第10話「サンロコ砂漠、ラクダ旅」
朝日がラドニ山の山嶺を赤く染め上げた。
爽やかな空気が大地を満たし、夜の静寂がゆっくりとほどけていく。
そんな山の麓の森から、静寂を切り裂く絶叫が響き渡った。
「ほぎゃーーーーー!」
浅い眠りの中にいたボイドは目覚め、声の主へと視線を向けた。
スピンだ。彼女はわなわなと震えながら、自身のスカートの端を指差している。焚き火の火が触れたのか、一部が黒く焦げ、ボロボロになっていた。
「焦げたか。だが、全体に燃え移らなくて幸いだったな」
ボイドが淡々と告げると、スピンは怒気を孕んだ表情で食ってかかった。
「いいわけないでしょ! せっかくのお気に入りだったのにーーー!」
スピンは立ち上がると、その小さな掌に魔力を集め始めた。錬成魔法だ。
ボイドは一瞬、嫌な予感がした。イストール王国で雑草から錬成した、あの珍妙な子供服が脳裏をよぎったからだ。
だが、スピンが自らの魔力で全身を包み込むと、服は瞬く間にその形を変えていく。
現れたのは、少しだけ丈が短くなったものの、繊細な刺繍が施された驚くほどセンスの良いドレスだった。
「どうかしら?」
満面の笑みを浮かべるスピンに、ボイドは目を見開いた。
「……すごいな。以前とはまるで別物だ。いつの間にそれほどの技術を?」
「王国でみんなのファッションを、しっかりチェックしたのよ。一般庶民の服だって、デザインは多様なんだから。やっぱり、現実に存在させるってことは『観察』が大事ね。細部へのこだわりこそが美を生むのよ〜」
いわゆる「ドヤ顔」というものを、スピンはこれ以上なく体現していた。
「ボイドの服も新しく仕立て直してあげようか? 昨日の戦いで破れてるし、それにちょっと地味すぎるでしょ」
ボイドは内心嬉しく思いつつも、スピンのニヤつく顔を見て警戒を強めた。
「……何か、滑稽な意匠に変えようとしていないか?」
「ん?」
「あの子供服のようなものにするつもりなら、断る」
「ちぇっ。……しないわよ! ちょっと新しくするだけ。ほんと面白くない男ねぇ」
スピンは唇を尖らせつつも、指揮者のようにスッと手を挙げた。
ボイドの体が柔らかな光に包まれる。服の破れは瞬時に修復され、落ち着いた、それでいて気品のある刺繍が刻まれた。見事な出来栄えだった。
「おまけもつけてあげる」
スピンは足元の石を材料に、銀の腕輪を錬成した。イストール王国で手放した、あの腕輪に酷似している。女神らしいアラベスク模様が彫り込まれたそれは、ボイドの腕にしっくりと馴染んだ。
手首を動かし、魔王としての感覚が戻ってくるのをボイドは心地よく感じた。
「素晴らしい成長だ、スピン」
「当たり前でしょ。目の前にいるのが誰だと思ってるの? 世界の創造主ですよ! 地上に降りたばかりで不慣れだったけど、少し練習すればこんなもんよ」
ドヤ顔を加速させる女神を見ながら、ボイドは爺やの言葉を思い出していた。
(ポテンシャルは世界最高、か。天界でありとあらゆる概念を存在させていた彼女だ。慣れれば最強魔法『ゼロドラ』さえ、己のものにするかもしれんな……)
ボイドは彼女の成長に感銘を受けると同時に、底知れぬ恐ろしさをも予感していた。
「トゥクトゥクトゥー!」
グラが遥か南西の空を仰ぎ、瞳を緑色に発光させた。出発の合図だ。
その気になれば空を飛べる二人にとって、険しい山道を突き進むのは造作もなかった。
グラの重力に潰され、少し低くなったラドニ山の頂に立ち、南西を見やる。
そこには、視界のすべてを焼き尽くすような広大な砂漠が広がっていた。
「サンロコ砂漠だ」
「へぇー、サンロコ!」
会話の中で気づいたことだが、スピンはこの世界の創造主でありながら、地名や地形を驚くほど知らない。
