第8話「ボイドの過去、その生い立ち」
真夜中。ラドニ山へと続く深い森の奥で、二人と一体は焚き火を囲んでいた。
スピンはどこからともなく、シャンパンゴールドのエレガントなスーツケースを出現させた。
中には、国王から贈られた金一封で買い込んだらしい大量の食料が詰め込まれている。お弁当、羊羹、果物、菓子、そして数本の酒瓶。
「永遠の命」を持とうとも、腹は減る。傷つけば痛み、眠らなければ意識は濁る。生命としての「揺らぎ」をすべて感じ取らねばならないのは、ある種、呪いのような仕様だ。
だが、その仕様こそが、今のスピンやグラに「食べる喜び」を与えているのかもしれない。
無邪気に頬張るスピンとグラ。ボイドはそれには加わらず、ただ爆ぜる火をじっと見つめていた。
「君は何も買ってないのかい? 仕方ないね、分けてあげよう」
スピンはひょいと、チョコとクッキーをボイドに手渡した。
指先が触れた瞬間、ボイドの脳裏に、遠い記憶の断片がよぎった。
若き日のボイドを支え、そして逝った姉――アビス。
食べ物を分け与えてくれたスピンの屈託のない笑顔が、かつての姉の表情と重なって見えた。
「……ありがとう」
ボイドは受け取った菓子を、ゆっくりと噛み締めた。
やがて、一日中の激動に疲れたのか、スピンとグラは寄り添うように眠りに落ちた。
焚き火の穏やかな光が、眠る二人と、独り座す魔王を包み込む。
揺らめく炎の向こう側から、忌まわしくも愛おしい過去が蘇ってきた。
魔族という種は、人類とは根本から異なる生態系に属している。
魔王の配下たる魔族のほとんどは、魔王が分け与えた魔力によって変異した生物だ。元はただの獣や植物に過ぎないものが、知能と魔力を授かり、魔王の「操りの術」によって絶対的な服従を強いられる。
では、その源たる「魔王」とは何者なのか。
最初の魔王がいつ、どこで誕生したのか。その記録はどこにも存在しない。ボイドが知るのは、自らの父である先代魔王ギルと、姉弟たちのことだけだ。魔王に「母親」という概念は存在しない。
歴代の魔王は四百歳を過ぎる頃、たった一人の後継者を生み出す。
自らの魔力を、万華鏡のように輝く可能性の液体「カレイド・スープ」に混ぜ合わせ、自らのクローンを精製するのだ。そうして遥か古から、魔王という存在は単一の系統を維持し続けてきた。
だが、ボイドの父ギルは、魔族の歴史上初めてその禁忌を破った。
ギルは歴代の誰よりも欲深く、独裁的だった。彼は後継者の誕生によって自らの玉座が脅かされることを極度に恐れた。
(一人の後継者に全能を与えれば、いつか私を凌駕する。ならば、その力を分断し、制御可能な『部下』として育てればよい)
ギルは、一人分の体積がある「カレイド・スープ」を三つに分けた。本来、一人の次期魔王が継承すべき三つの資質は、三人の姉弟に分散されたのだ。
魔力の、アビス。
知力の、ボイド。
増殖と操りの、ベクトガルド。
ギルの駒として生み出された子供たちは、瞬く間に成長し、人類との戦争へ駆り出された。
ギルにとって最大の計算違いは、ボイドだった。
若きボイドはあらゆる魔法を完璧に記憶するほど聡明だったが、いかんせん魔力の総量が低すぎた。さらに、その卓抜した知力を「戦に勝つ術」ではなく、「この世界は何なのか」という真理の探究に使い始めたのだ。
支配者ギルにとって、戦えない知恵者などはゴミも同然だった。
だが、疎まれるボイドを常に慈しみ、共に戦場に立ってくれたのが、最強の魔力を授かった姉のアビスだった。
アビスは常に人類連合との最前線にいた。最強の破壊魔法「ゼロドラ」を操り、無双の強さを誇った彼女は、世界中の人間から「死神」と恐れられていた。
しかし、そんな彼女もボイドの前ではただの優しい姉だった。
「私には魔力があるけれど、魔法の複雑な構造を解き明かせるのはあなただけよ。ボイド、あなたもいつかきっと、父様に認められるはずだわ」
アビスは優しく微笑み、戦場での乏しい食料をいつもボイドに分けてくれた。
冷酷な命令を下すのみの父ギル。城に引きこもり、魔族の増産に追われるベクトガルド。
その陰で、常に死の淵を歩まされていたのがアビスとボイドだった。
そして、悲劇は訪れる。
最前線を支え続けたアビスだったが、人類軍の狡猾な罠にはまり、魔力が枯渇しかけたところを包囲された。
「逃げなさい!ボイド」
アビスはボイドを魔力で金縛りにし、岩陰へと隠した。
彼女はたった一人で人間たちの渦中へと突っ込み、無数の刃と魔法を浴びて、果てた。
歓声を上げ、勝利に酔いしれながら去っていく人類軍。
岩陰のボイドは、ただ震えていた。人間たちの持つ凶暴性と、自身の無力さを、心臓が焼けるほどに感じながら。
絶望に立ち尽くすボイドの前で、奇跡、あるいは呪いが起きた。
大地に散ったアビスの紫色の血が、淡く発光しながら動き出したのだ。
魔力を帯びたその血液は、意志を持つかのようにボイドのもとへ集まり、宙に浮き、彼の胸の中へと吸い込まれていった。
脳裏に、アビスの柔らかな声が響く。
(私の力は、あなたが使いなさい。自由に……。あなたは、自由に)
姉を失った日、ボイドは人間に対する底知れぬ憎悪を抱いた。
だが同時に、彼の中に溶け込んだアビスの思念が、彼を苦しめた。
「戦いから逃れられない運命を呪い、ギルの支配から解放されたい」と願った、姉の悲痛な本音。
人類への復讐心と、父ギルへの疑念。
姉の魔力と己の知力を手に入れたボイドの中で、運命の歯車が軋んだ音を立てて回り始めた。




