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リアライズ  作者: 伊勢之 剛
第一章 起動する運命
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(1) 日常 ~プロローグ~



 目覚まし時計のけたたましいベルの音が鳴り響く。

 何回目だろうか、ベッドから伸びた手がボタンを押して音が止まる。

 三咲家で毎朝繰り返される風景だ。

 一呼吸の後、ベッドから跳ね起きた少年が時計をつかみ取り、午前7時50分を回っていることに驚愕の声を上げるのも、またいつものことであった。

 少年はクローゼットから引っ張り出したカッターシャツとスラックスをあわてて着込み、ブレザーの袖に腕を通しながら床に転がっていた鞄を掴むと部屋を飛び出した。

 いや、正確には部屋を出る直前にUターンし、机の上に無造作に放り出されていた『忘れ物』をつかんでまた走り出す。

 それは、短いカチューシャのような、言い換えればアルファベットの『C』のような形をしていた。

 少年が首の後ろから髪の生え際辺りにそれをはめ込むように装着すると、視界の左上に現在時刻がデジタル表示で浮かび上がった。


    AM8:01


 遅刻回避のタイムリミットまで30分を切ってしまった。

 階段を一気に駆け下り、玄関へ直行する少年の後ろから母親の声が追いかける。


「一真!朝食くらい食べて行きなさい!」

「無理無理!そんな暇なし!」


 少年、三咲一真はスニーカーに両足をねじ込むと、靴箱の中から学校指定のローファーを取りだして鞄の中に押し込む。これから始まるマラソンに革靴は不向きだ。


「行ってきまーす!」


 玄関から勢いよく飛び出した少年ランナーが、閑静な住宅街の中を駆け抜けていく。

 と、見通しの悪い十字路にさしかかる。

 一昔、いや二昔前の少女漫画なら、角から曲がってきた転校生と正面衝突して運命の出会い、となるところだ。小道具としてトーストでもくわえていれば完璧だったろう。

 実際、一真の進行方向右手から十字路の角を曲がろうとしている人がいたが、それは転校生の美少女などではなく、犬を連れた散歩途中の初老の紳士だった。

 そして現実には、生憎とちょっとやそっとでは正面衝突などしないようなシステムが張り巡らされている。

 一真もその紳士も相手の姿は見えていないが、お互いが十字路に向かって近づいていることは百も承知だ。

 十字路に立てられた道路標識にはセンサーが埋め込まれており、熱源の接近を感知してその位置をリアルタイムで発信し続けている。

 その情報を受け取った一真はあらかじめ道路の反対側へとランニングコースを変えていたし、紳士の方も犬のリードを短くしていた。

 何事もなく十字路を通過して二人の距離は遠ざかっていく。

 こうして運命の出会いをすることもなく、マラソンは続いた。


 一真の自宅から彼が通う一条学園高等学校へ行くには、通常、大通りへ出てバスに乗るが、利用するバス路線は市内中心部に位置する丸山公園の広大な敷地の外縁に沿っているので、大回りとなってしまう。

 おまけに途中で乗り継がなくてはならないことから、必ずしも最速というわけではなく、距離的には、丸山公園を突っ切っていく方が最短ルートになる。

 あとはバスの運行ダイヤと、乗り継ぎがスムーズにいくかどうかが鍵だ。


(ええと、バスの時刻は、と…)


 視界の右端に、市の交通局が提供している市バス時刻表検索システムの画面が現れた。

 地図情報サービスとリンクさせ、現在地からバスを乗り継いで学校まで行く場合の所要時間を計算させると、待ち時間を含めて21分25秒、到着時刻は午前8時30分31秒と出た。

 これではいけない。31秒の遅刻だ。


(公園を突っ切るルートは…)


 このままの速度で走った場合の予想到着時刻は午前8時29分55秒。

 わずかな可能性に賭けることにした。


 彼がこれだけ遅刻回避にこだわるのには深刻な理由がある。

 今日は5月31日、5月に入ってすでに9回の遅刻を記録している。

 一条学園の生徒規則には、


   『同一の月内に10回以上遅刻した生徒は、10枚の手書きレポートを提出すること』


との条項がある。レポートと言えば響きはいいが、要するに『反省文』のことだ。

 社会のあらゆる場面においてペーパーレス化が進んでいる中、教育の現場は古来からある『紙』を見捨てることなく使い続けている。

 もちろん、普段の授業では電子化された教科書と各生徒の机にビルトインされた情報端末を使用するが、反省文のように『指導〈おしおき〉』に類することとなるとアナログデバイスの出番だ。

 この国の教育者達は『手で文字を書く』という行為に教育効果があると信じているわけだ。

 大多数の高校生と同じく、文字を書くことが苦手な一真にとっては、何としても通称『10レポ』だけは避けたい。

 今日を乗り切れば明日からは6月、遅刻回数もリセットされる。


 そんなことを考えながら走っていると、目の前に巨大なゲートが見えてきた。

 市内最大規模を誇る丸山公園は、面積約110ヘクタール、敷地内には池や丘があり、市民の憩いの場となっている。

 東南に位置するゲートをくぐって敷地内へと入った一真は、しばらく遊歩道を走っていたが、子供用の遊園施設に突き当たる手前でコースを左へ外れて柵を跳び越え、まばらに生える木の間を縫って学校までの最短ルートをひた走る。

 遊歩道を通って行ったのでは、学校のはるか北に位置するゲートから出ることになり、時間をロスしてしまう。

 雑木林を突っ切って公園外周の塀を乗り越えれば、高校の正門から東へ約300メートルの地点に出ることができるのだ。

 市民公園ということもあり、外周にセンサーなどの防犯設備が設置されているわけではないので、最短ルートを通った一真が最終段階で塀を飛び越えたとしても、別に咎められることはない。

