ、俺はそろそろ帰るから」
「なに言ってんの、あんたも手伝うのよ。この案件の従事者にはあんたの名前も入ってるんだから」
席を立とうと腰を浮かせた格好のままで、抗議の声を上げる。
「おいおい、ちょっと待てよ。勝手に俺を巻き込まないでくれる?」
「勝手に、じゃないわよ。昨日、あの子達と接触したとき、あんたも一緒にいたでしょ?報告書にはちゃんと入ってるんだから」
「あ、きったねーな。さっき、自分の仕事は一人でやりきるって言ったばっかりじゃねーか」
「『一人で』なんて一言も言ってないわよ」
澄ました横顔に目をやりながら、黒津はあきらめの表情を浮かべる。
「ちぇっ、しょうがねーなー。手伝ってもいいけど、あくまでサブだぜ、いいな?」
「いいわよ。手が足りなくなった時に助けてもらえれば」
笑顔の瑠美とは対照的に、浮かない顔の黒津が質問する。
「で、いつやるつもりなんだ?」
「今からよ」
「えらい急だな」
「私、せっかちなのよ。知ってるでしょ?」
そう言ってティーカップを手に取る。
「待つのも待たせるのも大嫌いなの」
言い終わると、冷めてしまったレモンティーを一気に飲み干した。
「行くわよ」
空になったカップをソーサーに置いて席を立った瑠美に続いて、やれやれ、といった表情で黒津も立ち上がった。
「サッとやってすぐにケリが着けば、デートに付き合ってあげるからさ」
それでもやる気の見受けられない相棒を追い立てるようにして、見た目だけはカップルのような二人は店を後にした。