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婚約を解かれた薬師令嬢は、午後三時のお茶会で恋を知る』

作者: 白昼夢
掲載日:2026/02/07

※静かな異世界恋愛短編です。

婚約破棄はありますが、ザマァは控えめ。

ヒロインが自分の居場所を見つける物語です。






 婚約を解かれた瞬間、リリエル・アストンが最初に思ったのは、悲しみではなかった。

 ――ああ、これで。

 これで私は、役に立たなくても生きていいのかもしれない。

 その考えが胸に落ちたとき、彼女は自分がほっと息をついたことに気づいて、少しだけ戸惑った。


 王城の小広間は、夜会の余韻がまだ残っている。

 淡い香の花と、甘い菓子の匂い。壁際では楽団が静かに楽器を片付け、貴族たちの囁き声が波のように行き交っていた。


「リリエル・アストン嬢。

 本日をもって、君との婚約を解消したい」


 王太子の声は驚くほど穏やかだった。

 怒りも、苛立ちも、罪悪感すら感じられない。最初から答えが決まっている問いを読み上げるような調子。


「理由は、理解してくれるだろう。君は優秀すぎる。

 常に正しく、常に最善で、……だが私は、隣に立つと息が詰まる」


 ざわり、と周囲が揺れた。

 だがリリエルは顔を上げなかった。


 優秀すぎる。

 それは彼女が幼い頃から、何度も言われてきた言葉だ。


 薬師の家に生まれ、期待され、失敗しないようにと学び続けた。

 王立薬師学院では首席を保ち、提出した論文はすべて実用化候補に挙げられた。

 誰かに褒められるたび、胸が軽くなる一方で、どこか冷たい場所が広がっていくのを、彼女は知っていた。


「……承知いたしました」


 リリエルは一礼した。

 声は震えていなかった。むしろ、驚くほど澄んでいた。


 泣き叫ぶことも、抗議することもなく、ただ婚約解消を受け入れた令嬢に、周囲は拍子抜けしたような空気を見せたが、彼女は気に留めなかった。


 ここで何かを言えば、

 「それでも私はあなたを支えます」とか、

 「努力します」とか、

 そういう言葉を選ぶことはできた。


 けれど、それを口にした瞬間、また同じ場所に戻る気がした。


 誰かの期待を背負い、

 失望させないように笑い、

 役に立つことでしか自分の居場所を確認できない日々に。


 小広間を出ると、夜風が頬を撫でた。

 張りつめていたものが、ふっと緩む。


「……疲れた」


 ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。


 翌日、リリエルは王城薬師の任を解かれ、

 王都外れにある《療養庭園》への異動を命じられた。


 実質的な左遷だったが、彼女は異議を唱えなかった。


 療養庭園は、怪我を負った騎士や、長患いの貴族が静養するための場所だ。

 派手な功績は生まれにくく、社交界で話題になることもない。


 ――でも、静かだ。


 初めて庭園を訪れた日、リリエルはそう思った。


 風に揺れる薬草の葉。

 遠くで湧く噴水の音。

 土と花と、お茶の香り。


 胸の奥が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。


「ここなら……」


 誰かの期待にならなくてもいい。

 そう思えたことに、彼女自身が一番驚いていた。


 その日の午後三時。

 庭園の一角にある小さな東屋で、リリエルは初めて彼と出会う。


「……新しい薬師か?」


 低く落ち着いた声。

 振り返ると、そこに立っていたのは、灰色の髪をした青年だった。


 療養庭園付きの屋敷に住む、元近衛騎士。

 エドワード・グレイ。


 彼はリリエルを値踏みするようには見なかった。

 ただ、少し困ったように言った。


「その……お茶が、冷めている」


 思わず、リリエルは瞬きをした。


 それが、彼女の新しい日常の始まりだった。



 その日以来、午後三時になると、リリエルは東屋へ向かうようになった。


 療養庭園では、怪我や病を抱えた者たちがそれぞれの静かな時間を過ごしている。

 だが、不思議なことに、エドワード・グレイは決まってその時間になると姿を現した。


 最初は、ただお茶を淹れるだけだった。


 薬草棚から葉を選び、湯を沸かし、香りを確かめる。

 それは薬師としてではなく、一人の人間としての作業だった。


「今日は、胃に優しい配合にしました」


「……そうか」


 彼は多くを語らない。

 だが、差し出した茶器を受け取る手は丁寧で、ひと口飲んだあと、必ず小さく息を吐いた。


「落ち着く」


 それだけで、リリエルの胸が少し温かくなる。


 褒め言葉に慣れていないわけではない。

 これまでにも、「優秀だ」「素晴らしい」「期待している」と、数え切れないほど言われてきた。


 けれど、それらはいつも“成果”に向けられていた。


 この人は違う。

 効能や理論ではなく、今この瞬間の心地よさを、まっすぐに受け取っている。


 数日もすると、会話は少しずつ増えた。


「王都は、騒がしい場所だったんだろう」


「……はい。でも、私には必要な場所でした」


「今は?」


 リリエルは、少し考えてから答えた。


