第14話「深海のディーヨン」
波がさざめく海洋を一隻の緑の船が疾走する。
ボイドは甲板にある釣り道具を手に取り、その造りを見つめていた。
「そいつは鯛とかを釣るやつだぜ? クジラが相手なんだろ。一瞬でへし折られるぞ」
舵を握るロザが、呆れたように声をかける。
「魔力で強化する。……案ずるな」
ボイドがゆっくりと握ると、質素な釣り竿に漆黒の魔力が浸透し、鋼鉄以上の剛性を持って輝き始めた。
「糸は私が補強するよ! 魔力で長さを伸ばすの。これなら、糸を通じて深海にいるグラちゃんと話ができる。ディーヨンに私たちの声も届けられるはずよ」
スピンが指先から放った光の魔力が、釣り糸に編み込まれていく。その先の針に、グラがパクりと食いついた。円錐台の重りとなったグラと釣り糸が、一体化する。
船は徐々にスピードを落とし、緩やかにカーブを描いて停止した。
「ボイド! この辺かい?」
「ああ、完璧だ。……あとはグラ、頼むぞ!」
「お願いねー! グラちゃん!」
二人の激励を受け、グラは勢いよく空中へ躍り出ると、コバルトブルーの海へとダイブした。
ディーヨンに食べ尽くされたせいか、海中には生き物の気配が一切なく、不気味なほどに透き通っていた。
スピンの魔法の糸を引きながら、グラは確実に潜っていく。海面近くでは光り輝いていた水の色も、深度を増すごとに暗さを増し、太陽は小さな点となって遠ざかっていった。
(だんだん暗くなってきた……。ディーヨン、まだかなぁ。ちょっと怖いなぁ……)
グラは体を回転させ、ディープブルーに染まる景色を眺めながら、重力に従って落ちていく。
やがて光は完全に届かなくなり、水圧がその小さな体にのしかかる。水深一〇〇〇メートルを越えたあたりだろうか。
『グラちゃん! どう? ディーヨンいた?』
スピンの糸が魔力で振動し、グラに聞こえてきた。
「トゥトゥトゥトゥトゥ(ううん。まだ見えない。でも、確実に近づいてるよ)」
ソナーそのものであるグラ自身が「動く餌」となっているのだ。獲物の気配は、もうすぐそこにあった。
深海一五〇〇メートル。闇の中で何も見えない極限の世界。
だが、グラは感じ取った。巨大な質量が、すぐ先に鎮座しているのを。
普通のクジラの数倍――五〇メートルを超える巨体を、凄まじい水圧をものともせずうねらせている影。クジラのディーヨンが、ゆっくりと目を開いた。
『グラか。……何の用だ?』
ディーヨンの発する音波が、言葉となって海底に響く。
「トゥクトゥクトゥク!(君を回収しにきたんだ。食べすぎだよディーヨン! 女神様が怒ってる!)」
巨大な瞳が、暗闇の中でニヤリと歪んだ。
『我は初めて地上に降りて知ったのだ。この世には美味いものが溢れている。海は食の宝庫だ。あらゆる魚を、我は食い尽くしたい』
糸を伝って、ディーヨンの尊大な声は一五〇〇メートル上のボイドたちにまで届いていた。
「天界の奴らは、どうしてこう全員食い意地が張っているのか……」
ボイドが呆れたように吐き捨てる。
帆を調整していたロザが、怒りを露わにして叫んだ。
「そのクジラに言ってやりな! 海は循環なんだ。食い尽くしたら二度と戻ってこない。生態系を壊しちまったら、お前自身、食うものがなくなるんだぞ!」
ロザの声は魔力の振動となり、海底のディーヨンへと叩きつけられた。
『地上のエルフか? ぐふふふふ! 安心しろ、そんなことは分かっている。我は何も食い尽くしてなどいない。……「養殖」しているのだよ。我は空間の技法が使える。マジックワームの二番煎じなどと一緒にされては困るな。近海の生態系はまとめて圧縮し、我が管理している。エルフの手など借りる必要はない。食べたい時に取り出す、我だけの『食糧庫』だ』
ディーヨンは魚を絶滅させたのではなく、自らの空間能力で近海の魚を一箇所にパッキングし、私物化していたのだ。スピンがスーツケースに荷物を詰め込むように。
それを聞き、海上のロザの目が輝いた。
「……ってことは、魚はまだ消えてないのか!? その魔法を解けば、エルフビーチに魚が戻ってくるんだな!?」
期待に満ちた声が海底へ届くが、ディーヨンは意地悪く答えた。
『魔法でなく、技法だ!愚かなエルフよ。この食糧はすべて我のものだ。貴様らに渡すものなど、何一つない』
「……めっちゃ嫌な奴じゃん。根性腐ってるわ〜」
甲板でスピンが顔をしかめる。
海底のグラは、最後の説得を試みた。
「トゥクトゥクトゥクトゥクトゥー!(テリーヌを食べてみたくないの!? そのままでも美味しいかもしれないけど、人の手が加わって美味しくなるものが、地上にはたくさんあるんだよ!)」
『愚かな重力よ。テリーヌだぁ? そんな軟弱なもの知るか。食とは鮮度なのだよ。丸飲みが一番に決まっている。……女神だろうが何だろうが知ったことではない。我はこの海をすべて、我が養殖場に変えていくのだ。ぐふふふふ!』
不気味な嘲笑が海底から響き渡る。
心配そうなロザ、呆れるボイド。そして、怒りで沸騰しそうなスピン。
「……圧縮したゼロドラを、直接ぶち込んでみるか。届くかは賭けだが」
ボイドが右手に魔力を溜め始めた、その時。
船の周囲の海面が、ゆっくりと円を描いて凹み始めた。
「な、なんだ!? 何が起きてる!」
船がバランスを崩し、大きく揺れる。ロザが悲鳴を上げて手摺りを掴んだ。
スピンは糸を握りしめ、顔を引きつらせて叫ぶ。
「やばい! グラちゃんがキレて、レーダーモードを辞めちゃった! 『重力集合』の暴走モードに入ってるわよ!」
海面が、目に見えて直径十メートルの巨大な「窪み」となって沈み込んでいく。
ボイドは瞬時に右手の魔力を『風』へと切り替え、全力で帆を叩いた。
「伏せろッ!」
漁船は猛スピードで加速し、重力の射程圏内を紙一重で飛び出した。海面を跳ねるようにジャンプし、大きく離れた場所へ着水する。
振り返れば、先ほどまでいた海域には、直径数十メートルの海面を押し潰したような巨大な「渦」が、暗黒の口を開けていた。




