婚約を解かれた薬師令嬢は、午後三時のお茶会で恋を知る』
※静かな異世界恋愛短編です。
婚約破棄はありますが、ザマァは控えめ。
ヒロインが自分の居場所を見つける物語です。
婚約を解かれた瞬間、リリエル・アストンが最初に思ったのは、悲しみではなかった。
――ああ、これで。
これで私は、役に立たなくても生きていいのかもしれない。
その考えが胸に落ちたとき、彼女は自分がほっと息をついたことに気づいて、少しだけ戸惑った。
王城の小広間は、夜会の余韻がまだ残っている。
淡い香の花と、甘い菓子の匂い。壁際では楽団が静かに楽器を片付け、貴族たちの囁き声が波のように行き交っていた。
「リリエル・アストン嬢。
本日をもって、君との婚約を解消したい」
王太子の声は驚くほど穏やかだった。
怒りも、苛立ちも、罪悪感すら感じられない。最初から答えが決まっている問いを読み上げるような調子。
「理由は、理解してくれるだろう。君は優秀すぎる。
常に正しく、常に最善で、……だが私は、隣に立つと息が詰まる」
ざわり、と周囲が揺れた。
だがリリエルは顔を上げなかった。
優秀すぎる。
それは彼女が幼い頃から、何度も言われてきた言葉だ。
薬師の家に生まれ、期待され、失敗しないようにと学び続けた。
王立薬師学院では首席を保ち、提出した論文はすべて実用化候補に挙げられた。
誰かに褒められるたび、胸が軽くなる一方で、どこか冷たい場所が広がっていくのを、彼女は知っていた。
「……承知いたしました」
リリエルは一礼した。
声は震えていなかった。むしろ、驚くほど澄んでいた。
泣き叫ぶことも、抗議することもなく、ただ婚約解消を受け入れた令嬢に、周囲は拍子抜けしたような空気を見せたが、彼女は気に留めなかった。
ここで何かを言えば、
「それでも私はあなたを支えます」とか、
「努力します」とか、
そういう言葉を選ぶことはできた。
けれど、それを口にした瞬間、また同じ場所に戻る気がした。
誰かの期待を背負い、
失望させないように笑い、
役に立つことでしか自分の居場所を確認できない日々に。
小広間を出ると、夜風が頬を撫でた。
張りつめていたものが、ふっと緩む。
「……疲れた」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
翌日、リリエルは王城薬師の任を解かれ、
王都外れにある《療養庭園》への異動を命じられた。
実質的な左遷だったが、彼女は異議を唱えなかった。
療養庭園は、怪我を負った騎士や、長患いの貴族が静養するための場所だ。
派手な功績は生まれにくく、社交界で話題になることもない。
――でも、静かだ。
初めて庭園を訪れた日、リリエルはそう思った。
風に揺れる薬草の葉。
遠くで湧く噴水の音。
土と花と、お茶の香り。
胸の奥が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
「ここなら……」
誰かの期待にならなくてもいい。
そう思えたことに、彼女自身が一番驚いていた。
その日の午後三時。
庭園の一角にある小さな東屋で、リリエルは初めて彼と出会う。
「……新しい薬師か?」
低く落ち着いた声。
振り返ると、そこに立っていたのは、灰色の髪をした青年だった。
療養庭園付きの屋敷に住む、元近衛騎士。
エドワード・グレイ。
彼はリリエルを値踏みするようには見なかった。
ただ、少し困ったように言った。
「その……お茶が、冷めている」
思わず、リリエルは瞬きをした。
それが、彼女の新しい日常の始まりだった。
その日以来、午後三時になると、リリエルは東屋へ向かうようになった。
療養庭園では、怪我や病を抱えた者たちがそれぞれの静かな時間を過ごしている。
だが、不思議なことに、エドワード・グレイは決まってその時間になると姿を現した。
最初は、ただお茶を淹れるだけだった。
薬草棚から葉を選び、湯を沸かし、香りを確かめる。
それは薬師としてではなく、一人の人間としての作業だった。
「今日は、胃に優しい配合にしました」
「……そうか」
彼は多くを語らない。
だが、差し出した茶器を受け取る手は丁寧で、ひと口飲んだあと、必ず小さく息を吐いた。
「落ち着く」
それだけで、リリエルの胸が少し温かくなる。
褒め言葉に慣れていないわけではない。
これまでにも、「優秀だ」「素晴らしい」「期待している」と、数え切れないほど言われてきた。
けれど、それらはいつも“成果”に向けられていた。
この人は違う。
効能や理論ではなく、今この瞬間の心地よさを、まっすぐに受け取っている。
数日もすると、会話は少しずつ増えた。
「王都は、騒がしい場所だったんだろう」
「……はい。でも、私には必要な場所でした」
「今は?」
リリエルは、少し考えてから答えた。
