8話:影の救出
濃い霧が漂う城下町の路地裏を、あたしは影のように駆けていた。
普段なら朝の祈りを告げる清らかな鐘の音が響く時間だ。だが今、街の空気を震わせているのは、ガンガンガンと乱暴に打ち鳴らされる不吉な早鐘。
教皇国の聖騎士たちが動き出した。
「異端狩り」の名目で、公国の主権を無視して。
旧市街の廃醸造所に辿り着いた時、最悪の光景が目に入った。
朽ちかけた煉瓦造りの建物の前に、純白の外套を羽織った数十名の聖騎士が集結している。松明の炎が湿った空気にオレンジ色の影を落とし、焦げた油と狂信の臭いが立ち込めていた。
「異端の芽を焼き払え! 光神ソラリスの沈黙は、即ち我らの鉄槌を求めておられるのだ!」
指揮官が剣を振り上げた。建物に火が放たれようとしている。
中には、まだ保護対象がいる。
あたしは唇を噛んだ。
裏手から侵入する経路を探る。だが、包囲網が厚い。強行突破すれば、中の男もろとも消し炭だ。
その時だった。
ダダダッ、と激しい馬蹄の音が石畳を叩いた。
一人の若き将校が、愛馬を駆って聖騎士たちの目前に割り込んだ。
「待て! 教皇国の無頼ども!」
鋭い一喝が朝の冷気を切り裂く。松明を投げようとしていた聖騎士たちの手が止まった。
「貴国のビショップ・マルクスは、あろうことか病床にある我が公王に呪詛をかけ、暗殺を企てた!」
聖騎士たちの間に動揺が走る。
「その弁明も、教皇庁からの正式な謝罪も未だ届いてはおらぬ! その上、さらに我が国の城下を焼き、主権を蹂躙しようというのか? それは即ち、教皇国が我がレムリア公国に対し、公然たる宣戦布告を行ったと見なしてよろしいか!」
あたしは物陰から様子を窺いながら、内心で舌を巻いた。
あの将校、名は確かレオン。アラリック団長の懐刀だ。殿下の命令を、完璧なタイミングで、完璧な温度感で遂行している。
「な、何を馬鹿なことを……マルクス様がそのような……」
狼狽する指揮官に、レオンが畳み掛けた。
わざとらしく大きな溜息をつき、野次馬にまで聞こえる声で呟く。
「……やれやれ。教皇国がこうまで傲慢で、話が通じぬ相手だとは。もはや致し方あるまい。これより城へ戻り、殿下に『帝国の保護下に入る交渉』を直ちに進めるよう、進言するほかあるまいか……」
「帝国に下る」。
その言葉は、聖騎士たちにとって死刑宣告だ。レムリアが帝国の軍事拠点になれば、教皇国は喉元に刃を突きつけられる。自分たちの独断がきっかけでそうなれば、本国で火刑に処されても文句は言えない。
「……火を、下ろせ」
指揮官が苦渋の声で命じた。
松明が次々と地面に投げ捨てられ、じゅうっと音を立てて消えていく。
今だ。
あたしは動いた。
影のように廃醸造所の裏手から侵入し、腐った木材の匂いが充満する地下への階段を駆け下りる。真っ暗な闇の中、怯えきった小動物のような気配を感じ取った。
「ウーゴか」
低い声で問いかける。
「ひっ……! だ、誰だ」
「レムリア公国、侍女長リオラだ。殿下の命で、お前を保護しに来た」
暗闇から、痩せ細った男が姿を現した。目元には病的な隈があり、汚れた帝国の軍服の端をせわしなく弄っている。
「う、嘘だ……なぜ、この国の王が、私のような脱走兵を……」
「お前が持っている情報が必要だからだ。詳しい話は城でする。今は私に従え」
あたしはウーゴの腕を掴んだ。骨と皮だけの細い腕。
「生きたければ、黙ってついてこい。聖騎士たちが戻ってくる前に」
廃醸造所の奥にある隠し通路から、地下水路へ滑り込んだ。
数分後、聖騎士たちが再び踏み込んだ時には、そこには鼠一匹残っていなかった。
◇ ◇ ◇
城の最奥にある隠し部屋。
窓のない空間に、魔導ランプの明かりだけが灯っている。
あたしは片膝をついて報告した。傍らには、泥と地下水路の汚臭にまみれたウーゴが震えながら跪いている。
「……お救いいただき、感謝いたします、殿下。こちらがウーゴ。帝国の輜重部隊にいた男です。教皇国に殺される寸前でしたが、幸い、舌は無事なようです」
ウーゴが床に額を擦り付けた。
「で、殿下……信じてください、私はただ、生き延びたかっただけなんです。帝国の軍糧が北の鉱山からの『略奪』で賄われていることや、今回の侵攻の本当の狙いを知ってしまったから……口封じに殺されると思い、逃げ出したのです」
殿下は静かにその姿を見つめていた。
この男の情報は本物だ。北のドワーフたちが帝国に抱く怒りの根源。その証拠となる男。
殿下があたしに視線を向けた。
「リオラよ」
「はい」
「自分の命が、私の命令よりも何よりも優先すべきだと肝に銘じろ。お前を失えば、私の目は潰れる」
あたしは、一瞬だけ目を見開いた。
これまで「死んででも果たせ」と言われることはあっても、「生きろ」と言われることなどなかった。
諜報員とは使い捨ての駒だ。そう教えられてきた。そう信じてきた。
「……ただ、今回はよくやった。見事だ」
胸の奥が、熱くなった。
任務だ。それ以上でも以下でもない。そう自分に言い聞かせる。
だが、この主のためなら——
あたしは深く頭を垂れた。
「……肝に銘じます。この命、殿下の御心のままに」
顔を上げることができなかった。
表情を見られたくなかったからだ。
◇ ◇ ◇
殿下が、控えていたアラリック団長に視線を向けた。
「アラリックよ、先ほど見事な働きをした、そなたの懐刀の力を借りたい」
アラリックが誇らしげに胸を張った。
「我が懐刀、レオンでございますな。彼は平民の出身ながら、貴族の傲慢さを見抜く目と、窮地でこそ冴える機転を持っております」
扉の外へ声がかかり、先ほど聖騎士を退けた若き将校が入ってきた。黒髪に理知的な瞳を持つ、精悍な青年だ。
あたしは彼の動きを観察した。隙がない。足運びも視線の配り方も、訓練された者のそれだ。
「レオン、前へ」
レオンは殿下の前に進み出ると、流れるような動作で跪いた。
「殿下、ウーゴの情報を、北へ向かったカイルに届けてほしい」
殿下が指示を出した。
「ドワーフたちは帝国に聖域を荒らされている。ウーゴという『生き証人』とその情報は、彼らの怒りに火を注ぎ、同盟へと傾かせる燃料になる」
レオンの目に、理解の光が宿った。
「ただし、カイルの荷物をこれ以上増やしても足手まといだ。ドワーフ領に入る前に情報を引き継ぎ、ウーゴは帝国にも教皇国にも手の届かぬ場所へ隠せ」
「承知いたしました、殿下」
レオンは力強く答えた。
「このレオン、命に代えてもこの男と情報をカイル殿のもとへ届けます。追手は、私が煙に巻いてみせます」
殿下が頷いた。
「期待している。……だが、命に代えてもなどと言うな。お前も生きて帰ってこい」
レオンの目が、一瞬だけ揺れた。
そしてすぐに、深く頭を下げた。
「……御意」
あたしはその光景を見ていた。
また一人、この主に賭ける者が増えた。
それが、この国の希望なのか、それとも破滅への道なのか。
今はまだ、誰にも分からない。
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