第15話「空間vs重力」(挿絵あり)
エルフビーチの沖、水深一五〇〇メートルの深海。
そこでは今、世界を形作る二つの法則――「空間」と「重力」が、剥き出しの牙を剥き合っていた。
海面に穿たれた巨大な渦を見下ろしながら、ボイドがスピンに問いかける。
「おい、グラはもう暴走しないんじゃなかったのか!」
「レーダーモードなら大丈夫なのよ! でも、クジラのあまりの身勝手さにキレて、モードが勝手に切り替わっちゃったんだって。今のグラちゃんは本気よ!」
深海では、周囲の物質を呑み込みながら巨大化するグラが、漆黒の重力源となって鎮座していた。真っ赤に染まった瞳はもはや理性を失い、ただ一点、ディーヨンを「潰す」ことのみに特化している。
凄まじい水圧と、グラが放つ超重力。その相乗効果により、ディーヨンの周囲の空間は飴細工のように歪み始めていた。
『ぐええええええ!』
ディーヨンはもがき、歪みから這い出ようとするが、逃げ場はない。法則といえども痛みは感じる。彼は顔を激しく歪ませ、必死に胸びれを動かした。
『愚かな重力め! 小さくしてくれるわ!』
ディーヨンの能力が発動し、巨大化していたグラが一気に縮小される。
『ふははは! ちびっこめ、我に勝てるはずなかろう!』
勝ち誇るディーヨン。だが、その直後に再び絶叫が上がった。
『な、なぜだ!? なぜ重力が消えん!!』
当然だ。重力とは「質量」に依存する。ディーヨンがグラのサイズをいかに小さくしようとも、その密度が変わらない限り、引き寄せる力は減衰しない。むしろ密度は上がり続け、歪みはより鋭利にディーヨンを締め上げる。
『げ、限界だ……! こんな狂った重力と戦ってられるかぁ!』
潰される痛みに耐えかねたディーヨンは、死に物狂いで最後の「技法」を繰り出した。
『さらばだ、グラめ!!』
海上では、ボイドたちが刻一刻と広がる渦を注視していた。
「スピン、ディーヨンの能力は『縮小』だけなのか?」
「いいえ、爺やが言ってたでしょ。あいつは『空間の位置関係』を司ってるの! 天界から地上へ行くときも、あいつの空間移動、ワープを使ってたんだから。あいつはピンチになったら、逃げるわよ!」
その言葉が終わるか終わらぬかという瞬間、空から激しい雨が降り注いだ。
見上げれば、青空にバリバリと「ヒビ」が入っている。その隙間から、猛烈な圧力を伴った海水が噴き出していた。
「おい、まさか……!」
「上!?」
空のヒビが爆発的に広がり、深海の海水が、そして五十メートルを超える巨躯のディーヨンが、ボイドたちの真上に躍り出た。「転送」されてきたのだ。
「やばい!」
回避は間に合わない。巨大な質量に押し潰される――という刹那、スピンが甲板に仁王立ちになった。
「受け止めたる!!」
「無理だスピン!!」
だがスピンは、降ってくるクジラの頭部を両手でガッシリと受け止めた。
「んんんんん……小さくなぁーれッ!!」
手から光り輝く魔力を大噴射させると、ディーヨンの巨体はみるみる縮んでいく。
「空間魔法……!縮小か!」
ボイドが目を見張る中、スピンが顔を真っ赤にして叫んだ。
「ダメだよぉ! 魔力が足りない! ボイド、給油して給油!!」
スピンが右足でスーツケースを蹴り飛ばすと、ボイドは空中でそれを開き、中の「羊羹」をスピンの口へと放り込んだ。
それを咀嚼した瞬間、スピンの魔力が爆発的に回復する。手のひらからの噴射が激しさを増し、ディーヨンはついに両手に収まるほどの小さな小魚サイズまで縮まった。
「す、すっげぇ……」
ずぶ濡れになりながら、ロザは腰を抜かした。
だが、危機は終わらない。空のヒビからは、次いで暴走状態のグラが落下しようとしていた。
「やっば! グラちゃんは小さくしても重力が消えないのよ!」
ボイドはスーツケースからさらに羊羹を掴み出すと、風のナイフで細切れに刻み、空中に散布した。
「……パウリほど綺麗にはいかないがな!」
落下するグラは、空中を漂う羊羹の破片を見た瞬間、分散。小さなコア以外は霧散した。
ボイドの手のひらにはプリンサイズのグラ、スピンの手のひらには小魚サイズのディーヨンがあった…。
ほっとしたのも束の間、深海から巨大な爆発が沸き上がった。幾度も続くその衝撃は海面を大きく突き上げ、膨れ上がった水の中には、光を反射する魚たちの群れが渦巻いている。
荒波に揉まれる船の上で、ロザは必死に均衡を保とうと踏ん張った。
ディーヨンの空間技法が解かれたのだ。今、この海に、失われていた幾千万の命が蘇った。
「やった……! 海の恵みが戻ってきたんだ! エルフビーチが、帰ってくるぞ!」
ロザは帆のロープを握りしめ、涙を浮かべて歓喜の声を上げた。
数時間後。
漁港は喜びに満ちていた。大漁の魚を抱えたエルフ達の漁船が、港に帰ってきたのだ。
飲食店へ次々と運ばれていく、新鮮な魚介類。
レストランのテラス席には、ボイド、スピン、ロザ、そしてグラが座っている。グラが熱望していた「テリーヌ」の看板が掲げられた店だ。
グラは運ばれてきた「帆立と海老のテリーヌ」を、至福の表情でプルプルと震えながら頬張っている。
ボイドの隣には、一辺三十センチほどの「海水で満たされた透明な立方体」が浮いていた。その中で、手のひらサイズのディーヨンが優雅に泳いでいる。
ボイドはフォークでテリーヌの一片を切り出すと、立方体の中へ入れた。
水中を漂うテリーヌを夢中で貪り、ディーヨンが歓喜の声を上げる。
「うまい! うまいぞーーー! なぜ今まで気づかなかったんだ! 我自身が小さくなれば、わずかな量で食べ放題ではないか! 独り占めの必要などまるでないではないか!それにグラの言う通りだ! 人の手が入ったものは、丸飲みより遥かにうまいぞーーー!」
テンションの上がるディーヨン。
呆れたように、三人は笑った。
夕陽に染まるエルフビーチで、彼らは山盛りの海の幸を囲み、賑やかな晩餐を楽しんだ。