「静かすぎて、最初は落ち着きませんでした。でも……今は、好きです」
エドワードはそれを聞いて、何も言わずに頷いた。
沈黙が気まずくない。
それが、彼女にとっては新鮮だった。
ある日、リリエルはお茶の準備中に手を止めている自分に気づいた。
薬草の分量を、正確に量っていない。
――失敗したらどうしよう。
そんな不安がよぎったが、同時に、どうでもいい気もした。
淹れたお茶を差し出すと、エドワードはひと口飲み、首を傾げた。
「いつもより、少し甘いな」
「……すみません。分量を間違えました」
彼女がそう言うと、彼は意外そうに目を細めた。
「そうか。俺は、こっちのほうが好きだ」
胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
「……失敗、ですよ?」
「失敗かどうかは、飲む側が決める」
その言葉は、薬師としての常識を、やさしく裏切っていた。
午後三時のお茶会は、次第に二人の習慣になった。
庭を一緒に歩き、
薬草の手入れをし、
ときどき、他愛のない話をする。
エドワードは、自分のことを多く語らなかったが、聞き役に回るのが上手だった。
「学院では、ずっと首席でした」
「それは……大変だったな」
彼は、褒めもせず、驚きもしなかった。
ただ、そう言ってくれた。
大変だった。
その一言で、リリエルは胸が詰まった。
努力は当たり前で、結果を出して当然。
誰も「大変だったな」とは言ってくれなかった。
「君は、何かを成し遂げた時だけ笑う」
ある日、エドワードがそう言った。
リリエルは、言葉を失った。
「……そう、でしょうか」
「自覚はないみたいだな」
彼はカップを置き、彼女を見た。
「今はどうだ? 何もしていないが」
午後の光が、東屋に差し込む。
風が、彼女の髪を揺らした。
「……今は」
リリエルは、ゆっくり息を吸った。
「少し、楽です」
エドワードは、ほんの一瞬だけ笑った。
「それでいい」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
数日後、王城から一通の書簡が届いた。
王都で軽い疫病が発生し、
かつてリリエルが提出した治療理論が必要だという。
――役に立てる。
その考えが、無意識に浮かんだ自分に、彼女は苦笑した。
夕方、エドワードにそのことを話すと、彼は黙って聞いていた。
「行くのか?」
「……分かりません」
戻れば、また同じ日々が待っている。
けれど、患者を見捨てることもできない。
エドワードは、引き留めなかった。
「行くなら、行けばいい」
そして、少し間を置いて言った。
「帰ってくる場所は、ここにある」
その言葉は、約束のように、静かだった。
リリエルは、初めて「戻りたい」と思った。
役に立つためではなく、
午後三時のお茶会のために。
王都は、療養庭園とは別の世界だった。
人の声が絶えず、馬車が行き交い、建物の影すら慌ただしい。
リリエルは久しぶりに立つ城門の前で、小さく息を整えた。
――私は、もう王城の人間じゃない。
そう思うだけで、肩の力が抜ける。
案内された医療棟では、薬師や医官たちが慌ただしく動いていた。
彼女の姿を見つけると、安堵と戸惑いが混じった視線が集まる。
「アストン嬢……来てくれたのですね」
「はい。状況を教えてください」
敬語は自然に出たが、心は以前ほど緊張していなかった。
自分の知識が必要とされている。それは事実だ。
だが、それが自分の価値のすべてではないと、今は分かる。
患者たちを診て、処方を組み、指示を出す。
作業は滞りなく進み、疫病は想定よりも早く収束へ向かった。
その日の夕刻、リリエルは呼び止められた。
「……少し、話がしたい」
王太子だった。
かつて、隣に立つことを求められていた人。
今は、どこか距離を感じる。
「君が来てくれて助かった。
やはり、君の知識は――」
「殿下」
彼女は、やさしく言葉を遮った。
「私は、役目を果たしに来ただけです」
王太子は、戸惑ったように口を閉ざす。
「……怒っているのか?」
リリエルは、少し考えた。
「いいえ。怒ってはいません」
本当だった。
怒りは、もうどこにもなかった。
「ただ、分かったのです。
私たちは、同じものを見ていなかった」
彼は沈黙した。
「私は、誰かの期待になるために笑っていました。
殿下は、それを“完璧”と呼んだ。
でも――それは、私の幸せではありませんでした」
王太子は、ゆっくりと目を伏せた。
「……そうか」
それ以上、言葉はなかった。
翌日、正式な褒賞の話が持ち上がった。
地位の回復、研究資金、そして――
「もし望むなら、婚約の再考も可能だ」
そう告げられたとき、リリエルは迷わなかった。
「すべて、辞退いたします」
その場が、静まり返る。
「私はもう、自分の居場所を見つけました」
それ以上の説明は、必要ない気がした。
