40話:幸せな夢
それから、長い長い年月が流れた。
季節は巡り、戦火の跡は緑に覆われ、かつて血で洗われた大地には花が咲いた。
◇◇◇
私は、最後の書類に署名を終えた。
震える手で羽根ペンを置き、窓の外を見る。
かつて難民キャンプだった場所には、今は美しい街並みが広がっている。
レムリア公国は、殿下の宣言通り王政を廃止し、民が代表を選ぶ共和制の国へと生まれ変わった。
その制度構築に、私は残りの生涯のすべてを捧げた。
法と秩序の礎。民が民を守る仕組み。
殿下が夢見た国の形を、私は文字にして残した。
「ヴァイン様、お休みになってください」
若い官僚が、心配そうに声をかけてきた。
かつての私のように、真面目で、少し堅物な若者だ。
「いや、もう少しだけ」
私は微かに笑った。
「殿下に顔向けできん仕事は残せん。それが、私の口癖だったろう?」
窓の外では、夕日が沈もうとしていた。
美しい茜色が、新しい国の街並みを染めている。
殿下。
あなたが託した国は、こんなにも美しくなりました。
私は、満足げに目を閉じた。
◇◇◇
僕は、杭の聖堂の警備隊長になっていた。
あの日、野良犬だった僕に名前と居場所をくれた王。
その王が眠る場所を守ることが、僕の生きる意味になった。
毎朝、聖堂の掃除をする。
毎晩、結晶の前で報告をする。
今日も国は平穏でした、と。
「隊長、交代の時間です」
若い衛兵が声をかけてきた。
僕よりもずっと若い、希望に満ちた目をした青年だ。
「ああ、頼む」
僕は、結晶の中で眠る殿下を見上げた。
その顔には、微かな笑みが浮かんでいる。
まるで、僕たちの平穏な日々を、夢の中で見守っているかのように。
殿下。
僕は、あなたの王命を守っています。
幸せに、生きています。
◇◇◇
俺は、表舞台からは姿を消した。
博打打ちに、表の仕事は似合わない。
だが、国の経済が傾きかけた時や、裏社会の均衡が崩れそうになった時、俺は必ず現れた。
「謎の博打打ち」。
そんな噂が、街には流れているらしい。
今日も、一つの危機を未然に防いだ。
南の商人が仕掛けようとした経済戦争を、カード一枚でひっくり返してやった。
酒場の隅で、俺はスキットルを傾けた。
中身は、あの日と同じ安物の酒だ。
窓の外には、平和な街の灯りが見える。
退屈だ。だが、悪くない。
殿下。
あんたの勝ち分は、きっちり守ってるぜ。
地獄の底から、笑って見ていてくれよ。
◇◇◇
あたしは、外交官になっていた。
影の仕事は、もうほとんどしていない。
殿下が望んだ通り、表舞台で、陽の光の中で生きている。
「双対の華」。
あたしとルークは、そう呼ばれるようになった。
外交の場では華麗に、裏の仕事では冷徹に、殿下が愛した国を守り続けている。
今日も、一つの条約を締結した。
かつて敵対した教皇国との、新たな友好条約だ。
会議室を出ると、夕暮れの空が広がっていた。
あの日、殿下が人柱になった時と同じ、美しい茜色。
殿下。
あなたの影は、この国の光になりました。
あたしは、胸を張ってそう言えます。
◇◇◇
ある晴れた日の午後。
静寂に包まれた聖堂を、杖をつきながらゆっくりと歩く一人の老人がいた。
かつての巨躯は少し小さくなり、顔には深い皺が刻まれ、髪は純白になっていた。
だが、その瞳の輝きだけは変わらない。
老いた自分だった。
黒い結晶の前に辿り着くと、軋む膝を折って静かに跪いた。
冷たい石床の感触が、懐かしい記憶を呼び覚ます。
「陛下」
自分の声は、枯れていたが、穏やかで温かかった。
「あなたが眠ってから、もう何十年も経ちました」
自分は、結晶の奥で眠る、若き日のままの主君を見つめた。
「この国は、あなたが夢見た通りの国になりました。王がいなくとも民が自ら考え、支え合う、強くて優しい平穏な国に」
自分は、皺だらけの顔で微かに笑った。
「ヴァインは、十数年前に天寿を全うしました。最期の瞬間まで、あなたの遺志を継ぐことだけを考えていましたよ」
自分は、昔話をするように続けた。
「カイルは、相変わらずどこかで博打を打っているようです。風の噂では、南の島を一つ賭けで手に入れたとか。しかし、国の危機には必ず影から現れます」
「リオラは、今も外交の最前線で戦っています。もう若くはありませんが、あなたの影として、最後まで戦い続けるでしょう」
「ルークは、この聖堂の警備隊長として、あなたの眠りを守り続けています。あの野良犬だった少年が、立派になりましたよ」
自分は、深く、長く息を吸った。
肺の奥に、聖堂の清浄な空気が満ちる。
「自分も、もう長くはありません。剣を振るう力も衰えました。しかし、あなたの遺志は、自分の息子たち、孫たち、次の世代に確かに継がれています」
自分は、震える手で、冷たい黒い結晶の表面に触れた。
そこには、かつて握りしめた殿下の手の温もりが残っているような気がした。
「陛下。いえ、我が友よ」
自分の目に、熱い涙が滲み、頬の皺を伝って落ちた。
「あなたの最後の王命を、自分は守りました。働くのもほどほどに、長生きしました」
自分は、涙の中で微かに笑った。
「幸せな、人生でした」
自分は、時間をかけてゆっくりと立ち上がった。
足取りはおぼつかないが、その背中は誇り高く伸びていた。
「だから、どうか安心して、眠り続けてください。この大陸は、もう大丈夫です。あなたが護りたかったものは、自分たちがすべて、未来へと繋ぎました」
自分は、主君に対する最後の敬礼のように深く一礼をして、聖堂を後にした。
扉が閉まる音が、静かに響く。
黒い結晶の中で、若き王は眠り続けていた。
その顔には、変わらず、微かな、しかし満ち足りた笑みが浮かんでいた。
それは永遠に続く、幸せな夢の始まりだった。
《完》
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