 一真の目に低いコンクリート製の塀が見えてくる。まるで最後のハードルのように。



・・・・・・・・・・・・・・・



 生徒指導部長を努める小川栄三は、正門前で仁王立ちになっていた。

 学生時代にラグビー選手として鳴らした均整の取れた筋肉質の体は、一見すると体育教師の外見だが、れっきとした古典を教える国語教師である。

 彼の視界の右側には、現在までの登校生徒数『751名』が表示されていた。

 学校の各門に設置されたセンサーが登校してきた生徒の個別IDを検知して、誰が校内にいるのかが瞬時にわかるシステムになっている。

 全校生徒数は758名、事前に病休などで欠席の届け出があった生徒は6名、差し引き残りはたったの1名。

 システムにアクセスすれば、最後の一人が誰だかすぐにわかるが、敢えてそれをしなかったのは、残っているのが誰なのか分かりきったことだからだ。


「小川先生」


 若い教師が歩いてきた。

 小川と同じ生徒指導担当の萩原だ。


「あと一人ですねぇ」

「ああ、そうだな」

「今月のあいつの『スコア』は?」

「9回だ」

「オーラスでリーチですか。ま、この場合、当たり牌は来て欲しくないでしょうけどね」


 萩原にも最後の一人が誰なのか分かっていた。

 続けて荻原が何か言おうとしたちょうどその時、腕組みをしながら最後の一人を待つ小川の目に、直線走路に入ってきた少年ランナーの姿が映った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 公園外周に設置された塀を飛び越え、ゴールまで残り300メートルとなった時点で、一真には時刻を確認しながら走る、などという余裕はもはや無かった。

 タイムリミットを告げるチャイムが聞こえてくるのが先か、校門というゴールテープを切るのが先か。

 一条学園を含めたほとんどの学校では、いまだに日課時限を区切る合図として校内へのチャイム吹鳴という手段を用いており、当然、登校のタイムリミットである午前8時30分も例外ではない。

 学校の敷地内に多数設置されたスピーカーから、おなじみのメロディーが聞こえてきた瞬間、全ての努力が水泡に帰す。


(鳴るな、頼むから!)


 心の中で念じながら、ラストスパートにすべてを賭ける。

 徐々に大きく見えてくる校舎、そして、まるで門番の様に不動の姿勢で待ち受ける教師。

 あと一息でレポートのプレッシャーから解放される。

 そんな思いが少年の心に浮かんだ瞬間、ゴールまで残り5メートルのところで無情にも時計の針は午前8時30分を通過した。

 約6キロを走り抜いた少年ランナーは、すぐに止まることが出来ず、もつれる足で正門から中へと転がり込んだ。


「残念だが三咲、3秒遅刻だな」


 ゆっくりと近づいて来た小川が、地面に大の字になった一真を見下ろしながら無慈悲に宣告する。


「で…でも先生。まだ…チャイム…鳴ってないです…よ」


 息を整えようと努力をしながら、一真は何とか言い訳を試みる。

 なに馬鹿なことを、と言わんばかりの顔で小川が、


「チャイムは鳴っただろう。とっくに8時半を回って…」


そこまで言ったところで、校舎のスピーカーから流れてくるウェストミンスターの鐘のメロディーが言葉を遮った。


「ほ…ほらね…」


 何とか体を起こした一真の声を半ば聞き流しながら、小川は訝しげな顔で校舎を仰ぎ見る。

 壁面に埋め込まれた古めかしい2針式丸時計の針は、8時32分を指し示すところだった。


「規則には、登校時刻は午前8時30分と明記されている。遅刻は遅刻だ」

「で、でも先生、『日課時限の開始はチャイムの吹鳴を合図とする』とも書いてありますよ」


 一縷の望みを託して最後の抵抗を試みる。


「先生。ここはひとつ、痛み分けって…ことで…」

「三咲、いつものことだが言葉の使い方、間違ってるぞ。痛み分けっていうのはだな…」


 何とかレポートから逃れようと言い訳を繰り返す一真を、やれやれといった表情で見ていたが、腕組みを解きながら根負けしたように言った。


「まあいい。今日だけは特別に『痛み分け』にしておいてやる。早く教室へ入れ」

「あ、ありがとう、ございます」


 息も絶え絶えに答えると、一真はふらつく足で立ち上がる。


「三咲、何とかレポートは免れたみたいだな」


 後ろから萩原がかけた言葉に、振り向きながら声にならない笑みで返事をして、一真は校舎の方へと去っていく。


「小川先生、これで全員ですね」

「ああ」


 萩原に生返事を返しながら、小川の視線は校舎の時計へと注がれていた。


「どうしたんですか?」

「いや、チャイムが遅れて鳴るなんて変だと思ってな」

「えっ、本当ですか?全然気がつかなかったなあ」

「間違いない。きっかり2分、遅かった」

「おかしいですねえ。確か昨日、メンテ業者が校内システムの完全チェックをしたって教頭先生が言ってたのに。業者のミスですかねえ」

「もう一度点検してもらった方がいいかもしれんな」


 小川は校内セキュリティ・システムにアクセスすると、コントロールパネルを視界に表示させ、正門の状態を『閉』へと切り替える。

 ガラガラと大きな音をたてながら、門扉がレールの上をスライドしていく。

 チャイムについての話はそこで終わり、二人の教師の話題は夏休み前に行われる全校指導へと移った。

 その段取りについて話しながら職員室へと戻っていく二人の背後で、鉄製の扉が鈍い音をたてて閉まった。

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