王都を発つ馬車の中で、リリエルは不思議なほど穏やかな気持ちだった。
やり残したことはない。
夕暮れ時、療養庭園に戻る。
あの東屋が見えた瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
午後三時は、もう過ぎている。
今日は、お茶会はできないだろうか。
そう思ったとき――
「おかえり」
聞き慣れた声がした。
エドワードは、東屋に立っていた。
手には、二つの茶器。
「……待って、いたんですか?」
「帰ると言っていただろう」
それだけで、十分だった。
リリエルは、東屋の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「王城では……色々ありました」
「そうか」
「でも、もう戻りません」
エドワードは、何も聞かず、ただ頷いた。
彼女は、ふと気づく。
この人の前では、説明しなくていい。
選択を、正当化しなくていい。
「……私」
言葉が、自然と溢れた。
「役に立たなくなったら、誰にも必要とされないと思っていました」
エドワードは、静かにカップを置いた。
「違う」
短い否定。
「君は、ここにいるだけでいい」
胸が、熱くなる。
「それは……甘えではありませんか?」
「甘えていい場所がない人ほど、そう言う」
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「君は、よくやりすぎだ」
夕暮れの光が、二人を包む。
その中で、リリエルは初めて、自分から言った。
「……明日も、お茶を淹れてもいいですか?」
エドワードは、少し驚いた顔をしてから、はっきりと答えた。
「ああ。
できれば、これからも」
その言葉は、約束だった。
誰かの期待ではなく、
誰かの隣として生きる未来への。
翌日、療養庭園の東屋に差し込む光は、昨日よりもやわらかく、暖かかった。
リリエルは、薬草を揃えながら、ふと笑みを零す。
昨日の王城でのこと。
王太子に再婚約の話を断った瞬間、心の奥にぽっかり穴が開いたような感覚があったが、それはすぐに消えていった。
誰かの期待を背負わずに笑うことの、心地よさ。
そして、誰かの隣でただ存在するだけで価値を持てることの、確かさ。
その感覚は、エドワードの存在とともにあった。
午後三時。
小鳥が歌い、風が葉を揺らす。
エドワードは、少し遅れて現れた。
「待たせたか?」
「いえ。ちょうどお茶を淹れ終えたところです」
リリエルは差し出した茶器を置き、二人で向かい合う。
沈黙の中で、エドワードが言った。
「君が、笑うのは自然だ」
言葉少なく、しかし重みのある肯定。
「……自然、ですか」
リリエルは微笑む。
これまで誰かの期待で笑ってきた日々と違い、今は心からの笑顔だった。
「今までは、無理に笑っていた気がします」
「そうか。もう、その必要はない」
短く、しかし揺るがない言葉。
リリエルは、胸が熱くなるのを感じながら、ひとつの決意を口にした。
「……明日も、またお茶を淹れていいですか?」
エドワードは少し驚き、そして静かに微笑んだ。
「ああ。できれば、これからも」
その言葉には、約束の匂いがあった。
王城での役目や功績よりも、
誰かの隣で笑うことの尊さが、ここにある。
リリエルは、薬草に手を伸ばす。
小さな手の中で、葉が揺れる。
そして心の中で、そっとつぶやいた。
「――私、ここで、生きていいんだ」
エドワードも、無言で頷いた。
言葉にする必要はない。
互いの存在が、すでにすべてを語っていた。
午後三時。
二人だけの静かな時間。
微かな風に、葉の揺れる音。
そして、お茶の湯気。
リリエルは初めて、誰かに必要とされることの心地よさを噛みしめた。
役に立たなくても、期待に応えなくても、ここにいるだけで十分に価値がある――その幸福を。
そして、彼女は未来を見据えた。
誰かの期待のためではなく、
自分のため、そして、隣にいる人のために生きる未来。
茶器を手渡す手と手が触れ合う。
彼の瞳が、優しく微笑む。
リリエルも、ゆっくりと微笑み返した。
「……毎日、お茶を淹れます」
「楽しみにしている」
小さな声で交わした約束。
それが、二人の新しい日常の始まりだった。
庭園に夕陽が差し込み、影が長く伸びる。
リリエルは心の中でそっとつぶやく。
「役に立たなくても、私は幸せになれる」
その言葉とともに、静かな幸福が庭園に満ちた。
誰もが望むような大きな勝利も、派手な復讐劇もなかった。
ただ、二人が穏やかに、そして確かに生きていく――
それだけで十分だった。
読んでくださり、ありがとうございます。
ヒロインが自分の居場所を見つける、静かで甘い恋物語でした。
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