おそらく遠い昔に「材料」だけを撒き散らし、あとは物理法則に任せて放置していたのだろう。世界は意図なく、自然に形成される。だから、神は何も知らない。
山を下りた麓で、一行は大きなテントを見つけた。砂漠を渡るラクダのキャラバンサライだ。
一人の若いドワーフの青年が、大きく手を振ってくる。
「そこのお二人さん! エルフビーチまで行くならここだよ! 砂漠を渡るラクダ、二人で銀貨四枚だ!!」
ラクダを見たスピンのテンションが跳ね上がった。
「かわいい! かわいすぎるーーー! 絶対あれに乗ろう!!」
ボイドは歩いた方が早そうだと思ったが、旅の手段など些細なことだ。彼はラクダを雇うことに決めた。
ターバンを巻いたドワーフのラクダ使い、ハットンは陽気に笑った。
「へへへ、ラクダの扱いはオイラに任せな! それにしても、お宅ら荷物が少なすぎやしません? その軽装で山を越えてきたってのかい。……失礼ですが、先立つものはあるんで?」
スピンが掌をかざすと、空間から唐突にスーツケースが出現した。
ハットンは目を剥いた。
「い、今のは空間魔法!? 絵本でしか見たことないですよ……女神様しか使えないって言われる伝説の魔法じゃないですか……!」
物を縮小して保存する「魔法体系の外側」の力。スピンが当たり前のように使うそれを見て、ボイドは改めて彼女の特異性を実感する。
しかし、スピンは焦った顔でスーツケースを漁り始めた。
「ない! ないわ! お金がもうない! イストールで全部使っちゃったみたい……」
「安心しろ。国王から貰った金は、俺が半分持っている。こんなこともあろうかとな」
「ボイドーーー!」
感激して抱きつかんばかりのスピンを片手で制し、ボイドは銀貨を支払った。
「いやぁ、大魔法使い様ですな! ならば水も買っていきやせんか? 砂漠で最高の一杯、銅貨二枚でやんす!」
商売魂の逞しいハットンに先導され、三頭のラクダは砂の海へと漕ぎ出した。
太陽が天頂から大地を焼き、どこまでも続く砂丘に美しい砂紋が描かれている。
最初のうちはその光景をうっとり眺めていたスピンだったが、一時間もすれば案の定、飽き始めた。彼女はラクダをボイドの横に寄せ、小声で囁く。
「ねぇねぇ。エルフビーチってさ、カッコいいサーファーの男の子とかたくさんいるんでしょ? 好きになっちゃったらどうしよう!」
すでに意識は次の目的地へ飛んでいる。
「ねぇボイド。ボイドってさ、恋愛とかしたことあるの? 実はパウリのこと好きだったんじゃない? 夫が現れたとき『げっ』とか思わなかった?」
なんということをズバズバと訊くのか。ボイドは冷めた表情を崩さず、淡々と応じた。
「魔王の一族は他の生物と異なり、種を残すのに別個体を必要としない。ゆえに、そのような感情は持ち合わせていないな」
「つまんないねぇ魔王! トキメキがない! 信じられないわ」
「スピンはあるのか。女神は恋をするのか?」
「天界にいたときはフワフワしてたけどね、今は感じるのよ。可能性を。出会いの可能性! きっといつか来るのよ、胸のトキメキが!」
(愛とは、何か――)
ボイドはふと、生物の「心」という構造に興味を抱いた。
かつて姉アビスが自分を慈しんでくれた、あの献身のことだろうか。
あるいは、宿屋のロビーでパウリと穏やかに紅茶を飲んだ、あの夜の安らぎのことだろうか。
だが、隣でニマニマと笑うスピンが言う「トキメキ」とは、何かが決定的に違うような気がして、ボイドは口を閉ざした。
サンロコ砂漠の横断中。
ふと、遠方の地平に「森」が見えた。
オアシスではない。砂漠のど真ん中に、唐突に深い緑が群生している。
数時間前まで、そこには砂しかなかったはずだ。
ボイドの目が鋭く細められた。その森は、明らかに異質だった。