「静かすぎて、最初は落ち着きませんでした。でも……今は、好きです」


 エドワードはそれを聞いて、何も言わずに頷いた。


 沈黙が気まずくない。

 それが、彼女にとっては新鮮だった。


 ある日、リリエルはお茶の準備中に手を止めている自分に気づいた。

 薬草の分量を、正確に量っていない。


 ――失敗したらどうしよう。


 そんな不安がよぎったが、同時に、どうでもいい気もした。


 淹れたお茶を差し出すと、エドワードはひと口飲み、首を傾げた。


「いつもより、少し甘いな」


「……すみません。分量を間違えました」


 彼女がそう言うと、彼は意外そうに目を細めた。


「そうか。俺は、こっちのほうが好きだ」


 胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。


「……失敗、ですよ?」


「失敗かどうかは、飲む側が決める」


 その言葉は、薬師としての常識を、やさしく裏切っていた。


 午後三時のお茶会は、次第に二人の習慣になった。


 庭を一緒に歩き、

 薬草の手入れをし、

 ときどき、他愛のない話をする。


 エドワードは、自分のことを多く語らなかったが、聞き役に回るのが上手だった。


「学院では、ずっと首席でした」


「それは……大変だったな」


 彼は、褒めもせず、驚きもしなかった。

 ただ、そう言ってくれた。


 大変だった。

 その一言で、リリエルは胸が詰まった。


 努力は当たり前で、結果を出して当然。

 誰も「大変だったな」とは言ってくれなかった。


「君は、何かを成し遂げた時だけ笑う」


 ある日、エドワードがそう言った。


 リリエルは、言葉を失った。


「……そう、でしょうか」


「自覚はないみたいだな」


 彼はカップを置き、彼女を見た。


「今はどうだ? 何もしていないが」


 午後の光が、東屋に差し込む。

 風が、彼女の髪を揺らした。


「……今は」


 リリエルは、ゆっくり息を吸った。


「少し、楽です」


 エドワードは、ほんの一瞬だけ笑った。


「それでいい」


 その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。



 数日後、王城から一通の書簡が届いた。


 王都で軽い疫病が発生し、

 かつてリリエルが提出した治療理論が必要だという。


 ――役に立てる。


 その考えが、無意識に浮かんだ自分に、彼女は苦笑した。


 夕方、エドワードにそのことを話すと、彼は黙って聞いていた。


「行くのか?」


「……分かりません」


 戻れば、また同じ日々が待っている。

 けれど、患者を見捨てることもできない。


 エドワードは、引き留めなかった。


「行くなら、行けばいい」


 そして、少し間を置いて言った。


「帰ってくる場所は、ここにある」


 その言葉は、約束のように、静かだった。


 リリエルは、初めて「戻りたい」と思った。


 役に立つためではなく、

 午後三時のお茶会のために。



 王都は、療養庭園とは別の世界だった。


 人の声が絶えず、馬車が行き交い、建物の影すら慌ただしい。

 リリエルは久しぶりに立つ城門の前で、小さく息を整えた。


 ――私は、もう王城の人間じゃない。


 そう思うだけで、肩の力が抜ける。


 案内された医療棟では、薬師や医官たちが慌ただしく動いていた。

 彼女の姿を見つけると、安堵と戸惑いが混じった視線が集まる。


「アストン嬢……来てくれたのですね」


「はい。状況を教えてください」


 敬語は自然に出たが、心は以前ほど緊張していなかった。

 自分の知識が必要とされている。それは事実だ。

 だが、それが自分の価値のすべてではないと、今は分かる。


 患者たちを診て、処方を組み、指示を出す。

 作業は滞りなく進み、疫病は想定よりも早く収束へ向かった。


 その日の夕刻、リリエルは呼び止められた。


「……少し、話がしたい」


 王太子だった。


 かつて、隣に立つことを求められていた人。

 今は、どこか距離を感じる。


「君が来てくれて助かった。

 やはり、君の知識は――」


「殿下」


 彼女は、やさしく言葉を遮った。


「私は、役目を果たしに来ただけです」


 王太子は、戸惑ったように口を閉ざす。


「……怒っているのか?」


 リリエルは、少し考えた。


「いいえ。怒ってはいません」


 本当だった。

 怒りは、もうどこにもなかった。


「ただ、分かったのです。

 私たちは、同じものを見ていなかった」


 彼は沈黙した。


「私は、誰かの期待になるために笑っていました。

 殿下は、それを“完璧”と呼んだ。

 でも――それは、私の幸せではありませんでした」


 王太子は、ゆっくりと目を伏せた。


「……そうか」


 それ以上、言葉はなかった。


 翌日、正式な褒賞の話が持ち上がった。

 地位の回復、研究資金、そして――


「もし望むなら、婚約の再考も可能だ」


 そう告げられたとき、リリエルは迷わなかった。


「すべて、辞退いたします」


 その場が、静まり返る。


「私はもう、自分の居場所を見つけました」


 それ以上の説明は、必要ない気がした。


 王都を発つ馬車の中で、リリエルは不思議なほど穏やかな気持ちだった。

 やり残したことはない。


 夕暮れ時、療養庭園に戻る。


 あの東屋が見えた瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。


 午後三時は、もう過ぎている。

 今日は、お茶会はできないだろうか。


 そう思ったとき――


「おかえり」


 聞き慣れた声がした。


 エドワードは、東屋に立っていた。

 手には、二つの茶器。


「……待って、いたんですか?」


「帰ると言っていただろう」


 それだけで、十分だった。


 リリエルは、東屋の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。


「王城では……色々ありました」


「そうか」


「でも、もう戻りません」


 エドワードは、何も聞かず、ただ頷いた。


 彼女は、ふと気づく。


 この人の前では、説明しなくていい。

 選択を、正当化しなくていい。


「……私」


 言葉が、自然と溢れた。


「役に立たなくなったら、誰にも必要とされないと思っていました」


 エドワードは、静かにカップを置いた。


「違う」


 短い否定。


「君は、ここにいるだけでいい」


 胸が、熱くなる。


「それは……甘えではありませんか?」


「甘えていい場所がない人ほど、そう言う」


 彼は、少しだけ困ったように笑った。


「君は、よくやりすぎだ」


 夕暮れの光が、二人を包む。


 その中で、リリエルは初めて、自分から言った。


「……明日も、お茶を淹れてもいいですか?」


 エドワードは、少し驚いた顔をしてから、はっきりと答えた。


「ああ。

 できれば、これからも」


 その言葉は、約束だった。


 誰かの期待ではなく、

 誰かの隣として生きる未来への。



 翌日、療養庭園の東屋に差し込む光は、昨日よりもやわらかく、暖かかった。


 リリエルは、薬草を揃えながら、ふと笑みを零す。


 昨日の王城でのこと。

 王太子に再婚約の話を断った瞬間、心の奥にぽっかり穴が開いたような感覚があったが、それはすぐに消えていった。


 誰かの期待を背負わずに笑うことの、心地よさ。

 そして、誰かの隣でただ存在するだけで価値を持てることの、確かさ。


 その感覚は、エドワードの存在とともにあった。


 午後三時。

 小鳥が歌い、風が葉を揺らす。

 エドワードは、少し遅れて現れた。


「待たせたか?」


「いえ。ちょうどお茶を淹れ終えたところです」


 リリエルは差し出した茶器を置き、二人で向かい合う。


 沈黙の中で、エドワードが言った。


「君が、笑うのは自然だ」


 言葉少なく、しかし重みのある肯定。


「……自然、ですか」


 リリエルは微笑む。

 これまで誰かの期待で笑ってきた日々と違い、今は心からの笑顔だった。


「今までは、無理に笑っていた気がします」


「そうか。もう、その必要はない」


 短く、しかし揺るがない言葉。


 リリエルは、胸が熱くなるのを感じながら、ひとつの決意を口にした。


「……明日も、またお茶を淹れていいですか?」


 エドワードは少し驚き、そして静かに微笑んだ。



「ああ。できれば、これからも」


 その言葉には、約束の匂いがあった。

 王城での役目や功績よりも、

 誰かの隣で笑うことの尊さが、ここにある。


 リリエルは、薬草に手を伸ばす。

 小さな手の中で、葉が揺れる。


 そして心の中で、そっとつぶやいた。


「――私、ここで、生きていいんだ」


 エドワードも、無言で頷いた。

 言葉にする必要はない。

 互いの存在が、すでにすべてを語っていた。


 午後三時。

 二人だけの静かな時間。

 微かな風に、葉の揺れる音。

 そして、お茶の湯気。


 リリエルは初めて、誰かに必要とされることの心地よさを噛みしめた。

 役に立たなくても、期待に応えなくても、ここにいるだけで十分に価値がある――その幸福を。


 そして、彼女は未来を見据えた。


 誰かの期待のためではなく、

 自分のため、そして、隣にいる人のために生きる未来。


 茶器を手渡す手と手が触れ合う。

 彼の瞳が、優しく微笑む。


 リリエルも、ゆっくりと微笑み返した。


「……毎日、お茶を淹れます」


「楽しみにしている」


 小さな声で交わした約束。

 それが、二人の新しい日常の始まりだった。


 庭園に夕陽が差し込み、影が長く伸びる。

 リリエルは心の中でそっとつぶやく。


「役に立たなくても、私は幸せになれる」


 その言葉とともに、静かな幸福が庭園に満ちた。


 誰もが望むような大きな勝利も、派手な復讐劇もなかった。

 ただ、二人が穏やかに、そして確かに生きていく――

 それだけで十分だった。










読んでくださり、ありがとうございます。


ヒロインが自分の居場所を見つける、静かで甘い恋物語でした。


少しでも「癒やされた」「応援したい」と思ったら、

評価ボタンや感想で教えていただけると嬉しいです。


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